35 距離は縮まれど関係は変わらず
結局、エステルの境遇について知ったところで、ヴィルフリートの彼女への態度は変わらなかった。
いや、正しくは拒絶の方向ではなく許容、より正確に言えば積極的に関わるようになった。
節度を持った触れ合いを許すようになった、と言うべきか。
抱き付かれれば相変わらず戸惑うし羞恥から離れようとするが、嫌がりはしない。諦めが早くなった。そして、何よりエステルへの態度が、ほんの少しだけ砕けた。
「ヴィル、まだですかー?」
「はいはいまだなので大人しく座っていてくださいねー」
相変わらず、夕食サービスも続いている。
材料費と給料をもらっているのでサービスと言っていいのかは分からないが、ご奉仕している事には違いないだろう。
マルコに主夫と言われるのも、傍から見れば間違ってはいない。ただ妻帯はしていないし、エステルも配偶者という訳ではなく、今のところただの上司様なのだが。
「……待ちきれませんー」
「そこの保冷庫にゼリー作って入れてますから、それ食べて待っていてください」
「ほんとですか!」
「ご飯前ですから一つだけですよ」
視線もエステルには向けず、子供を相手するようにあしらったヴィルフリートは、そのまま鍋の様子を見ては火加減を調整している。
最早手慣れてしまった事に笑えばいいのか嘆けばいいのか。
ご飯の前では無垢なお子様になるエステルの扱い方を心得てしまったヴィルフリートは、素直にゼリーを取り出して喜びの声を上げているエステルにひっそりと苦笑した。
ご飯を食べ終えて後片付けを済ませて部屋に戻ると、エステルはソファで寛いでいた。遠慮なし、とは言わないものの、自前のクッションを抱き締めてヴィルフリートを待ち構えている。
クッションやらブランケットやらちょこちょこ増えていくエステルの私物に、注意するつもりはないもののエステルの快適居住空間がどんどん作り出されている事は否めない。
その内お泊まりセットを持ってきそうなので、それだけは全力で勘弁願うつもりだ。
流石にこれ以上泊めたりすると、諸々まずい。外聞と理性が、特に。
エステルの隣に座ると、すすすとエステルが体を寄せてくる。
べったり、という訳ではなく、少し動けば触れ合い程度の距離だが、それが何とも心地良いらしくエステルの頬を緩めていた。
ちら、と彼女の方を見れば、何の警戒もない純粋な親愛の眼差しを向けられる。
こちらが笑いかけた訳でもないのにふわふわと淡い笑みを浮かべて瞳を眇めているのだから、ヴィルフリートに対するエステルの信頼度の高さがよく分かるだろう。
「ふふふ」
「どうしたんですか」
「いえ、隠し事をしないって楽だなあって」
ご満悦そうなエステルがこぼしたのは、今まで感じていたらしい後ろめたさが解放された喜びだった。
エステルも最初からヴィルフリートが十年前の関係者だったとは気付いていなかったらしいが、気付いてからは余計に罪悪感を抱いていたらしい。
それが解消された今、彼女は解放感に満ちているのだろう。
「左様で。……いえ、一つ隠し事してますよね」
「え?」
「特別なお仕事とは何ですか」
別に今追及しなければいけない訳ではなかったが、気になっていた事を一つ、問いかける。
先日の吐露で筆頭魔導師の仕事を代理で定期的に行っているのは分かったが、肝心のその内容が分からないままだ。
エステルがあれほど疲弊する仕事とは、一体何なのか。
そこに質問が来るとは思っていなかったらしいエステルは瞳をしばたかせたが、意味を噛み砕いたらしくちょっと困ったような表情に。
「うーんと、一応歴代の筆頭魔導師と補佐官、及び王族くらいにしか伝わってないのですけど……まあ良いでしょう」
「えっ」
流石に大事なのは察してヴィルフリートが躊躇いを見せるものの、エステルはまあいいかと結構楽天的に許可を出している。
もしかしたら聞かない方が、と思ったものの「どうせその内ヴィルも関わるようになりそうなので」と巻き込む前提でエステルは肩をすくめた。
「先日、私は筆頭魔導師の仕事を偶に代わってるって言いましたよね?」
「ええ」
「じゃあ、筆頭魔導師が何をしているのか、ヴィルフリートはどこまで知っていますか?」
「……魔導院の運営とかその辺はしているでしょうね。あと、魔物駆除。思い当たるのは、それくらいです」
筆頭魔導師に憧れていたのに筆頭魔導師の仕事の全容を把握していない、というのは滑稽な事だろう。しかし、それほどまでに筆頭魔導師とは謎の地位だ。
魔導師の頂点に立ち魔導師を束ねる、魔導院の運営に携わっている、程度が共通の認識であり、具体的な仕事内容はあまり明らかにされていないのだ。
「そうですね、魔導院運営の最終決定権を持っているのは確かです。まあそれはおまけであって、他にもお仕事があり、こちらが重要なのです」
「重要なお仕事、ですか?」
「……うーんと、どこから話せばいいでしょうか。筆頭魔導師の主な仕事が、国土の管理と言えばいいのでしょうか」
「国土の管理?」
いきなり大きな話になった。
国土の管理、と言われるとスケールが大きくて戸惑うのだが、領地の管理だと思えばいいのだろうか。しかしそれならば領主がしている筈で、わざわざ国土の管理が必要になるのだろうか。
そんな考えが顔に出ていたらしく、エステルはやや説明しにくそうに頬を押さえる。
「こう言ってしまうと誤解を招くのですが……ええと、もしヴィルのおうちの敷地が荒れていたら、整えようとしますよね? それの大規模なものだと思って下されば結構です。国土、というか大地そのものというか」
「大地……ですか? これまた大がかりな」
「まあ、そうですね。……この国の土地は基本的に穏やかですし安全でしょう? この国の大地が豊かなのは、奥深くに栄養の根が張り巡らされているからです。地脈みたいなもの……でしょうか? 筆頭魔導師はその脈を魔力でコントロールするのですよ」
エステルは軽く言っているが、ヴィルフリートが想像していたよりも大きなスケールでの仕事で、ヴィルフリートとしては固まるしかない。
魔物から国を守るとか、そういうものではない。文字通り、国を守り維持管理する、そういう仕事を、筆頭魔導師はしているらしい。
だからこそ筆頭魔導師は権力を持ち相応の振る舞いを求められるのだろう。王族とは別の形で、国を管理しているのだから。
「まあ、分かりやすく言えば大地のお医者さんになると言いますか……その脈にも自己再生と自浄作用は勿論あるのですけど、どうしても傷むのですよ。筆頭魔導師は、この王都という心臓から広がる血管に血を行き渡らせて、切れている血管があれば治す、そんなお仕事ですね。定期メンテナンス、といえば良いでしょうか?」
人間が体調不良になった際は休んだり医者にかかる、それは大地も同じ事、とエステルはすみれ色の瞳を細めてそう口にする。
「逆に、普通の魔導師は外からの治療と思っていただければ結構です。魔物は大地から出た膿みたいなものです。駆除が治療行為にあたるのです。どちらも欠かせない行為なのですよ」
まあ膿とか言いつつ人間は食べたりしてますけどね、と苦笑するエステル。
死骸をそのまま放置してしまえば土地を汚すが、持ち帰って人間が処理する分に大地に影響はないらしい。
魔導師が魔物の死骸は捨て置かないようにしろと厳命されるのはそのためなのだろう。持ち帰るなり食べるなり燃やすなりして、土地に膿のまま吸収されるのを防ぐために。
「……責任重大すぎませんか」
「まあそうですね。なくせば、国が滅びるとは言いませんが緩やかに衰退して、やがては人の住める土地ではなくなるでしょう。他の国はそうでもないのです。この国が特別なのですよ」
だからこそ豊かなのです、そう締めくくったエステルは、ふと王城のある方を見る。
正しくは、城よりももっとどこか遠いところを見ているのだろう。窓から見える城を、ぼんやりと見つめていた。
「国の維持を果たす場所は国の深部にあります。手出し出来る人間を限らなければならない。間違いがあってもなりませんから」
「だから、筆頭魔導師という役職が出来上がったのですね」
「……ええ。筆頭魔導師という制度を作り当代で最も優秀な魔導師を据えるのです。国に尽くす代わりに、権力を。そして逃げないように誓約を課し見張れるようなシステムになっています」
聞けば聞く程、ヴィルフリートが想像していた栄光の地位である筆頭魔導師は、歪んだ成り立ちをしているようにも思えた。
要は、体のいい人身御供のようなものなのだろう。飼い殺しにも似ているかもしれない。筆頭魔導師の献身によってこの国は栄華を保たれているのだから。
「ディートヘルムは、イオニアスを。エリクやマルコは、私が逃げ出さないか見守っています。……私は、兄妹であるが故にイオニアスとほぼ同質の魔力で、仮の証を貰っているので同じように地脈に干渉出来るのです。ですから、私にも見張りが必要なのですよ。半分はイオニアスの干渉、もう半分は単純にお役目のために」
毎日は見張りが居ないとはいえ、監視されるのはあまりよい気分でもないだろうに、エステルは困ったように笑うだけだった。
本人の口から、辛いとか苦しいは、聞かない。
けれど、全部を知ったヴィルフリートは、やはりエステルが苦しんでいるのだと目を背けられなかった。
「筆頭魔導師の仕事は、そんなにも苦しいのですか」
「一回すると魔力殆ど持っていかれる上に、作業に全神経注ぐので物凄く疲弊します。その上でイオニアスに毎回ねちねち言われるし」
「……あー」
どうやら肉体的な疲労というよりは精神的な疲労、及び魔力回路の疲弊なのだろう。
大地の点検をするという大仕事をすれば当然魔力の消費も尋常ではない筈だ。幾ら人並外れたエステルとはいえ、消耗するのも無理はない。
その上で苦手らしいイオニアスに何か言われたら、ストレスも溜まるだろう。
「まあ、それもありますが……同化してると、聞こえるんですよ」
「聞こえる?」
「いろいろな音……というか、感情? が、大地そのものから、聞こえるんです。まあ聞こえる、というのは言い過ぎですが……伝わってくるのですよ。これが物凄く負担なのです」
あまりエステルとしては言いたくなさそうだったから追及は避けたものの、大地から何かが伝わってくる、というのは気になった。
まるで、大地にも感情があるという言い方。
確かに、大地は生きているからこそこうして豊かなのだろうが……伝えてくる、というのは以外というか想像していなかったものだ。
「ですから凄く嫌なのですよ。……ヴィルが癒してくれるから、最近のはそうでもないですけども」
「俺が癒しって」
「あの時の事で元々パスが繋がってたみたいですし、ヴィルの魔力は私にとっての癒しというかご馳走というか……あの、怒りますか」
「何でですか。まあご飯代わりなのは重々承知してるので」
心配そうに見上げてくる上司様には肩をすくめ、ぽん、と頭を撫でる。
最初は気安く触るのは淑女に失礼だと思っていたのだが、本人がむしろ撫でてほしそうなのと、彼女に淑女のしの字があるかも分からないのでもう良いかという気分になったのだ。
もちろん、越えてはならない領分は弁えているが。
「お腹がすくのも、そのせいですか?」
「……あの事件から、私は豊富な魔力を得る代わりに飢餓感に襲われるのです。底が抜けたみたいにね。溜められないというか……魔力は産み出されるのですが、エネルギーが人よりも必要になってしまって……ち、小さい頃はこんなに食いしん坊じゃなかったんですよ!」
「はいはい」
はらぺこは後天的なものだ、と両手をぱたぱたと振って主張する姿はやはり幼げで、微笑ましさを覚える。
エステルも女の子で、やっぱり少しはらぺこ体質を恥ずかしく思っていたらしく、必死に弁明していた。
別に、ヴィルフリートとしては美味しく食べて幸せ一杯なエステルの姿が可愛いと思うので、食いしん坊でも一向に構わないのだ。一杯食べても太らないのだから、体型も気にする必要はないだろう。
……健康面と食費は、しっかりと管理が必要そうだが。
あくまで好きに振る舞うエステルがいい、というつもりだったのだが、エステルはちょっと笑われたように捉えたらしい。
ぷくぅ、と頬に風船をこしらえて、不満げにヴィルフリートを見上げている。そこがまた幼さを強調するのだと、本人は知らないようだ。
「むううう。最近はちょっと抑えてるんですからね! ヴィルの料理美味しくてついつい食べ過ぎそうになるけど!」
「そりゃ光栄で」
「料理に込められたものもそうですが、ヴィルの魔力は、なんというか、私の欠けたものを埋めるというか……分け与えたからなんでしょうけど、一緒に居るといつもよりお腹すかないのです。魔力を直接もらった日には満腹幸せなのですよ」
「魔力を直接?」
「えーと、こう?」
直接、という言葉は、エステルが身をもって分かりやすく答えを示してくれた。
ふに、と唇に、柔らかいものが触れる。
それが何か分からないほどヴィルフリートも鈍くはなかったが、何故、という疑問が浮かんだ。
目の前にすみれ色の鮮やかな光彩を見せてくれているエステルが居るのはおかしい。甘い匂いがすぐ側にあるのもおかしい。温もりが唇に触れているのもおかしい。
おかしい事だらけで、逆に体が動かなかった。
まるで砂糖菓子でも口にしたように甘い味を覚えたのは、きっと錯覚だろう。ほんの表面が触れただけなのに、ひどく甘美なものを味わった気がして。
時間にして、数秒。
いや、エステルが甘えるように擦り寄せたのも含めて桁が増えたが、そんな短い時間での、邂逅。
一度目もこんな不意打ちだったと思い返して頬に熱がのぼるのと、エステルが唇を離したのは同時だった。
うっすら薔薇色に頬を色付かせ、ぺろ、と薄紅の唇を自身の舌で舐めたエステルは、唇を指先で押さえ瞳を細める。
その仕草だけで数多もの男が呆気なく陥落しそうなほどだ。
普段はのんびりのほほんぽやぽや、そんな言葉が似合いそうな彼女だが、ふとした時の仕草は色っぽかった。
魅入られそうになり息が詰まりかけて、落ち着かせる意味も込めてゆっくりと深呼吸して。
「……あのですね、エステル」
「はい」
「気軽にこういう事はやってはなりませんからね」
文字で言うなら二文字の行為。
しかし、それを普通にするにはもっと段階を踏まえてしなければならないというのに、エステルはあっさりと乗り越えて、しかも悪気なくしているのだから、頭が痛かった。
「……嫌ですか?」
「嫌とかではなくて駄目です。あのですね、口付けはもうちょっと大切になさってください。……まさか誰にでもこんな事をするのでは」
「しませんよ失礼な。ヴィルにしかしてません」
「それはそれで大問題ですけどね!」
何を言っているのだろうかこの少女は。
危うく都合よくとらえそうだった。ヴィルフリートは取り敢えずふにゃりと笑ったエステルにでこぴんしておく。色々と彼女は無防備というか、好意を隠さない癖をどうにかさせたい。
どういう好意なのか、ヴィルフリートも分かっているので勘違いしたくないのだ。エステルとヴィルフリートが互いに向けるものは、大まかな区分は同じであれ種類が違うのだから。
「とにかく、いきなりされると俺も色々としぬというか」
「いきなりじゃなければいいですか」
「駄目です」
「……お腹すきます」
「ご飯は振る舞います」
「それじゃ満たされないものがあるのです」
「たっぷり魔力込めますから」
「むう。じゃあ、それで我慢しますけど……ヴィルがしたくなったらいつでもしてくださいね」
「……気が向けば」
しないと言わなかった辺り、自分も欲望に負けてきている気がした。
勢い余ってしかねないのが現状というか、主にエステルが悪いのだ。特別な笑顔を向けられて、くっつかれて、甘えられて、たまにキスされて、それで何もしない方が奇跡なのだと胸を張りたい程だ。
今ですら甘えるようにもたれられて上目遣いでおねだりされているのだから、よく耐えていると褒めてほしいレベルだった。
「……ご褒美にたまにしてくれても良いと思いませんか」
「なりません」
「けちですね」
「けちで結構。そんなに軽々しく唇を売ってはなりませんよ」
「……ヴィルにしかしてません。十年前だって、ヴィルにだけしました」
「……はい?」
十年前、という言葉に目を瞬かせたヴィルフリートに、エステルはちょっと拗ね気味に唇を開く。
「だって、助けるためには魔力を直接大量に流す必要があったから。私とヴィルが禁術で魔力のパスが繋がっていたとはいえ、あの時逆方向に流すためにはそうするしかなかったですもん」
どうやら、互いに初めては十年前に売約済みだったようだ。
ヴィルフリート本人は全く記憶にないが、どうやらエステルが生命の危機を救うためにしていたようだ。覚えていないのが幸いというべきか残念というべきか。
「思えば、そこから繋がりが強化されたのかもしれませんね。つまり、すればする程魔力を通しやすく」
「……駄目ですからね」
「じゃあ、くっつく事は許されますよね?」
「じゃあって何ですかじゃあって。……お願いですから、適度を心がけてくださ……って聞いてませんね」
唇に触れるのは止めた代わりに体を寄せてほんのり微笑んだ彼女に、ヴィルフリートはもうとめるのもやめた。
それが単なる諦めなのか受け入れ体勢なのかは、本人のみが知るところである。
四章スタートです。ストック切れたので不定期更新になります。二、三日に一回更新できればな、と思います。




