30 苦手な相手
エリクやマルコからの視線が突き刺さる。
というのも、原因はヴィルフリートの態度ではなくエステルの態度のせいだが。
基本的に特別な仕事の翌日は鬱状態に近いのだが、今日に限ってはエステルが元気一杯ついでにやる気満々なのだ。
あの何かと理由をつけて仕事をさぼりたがるエステルが、真面目に背筋を伸ばして着席して書類を片付けているのだから、マルコ達も驚きだろう。
それも、二人して遅刻して一緒に通勤したのだから疑惑を持たれても仕方ない。
明らかに訝る表情を隠そうともしないマルコに手招きされて部屋の隅まで移動させられる。エリクも気になったのかついてくる。
監視者というか保護者だな彼らも、と思ったのだが、それは心にしまっておいた。
「ヴィルフリート」
「いえ、言いたい事は分かるのですが何もありませんでしたからね」
彼らが想像するような事は何らしていない。筈だ。あくまで添い寝であって、彼らが想像するような事は一切していない。
本人曰く確かめのキスはノーカウントで行く方向である。
「でもお嬢があからさまに花を飛ばしてるんだが」
「知りません。そもそもあなた方自分の居ないところでされた事は関与しないんですよね」
「ほう、つまり俺らの居ないところで何かあったと。まあ、俺もそこまで聞くつもりはないが、仲良くなったなら何よりだな」
「そのにやにやをしまってから言ってくれませんかね」
おそらく監視の役目抜きに純粋な好奇心が刺激されているらしいエリクに、ヴィルフリートは冷ややかな眼差しを向ける。
もし言えば間違いなくからかわれるだろうしマルコには怒られるか呆れられるか。ヴィルフリートとて自分がしたいと思った訳ではないのでどうしようもないのに。
唇の感触を思い出しただけで、恥ずかしくなる。
女々しいからとあまりこだわる事はしないが、人生初めての口付けがあんな形になるとは思ってなかった身としては、翌日の今でも頭がこんがらがっている。
エステルはむしろ調子良さそうで、ヴィルフリートも悩むのが馬鹿らしくはなってくるのだが。
「お嬢ー、昨日ヴィルフリートとなんかあったか?」
「ちょっ、エリクさん!?」
「ヴィルフリートと、ですか? 何もないですけど、私の確かめたい事が確かめられたので満足です」
誤解を招きかねないので朝にしておいた口止めが功を奏したらしく、キス云々の事は口にしていない。
ただ、どうにも解釈出来る言い方をしているのでエリクは相変わらずのにやにや。
彼の頭の中でどんな想像が展開されているのか考えたくもない。
(絶対あらぬ誤解をされているだろうこれ)
別に、自分とエステルの間で何があったという訳でもない。
ただ、何故かキスをされて添い寝をした。……やっぱり何もなかったとは言えないが、人に言えるような事でもない。
「とにかく、何でもありませんから」
「そうやってムキになる事が怪しいんだよなあ」
「エリクさん」
「睨むなよ。顔が赤いぞ」
指摘されて、頬に熱がこもっていた事を思い知らされる。
昨夜の事を考えたのとからかわれた羞恥で頬が赤らんだのだろうが、タイミングが悪かった。
お陰でにやにやは強まるし、マルコはマルコでこちらを呆れたような顔で見るし、散々だ。
顔を冷まそうにもエステルと視線が合えば甘い笑顔で首を傾げられて、それもままならない。
「……外の空気を吸いに行ってきます。おやつは棚の中に布をかけたかごの中にクッキーがありますのでそれを。お仕事終わってからですよ」
「はぁーい」
この場に居ては多分顔の赤らみはおさまるまいと、ヴィルフリートは逃走を選んだ。
エステルには口止めをしているし、多分、何も言わないだろう。口を滑らせそうで怖いが。
エステルはお菓子を用意しておけば真面目になるだろうし、今日はやけに真面目なので仕事は止めないだろう。
毎日お菓子を作るのは手間ではあるものの、最近ヴィルフリートも学習したので冷凍庫(魔力により稼働)の中にクッキー生地やパイ生地、ムース等突っ込んであるので必要に応じてささっとおやつを出せるようにしてある。
本日のおやつはアイスボックスクッキー。チェッカーやうずまきの柄に仕上げたものだ。
比較的手軽に作れて仕込んでおけば使う前に解凍して焼くだけの便利なおやつである。
焼き菓子生菓子こだわらずなんでも好きなエステルには量の方が大切なので、沢山作っておいた。おそらく出かけている間くらいはもつだろう。
「……なんというか、ご飯係というか飼い主というか主夫というか」
「マルコさんは黙ってください」
ちょっと自覚はあるので強くは言えなかった。
相変わらずのエリクのにやにやを背に、ヴィルフリートはやや乱暴に扉を開けて部屋の外に出た。
「……おや」
出ていかなければよかったと後悔したのは、自分がもっとも苦手とする男と廊下で出くわしたからだ。
「……ディートヘルム閣下」
目の前に立つ長身痩躯の男は相変わらずどこか悪役を思わせる意味深な笑みを浮かべている。
ヴィルフリートを見下ろして、笑みの質をほんのりと変えたもののその意味までは分からなかった。
自然と身構えてしまうのは、自分の左遷に関わっているからだろう。しかし前ほどではないのは、エステルが彼をそう敵視したり悪人だと思っていないからかもしれない。
「そう警戒せずとも、今の私が君に何かしようとは特に考えてはいないから安心するといい……といっても、信用しないだろう。特に私の言う事だからな」
くつくつと喉を鳴らして笑うその姿はどうしても悪人じみているので、ヴィルフリートの表情はどうしても和らげない。
エステルのお陰で多少認識は変わったものの、それでも苦手意識は全く薄れない。話し方や笑い方のせいなので、こればかりはどうしようもなかった。
ただいきなり警戒心を最大レベルまで引き上げる事はなくなったので、それは進歩かもしれない。
「君には多少ではあるが悪い事をしたつもりはある。だが、現実を思い知らせただけのつもりでもある。エステルの力の片鱗を感じれば、筆頭魔導師になりたいなど世迷い言を言う気も失せただろう」
こちらが黙っている代わりに、ディートヘルムは相変わらずの嫌みっぽい声でヴィルフリートの夢を真っ向から否定する。
流石にそこまで言われてはヴィルフリートもカチンとくるので、やや視線が鋭くなってしまう。
「あなたは目障りな俺を追いやって満足でしょうか。……いえ、失言でした。申し訳ありません」
「好きに言うといい」
さして気にした様子もなくただ口の端を吊り上げている男に、やや苛立ちも募る。
けれのそれをぶつけてまた面倒臭い事になっても困るし、……エステルの側から離れるのも何だか嫌だったので、飲み込む事にした。
きゅ、と唇を引き結んだヴィルフリートに、ディートヘルムはただ愉快げに笑った。
「そうだな、さっきの質問に答えようか。私としては満足……というか安心しているよ」
「安心?」
「体よく君をエステルの側に置けた事を、かね」
意味が分からなかった。
――体よく、側に置けた?
「どちらでも良かったんだよ、私としては。君がこちらにつこうが、拒もうが。結果は変わりなかったから」
「……たとえあなたに与したとしても、エステル様のところに行かせたと?」
「そうなるな」
「……何故ですか。俺に何をさせたかったというのですか」
「それを私が言うとでも?」
何か深遠な考えがあるのかもしれないが、それはヴィルフリートに判断がつかない事だ。
ヴィルフリートにとっての事実は、ディートヘルムの手によって左遷されエステルの側に置かれた。これだけだ。
その裏を知りたいのにどうしようもなくて歯痒いが、ディートヘルムが全てをばらす訳がないとも思う。
この男は裏で全部糸を引くタイプであり、他人を動かして事をなすタイプだ。操り人形に情報を与えて糸を絶つような危険は避ける筈だ。
「まあ、何も知らないのも哀れだからヒントをやろう」
歯噛みするヴィルフリートに、ディートヘルムは意味深な笑みを浮かべた。
「答えはエステルが持っている」
「エステル、様が……?」
「ただ、それを本人が言うかは君次第だ。君がエステルに本当に信頼されているのならば、おそらく話してくれるだろう。話さなければ君はそれまでの存在だったという事だ」
自分に聞くのではなく、一番話してくれそうな人間に聞け。そういう事だろう。
エステルを刺激したくない、という気持ちを見抜いた上で言っているような気がして、更に唇を噛む。
代償を捧げる覚悟がないならば、真実は掴み取れない。
自分の好奇心を満たすためにエステルが触れられたくなさそうな話題に触れられるか。彼女の信頼を試せるか。
そう遠回しに言われて、ヴィルフリートの眉間には自然と皺が寄った。
「質問をよろしいでしょうか」
「なんだい」
「……エステル様の背負った、役割とは何なのですか」
「それを私から答えては隠したがるエステルに面目が立たまい。本人の口から教えてもらえるように信頼を勝ち得る努力をしなさい」
当然こちらも答えてくれる筈がない。
それは察していたので、ヴィルフリートはもう一つ気になる事を問いかける事にした。
「……では、もう一つ。ディートヘルム閣下は、エステル様とは……どういった関係なのでしょうか」
旧知の仲、というだけでは収まらないような信頼感がある気がしてならないのだ。
あの冷酷無比のディートヘルムですら、エステルには丁寧に接しているし、可愛がっているようにすら思える。
ディートヘルムの冷酷な一面しか見てこなかったヴィルフリートとしては、不思議で仕方ない……のと、なんというか、特別な感じがしてちょっと面白くなかった。
ヴィルフリートとしては大真面目に聞いたのだが、ディートヘルムは噴き出している。
「……ふっ、はは、そこを気にするとは思わなかった」
「い、いいですからそういうのは。からかわないで下さい」
「ふむ。単純に、エステルは私の教え子の一人で、放っておけない子であるな。とある男の、ある種の忘れ形見であるからね。害しようとは間違っても思っていない事は誓おう」
体を震わせて笑われるので馬鹿にされたと受け取っていいのかからかわれたと受け取っていいのか……おそらく両方だろう。
しかし苛立ちを覚える前に、安堵した。
庇護欲のようなものを抱いているというのと、エステルを害するつもりはない、それだけは確認出来たのだから。
「安心したかい」
「……ええ、ひとまずは」
「そうか。……しかし、随分とエステルに入れ込んでいるのだな。非常に分かりやすい。顔に書いてある」
とっさに言葉を飲み込んだものの、また顔が赤くなって頭を冷やしに出た意味がなくなってしまう。
それは雄弁な肯定になり、ディートヘルムの顔がますます愉快そうに緩んだ。
「君の存在はエステルにとってはとても良い兆しになると思っているのでね、悪くない方向に向かうと思うよ」
「……俺にとってはどうなのですか」
「君が彼女をどう思うかにもよるだろうな。それとも、エステルをどう思ってるのか洗いざらい吐いてくれるのか?」
「……っ」
「青いな君は。こんな質問くらい平然としていないと、後々困るぞ」
からかわれているのは理解していたものの、これ以上しゃべってもまた何か失言をしそうなので唇を閉ざす。
ほんのりとした顔の赤らみを打ち消そうとなるべく無表情になるよう努めるヴィルフリートに、ディートヘルムはただ愉快げに喉を鳴らした。
「私は邪魔になる芽は摘む人間ではあるが、君は邪魔になったというより生える場所を間違えたから移し替えただけだ。無論、余計なものを惹き付けて私の手を後々煩わせそうだったといえば是であるので、邪魔と言えば邪魔だったが」
「……余計なもの?」
「そろそろ動くだろう。君が最善を選ぶ事を、私は願っている」
ディートヘルムの言う事は、基本的に婉曲で分かりにくくしている。本人もそれで振り回したりかき回したりするのが楽しいからわざとなのだろう。
だが、今回は何かを忠告するような響きなのは分かった。
何に、まで言わないのは、そこまで言う義理がないからだろう。
自分の言いたい事を告げたディートヘルムは、ヴィルフリートが言葉の意味を咀嚼する前にさっさと立ち去って行った。
(――そろそろ動く?)
最後に告げられた言葉を反芻して、ヴィルフリートは瞳を細めた。




