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33 近付いた距離

 暫くエステルを宥めるように頭を撫でていたヴィルフリートだったが、そろそろ良いかと手を離す。

 途端に名残惜しそうというか「もう終わっちゃうの?」と言わんばかりの瞳でうるうると見上げられて、もうちょっと触れていても良いのではないかと誘惑に駆られた。


 普段から結構に触れているのだし、今更何を躊躇うのか。

 いやいや傷心気味のエステルの弱味につけこむように触れるのは良くないだろう。


 ヴィルフリートの中の理性と本心がしばらく争って、それから頭を撫でるのは止めておいた。

 理性の勝利である。今のところ。


 しゅーん、と捨てられた子猫のような表情をするエステルにちょっぴり罪悪感を抱きつつ、繋いだ手は離さないでおく。


「……俺は、あなたに助けられたのですね」


 空気を切り替えるように、ヴィルフリートはエステルから知らされたあの時の事を思い出す。

 いや、正しくは思い出せないのだが、あたたかい何かに触れた事は、何となく覚えているのだ。


 エステルはしばらく目をぱちくりとさせていたものの、やんわりとした笑みを浮かべる。


「私もあなたに助けられましたよ。あなたが居なければ、痛みと絶望で生きるのを諦めて死んでいたかもしれませんから」

「……だから、あなたは俺の魔力が好みとかなんでしょうか」

「え?」

「一度魔力が繋がったから、あなたを満たせるのでしょうか。美味しいって言ってますけど、その関係ですかね」


 ヴィルフリートにはエステルの言う魔力が美味しいとかそのような感覚は分からないものの、エステルがヴィルフリートの魔力だけに反応するのは何となく理解してきた。


 おそらく、十年前のあの時のエステルから魔力を分けてもらった事がきっかけで、何かしら変化が起こったり繋がりが出来たのかもしれない。


 ヴィルフリートとしても、あの事件以降異様に魔力の出力が上がっている気がして、慣らすのが大変だったのだ。巻き込まれたせいでヴィルフリートの身にも影響を及ぼしているのかもしれない。


「わかりませんけど……あなたの魔力はあなた自身のものでとても澄んでいます。元々才能があったのを、私の魔力と前任筆頭魔導師の仕業で刺激されて開花した形になるのでしょうね。あなたの魔力そのものが美味しいのと、馴染みやすいのがあるから、とっても美味しく感じるのでしょうか」


 エステルも理屈までは分かっていないらしく、とにかくヴィルフリートの魔力は美味しい、という結論だけで満足しているようだ。


 魔力が美味しい、という感覚が分からないので何とも言えないが、エステルに食べられていると思うと何だかすごい事をされているようにも思えてしまう。


「ま、まあ、つまり、俺はあなたに貰った分を十年越しに返している形になりますね」

「もう利息分を含めたとしてもとっくの昔に返し終わってるくらいですよ。ほんとは、私はこれ以上望んだらいけないのに」

「俺で良いのでしたら、幾らでも望んでくれれば良いですよ」

「……いいのですか?」

「俺としてはあなたのお陰でここまでこれたようなものですし。あなたが望むなら幾らでも支えますって」


 料理を作る事でエステルが喜ぶなら、幾らでも作ってやろうという気持ちになる。いわゆる、なんとかの弱味というやつなのだ。

 それに、作る量が多少(四人前)増えるだけで、ご飯を作るのには変わらないのだから、そう負担も変わらないのだ。迷惑なら最初からご飯を食べに来てもいいと許可しないのだから。


 側に居て、一緒に食事をとって、ゆったりする。

 それが彼女の支えとなるなら、ヴィルフリートは受け入れるつもり……というか、率先してするだろう。なんというか、他の人間に任せるのも危なっかしいし、むかつくのだ。


 負担になったりなどしない、と付け足したヴィルフリートに、エステルはほんのりと期待を込めた眼差しで見上げてくる。


「エステル様?」

「……じゃ、じゃあ……支えてくれますか……?」

「だからそう言ってるでしょう。二言はないですよ」


 その言葉を告げた瞬間、エステルは安堵と期待と歓喜が混ざった表情を浮かべて、ヴィルフリートに体を寄せた。正しくは、抱き付いた。

 隣に居るヴィルフリートの胸に顔を埋めて、背中に手を回し、離さないと言わんばかりに密着するエステル。


「え、エステル様?」

「支えてください。こう、しっかりと」

「……こ、こう、ですか」


 おずおず、とヴィルフリートの方からもエステルの小さな背中に手を回すと、腕の中で幸せそうな気配が漂ってくる。


 ヴィルフリートがエステルを抱き締めたのは、初めてではない。

 けれど、その時よりも緊張するのは、今回は慰めでもなく、純粋な喜びを表してくっついてきて、そんなエステルを抱き締めるからだろう。


 細いのはたまに抱き付かれるのでよく分かるのだが、彼女は小柄だ。ヴィルフリートも大柄という訳ではないのだが、華奢な肢体はヴィルフリートが簡単に包めてしまう。

 その癖曲線に富んだ体つきなので、なんというかとても、悪い事をしている気分だった。


 ただで味わっていいのか、と危機感を覚える程には、エステルは魅力的で。

 押し当てられた柔いものにどうすれば良いのかも分からず、かといって力を抜くとエステルが不満を口にするだろうから、抱き締めるのは止められない。


 役得と言えばそうなのだが、素直に味わえる程、ヴィルフリートも単純には出来ていなかった。


 女の子特有の柔らかさとか甘い香りとかに頭をぐらぐらさせていると、エステルと視線が合う。

 胸から顔を上げた彼女は、それはそれは甘い笑顔で、信頼に満ちた眼差しで、ヴィルフリートを見上げていた。


「側に居て下さい。あなたが離れたいと思うまで」

「……そんな日、来る訳ないだろ」


 口をついて出た言葉は、紛う事なき本心だった。

 取り繕う事のないそれが聞こえてしまったのか、エステルは「ヴィルフリート?」とすみれ色の瞳を瞬かせている。


 ヴィルフリートは、もう一度言い直すつもりもなかったので、いつものように微笑む。

 流石に、全部さらけ出すつもりはなかった。 


「いえ、何でも。……仕方のない人ですね、全く」


 ぽんぽん、と保護者のように背中を叩いて抱き締めるヴィルフリートに、エステルはやや不満ぎみに瞳を細めたものの、結局気持ち良さそうに体を預けている。


 頬を擦り寄せて幸せそうにへにゃへにゃ溶けた表情をしているのは、きっとエステルが最も恐れていた拒絶がなかった安心感によるものだろう。


 それは分かるのだが、自分の腕の中でそんな顔をされると、ヴィルフリートとしては色々と内心で悶えるしかなかった。

 おそらく、誰も居なかったならばのたうち回るくらいには恥ずかしくて、そして満更でもなかった。


「……ねえヴィルフリート、お願いしても良いですか?」


 しばらく胸を渦巻くさまざまなものと格闘していると、エステルは胸にもたれたままヴィルフリートを上目遣いで見る。


 体勢的にどうしても見上げる形になるのは仕方のない事ではあるが、なんというか、非常に甘えられている気分になる。

 というか甘えられているのだろう、これは。


「何ですか」

「敬語を」

「なりません」

「けち」


 どうやら敬語を外して欲しかったらしいエステルが膨れっ面を披露するが、贔屓目抜きに美少女のエステルがしてもただ可愛らしいだけである。


 ちょっと欲が勝って膨れた頬をつつくと、それだけで満足したらしいエステルはふにゃっと柔らかく表情を崩した。


「じゃあ、二人きりならエステルって呼んでください」

「さっきから俺の何かを試そうとしないで下さいよ」

「何かを試す……?」

「いいえ、何でも」


 おそらく説明しても理解を示せないのは分かりきっているので、エステルに説明するのは止めておいた。そもそも説明するのが気恥ずかしいので、もうエステルの疑問を一々解決する気はないのだ。


 名前で呼んで欲しそうな彼女は、ヴィルフリートがなるべく澄ました顔を心がけているのが不満らしい。

 ぐりぐり、と額を押し付けて不服を申し立てているのだが、ヴィルフリートとしては痛くないというか仕草のあどけなさにやっぱりやられていた。


 このままだと色々とまずそうだったので、ヴィルフリートは意を決して、エステルの耳元にそっと顔を寄せた。


「エステル」


 囁くように名前を紡ぐと、喜ぶかと思ったエステルは――俯いた。

 喜んでいるようには、見えない。


「何ですか、自分から呼ばせておいて」

「……い、いえ……ちがうの。その、凄く、胸がぎゅっとして、恥ずかしいですね」


 ちら、と窺ってくる彼女の頬は、いつになく火照っている。

 唇が触れ合った時やタオル一枚で出くわした時にはなかった羞恥が、その一言で、こうも露になる。


 ヴィルフリートは、その表情を見た瞬間思わず抱き締める腕に力を込めた。

 色々と、耐えきれなかったのだ。


「……あーもう。どうしてあなたはそう……くそ」

「ヴィルフリート……?」


 小声で普段らしからぬ口調で悪態づくヴィルフリートに、エステルは頬をほんのりと赤らめたまま問いかける。

 嫌がっている雰囲気がないのが救いであり、同時にガリゴリと理性を削ってもいるのだ。ヴィルフリートを頼って信頼してくれる彼女に嫌がる事をしたくないから、抱き締めるだけで済んでいた。


 常識と理性による制止でギリギリのところで止まったヴィルフリートは、しばらくほっそりとした体を抱き締める。

 落ち着くかといえば落ち着かないのだが、どうしようもなかった。


「……折角なので、俺の事も愛称で呼んで頂けますか」


 そっと問いかけると、エステルはぱちりと大粒の瞳を瞬かせている、それからほんのりとはにかんで「ヴィル」と躊躇いがちに呼んだ。

 それだけで、ヴィルフリートの頬まで赤くなりそうだった。


 エステルの目にもヴィルフリートの照れが明らかだったようで、最初はおずおずと呼んでいたもののすぐに「ヴィル」と朗らかに呼ぶようになって、ヴィルフリートもたまらずエステルの肩口に顔を埋めた。


「……今、俺の浅ましさを痛感しました」

「浅ましさ?」

「こういう時にかこつけて距離を縮めようとした愚かさに恥じ入るばかりだ、という事ですよ」

「距離を縮めたかったのですか?」

「……まあ」

「なら、これで零距離ですね。ほら、くっついてます」


 抱き合った状態なためエステルの言葉通り密着していて距離も何もないのだが、心の距離の方であって先に肉体にされると困る。

 そもそも心の距離すら大分近付いている気がしなくもなかったが、ヴィルフリートが望むものとはまた違う気もする。


「……俺としては、肉体的な距離は、出来ればもう少し離れて欲しいものですが」


 そろそろ我慢出来なくなってきているので、出来れば心の安寧のためと、何よりエステル本人のために離れて欲しかった。


 そっと離れようとしたら、エステルはしょげたように眉を下げる。

 それ以上は抵抗しないようで、ただしょんぼりとヴィルフリートを窺ってくるものだから――ヴィルフリートも、呻いてもう一度腕の中に華奢な体を収めた。


(……最近自制出来てない気がする)


 どこまでもエステルに振り回されて、自分の踏み越えてはならない一線まで踏み越えてしまいそうになっているヴィルフリートは、ひっそりと嘆息。


「……今日一日だけですよ、エステル」


 そう囁くと、腕の中の少女は幸せそうに相好を崩した。

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