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29 徐々に色付く感情

 エステルを支える、と自分の意思で決めたものの、肝心のエステルは居ない。

 仕事がなんなのか、どれだけかかるのか分かっていないので、エステルがどこに居るのかも分からないのだ。


 前の特別なお仕事の時は弱っていたので、もしかしたら今日もまた苦しい思いをしているのかもしれない。

 けれど自らエステルの領域に踏み込んでいいのか分からず、伝達魔法を飛ばす事を躊躇ったのだ。


 結局夕ご飯の時間になっても彼女は来なかったので、今日はやってこないのだろうか。

 就寝前になっても音沙汰もなかったので、もしかしたら大丈夫だったのかもしれない。


 自分の考えすぎか、と魔力灯を消して眠りにつこうとして――そうして、扉が叩かれた。


 ベッドに体を横たえていたヴィルフリートは、飛び起きる。


(まさか)


 控え目に叩かれた扉に、慌てて玄関に向かって扉を開けると……月明かりに揺れる、薄桃が視界下部にあった。

 視線を下げれば、つい先程まで考えていた少女が立っている。


 服装は仕事帰りなのかいつもの魔導師の上着。その上着もよれていて、下のブラウスもやや着崩れている。


「……ごめんなさい。ご迷惑でしたか」

「エステル様、どうかなさったのですか、こんな夜分に……」


 問いかけつつも、やはりというか予想通り……エステルは、弱っているようだった。

 体に怪我はなさそうなものの、表情が弱々しい。苦痛を無理に飲み込んだような、何かをこらえるような顔をしている。


 流石に二回目なので直ぐに家に招き入れるものの、エステルの表情が晴れる事はない。

 鍵を閉めて部屋に連れていこうとしたところで、エステルはヴィルフリートの服を掴んだ。それから、ぽすんと胸にしがみつくように顔を埋めて。


 一瞬心臓が止まりかけたものの、何とか持ち直して自分に身を寄せるエステルを見下ろす。

 小刻みに震えているその姿を見れば、緊張や動揺も萎んだ。


 ここでもし突き放せば、エステルは傷付いてしまう。それに、別に引きはがしたいとか、そんな訳でもないのだ。

 多少、思うところはあるものの、頼ってくれるのは優越感があると会うか、やっぱり嬉しかった。


「……お腹すきました」

「え?」


 一瞬脱力しかけたものの思いの外エステルが真剣に、泣きそうな表情で呟いていたものだから、ヴィルフリートはそっとすみれ色の瞳を覗き込む。

 くしゃりと歪んだ表情は、今にもしずくを生み出しそうだ。

 けれど、すんでのところでこらえてヴィルフリートを見上げている。


「折角一杯だったのに、空っぽに、なったから」

「今、俺は何も食べ物は……」

「……食べ物は、いい、の。……ヴィルフリートが、ほしい」

「……え?」


 固まったヴィルフリートに、エステルは見上げるのを止めてヴィルフリートの胸に顔を埋める。

 離さないで、そう言わんばかりに、身をくっつけて。


「ぎゅー、してください」

「え、あの、」

「……そしたら、がんばれるから」


 甘えるというよりすがりついた彼女は、華奢な体を精一杯ヴィルフリートにくっつけて彼の温もりを求めていた。


 エステルは、助けて、とも苦しい、とも一言も言っていない。

 あくまで、自分の中で処理しようとしていて、それが上手くいかないからこそヴィルフリートを求めたのだろう。


 触れていいのか、望む通りに抱き締めていいのか、逡巡したものの――それが彼女の望みならと、ヴィルフリートは恐る恐る小さな背中に手を回した。


 腕に収めれば、驚く程に小さいのだと分かる。

 華奢で、柔らかくて、頼りない体。この背にヴィルフリートですら知らない重荷が背負わされているのだと思うと、やるせなかった。


(……もっと、吐き出してくれたら)


 苦痛は吐き出さず、ただ温もりと安らぎを求めてすがりついてくるエステルを、ヴィルフリートは出来うる限り優しく包み込むように抱き締めた。

 少しぎこちなかったのは経験がろくにないからだが、迷い子のような彼女を繋ぎ止めるように、ひたすらに優しく受け止める。


 腕の中で弛緩する体。

 離せばふらついて転びそうで、ヴィルフリートはそんなエステルを支えるように抱き締めた。


 いっそ、どこかに座って貰った方が良いのかもしれない。

 疲れているだろうし、立ちっぱなしにさせるのも悪い。そう思ってエステルを離そうとすれば、泣きそうな顔をされたので、ヴィルフリートは躊躇したあとにエステルを抱え上げた。


 どこに座ろうか迷った挙げ句、一番動いても落ちなさそうな寝床に連れていってしまったのだが、色々と全力で後悔していた。

 そういうつもりでは全くないし今何か無体をすればエステルが泣き叫びそうなので何もしない、そしてそんな度胸も気もない、と自分に言い聞かせる。


 幸いエステルは何も思っていないようで、ただヴィルフリートの腿に乗ってそのまましがみついていた。

 少し乱れている柔らかな髪を手ですくと、安心したようにヴィルフリートにもたれて体重を預けるエステル。


 もぞり、とヴィルフリートの顔を見上げて不安げに見つめられて、何というか、心配な反面非常によろしくない感情が湧き上がってくる。

 どうしていいのか、自分でも分からなくて、か細い体を抱き締めて腕の中に収めた。

 これ以上は望まないが、これだけはさせて欲しかった。


「……女性がこんな夜更けに男性の部屋を訪ねるなど醜聞になりかねませんからね、本来。夕食に誘ったりこうして触れている俺が言えた義理ではないですけど。……落ち着くまでは、側に居ますから」

「……はい」

「して欲しい事はありますか」

「……側に居て下さい」

「居ますよ、あなたの側に」


 今だって居るじゃないですか、と囁くと、エステルはゆるりと首を振った。


「もっと」

「……もっと、とは」

「……どこにもいかないで」

「行きませんよ、俺の家ですし」

「……離れないで」

「あなたの気が済むまで離れませんよ」


 まるで幼子のようにせがんでくる彼女だが、実際まだ幼いのかもしれない。


 心を許せる人が殆ど居ない状態で生きてきた彼女の柔らかい部分は、まだまだ成長しきっていないのだろう。

 上手く、他人に頼れなかったからこそ、ヴィルフリートに今までのもの全部を向けているようにも思える。


 負担とは思わなかったが、自分でいいのか、不安になる。

 しかし、エステルが自分を頼ってきたのだから、それは受け止めてあげたいと思う。


(……これはどういった感情なのか、まだ、不確定だが)


 きっと、悪くないものなのだろう。

 慈しみたくて、守りたくて、支えてあげたい。そんな思いを産み出す根本の感情は。


「……何かお話ししましょうか。何が良いですか?」


 なるべく柔らかな声を心がけて宥めるように囁くと、エステルはすみれ色の瞳を揺らがせた。


「……ヴィルフリートの事、聞きたいです」

「俺のですか? 大したお話は出来ませんよ」

「それでも良いです。もっと、知りたい」

「……何を教えて欲しいので?」

「ヴィルフリートの、好きなものとか、嫌いなものとか、欲しいものとか」


 もっと知りたい、と繰り返し呟いたエステルは自分でも確かめるように呟いていて、鮮やかな色の瞳が一生懸命にヴィルフリートを映している。


 きゅ、とシャツを掴んでこちらに顔を近付けてくるので、少々視線のやり場に困ったものの……ここは諦めて、真っ直ぐにエステルに向き合う。


「好きなもの、ですか。甘いものとか、魔法そのものは好きですよ。嫌いなもの……は、そうですね、ディートヘルム閣下の悪どい顔とか?」

「ふふ、ヴィルフリートったら」

「あなたが悲しむ顔も嫌いです」

「……どうしようもないですよ」

「そうだとしても、俺は嫌ですよ。あなたは笑っていた方が似合いますから」


 我ながらキザな台詞だと、ヴィルフリートは笑った。

 それでも、本心だった。


 エステルに、悲しい顔は似合わない。

 いつもののんきな笑顔や、ご飯を食べたあとのようなご満悦の表情や、時たま見せるとろけた笑顔。あの方が彼女は似合っている。陽だまりのような少女に、暗いものは似合わないだろう。


 どうしたら笑ってくれるのか、と出来うる限りで抱き締め頭を優しく撫でて温もりを分けると、エステルのやや不安げな顔は次第に和らいでいく。

 いつも程覇気はなかったが、それでも苦しそうといった色は見せていない。


 ぽん、ぽん、と幼子を宥めるように背中を叩いて寄りかからせると、腕の中の彼女はもぞもぞとくすぐったそうにしている。

 子猫のような仕草で喉を鳴らして、それからふとヴィルフリートの瞳をじっと見つめた。


「……どうして、私はヴィルフリートにこんなにも甘えるのでしょうか」

「俺が聞きたいですよ。そんなに俺に気を許していただけるなんて」

「……ヴィルフリートの側は、落ち着きます。あなたの魔力がそうさせるのでしょうか。……その青い瞳が、そうさせるのでしょうか」


 腿に乗り体をもたれさせて身を預けていたエステルが、腰を浮かせる。


 どうかしたのか、と口にしようとして、呼吸すら止まりそうになった。


 目の前にすみれ色がある事に気付いた時には、ほんのりと唇に触れた柔らかいものが離れていく。

 掠めた甘い香りは、先程感じていたものを一層強くしたもの。甘ったるくはないけれど、確かに感じさせる柔らかな香り。


 しっとりと潤んだ瞳を近くに捉えて、ヴィルフリートが絶句するのとは逆に、エステルはどこかしみじみとしたように頷いて、そのままヴィルフリートの首筋に顔を埋めた。


「……やっぱり、ヴィルフリートは」


 声がくぐもったのは、ヴィルフリートの首筋に声が吸われているから。

 もっと近付いて体を密着させたエステルに、ヴィルフリートはようやく硬直からとけて……そのまま、後ろに倒れ込んだ。


 エステルを乗せて倒れたものの背後はベッドだった為になんら痛くはないが、心臓は痛い程に跳ねている。くっついているエステルにも間違いなく聞こえていそうな程、鼓動は荒ぶっていた。


(――今、彼女は何をした?)


 言われずとも分かっている。

 触れた柔らかさも温もりも、ほんのりと感じた甘さも、何もかもエステルのものだという事は。


 何を、ではなくてどうして、という疑問ばかりが、頭をぐるぐると回る。


 嫌とかそういう以前の問題ではなくて、唇を意図的に重ねた理由が全くもって分からなかった。


「ヴィルフリート?」


 上に乗ったまま、エステルは首を傾げる。

 なんら意識されていないようで腹立たしいのか悲しいのかよく分からない。どう反応して欲しいのかも、自分がどう反応したいのかも、ぐちゃぐちゃになって、もつれて、胸の奥で表に出る事を拒んでいる。


「……今ご自分が何をなさったのか分かりますか」

「え? ……確認をしました」

「何のですか」

「ヴィルフリートが、私の求めているものか確認していました」

「……確認は終わりましたか」

「はい」

「……左様で。……ちなみに、結果は?」

「多分、そうなのかなって」


 何を求めていたのかは分からないが、エステルはご満悦そうだ。

 エステルの体重以上に色々と重いものが胸にのしかかってきて思わず溜め息をつくと、エステルは大分元気を取り戻したのかほんのりと火照った頬で笑った。


「……ヴィルフリートは、また側に来てくれたから、嬉しいです」


 また、という言葉に違和感を抱いたものの、エステルがあまりにも嬉しそうに頬を緩めて頬擦りしたものだから、言葉がつまった。

 もしかしたら、直接唇に触れた時に流し込まれたのかもしれない。逃れられそうにない、甘い毒を。


 眉を下げてへにゃへにゃと頬をふやかした彼女に触れたところが、熱い。動悸も全身を覆う熱もこの場から動きたくない倦怠感も、何もかも、エステルのせいだろう。

 今すぐ離れるべきだと理性は分かっているのに、どうしても体が動かなかった。


「……エステル様、は」

「私は?」

「……もういいです。寝てください。それか離れて帰ってください」

「えっ、い、いやです、離れません。私が良いって言うまで離れないってヴィルフリートは言いました」

「なら大人しく寝てください」


 何だか直接全部聞いてしまうのは無性に恥ずかしくて、ヴィルフリートは乱雑に側にあったシーツを引き寄せて、そのままエステルの上に被せる。


(添い寝はアウトだろうか)


 多分常識に照らし合わせれば間違いなく即アウト判定が出る事はすぐに思い浮かんだものの、ヴィルフリートはわざとそれを頭から追い出した。


(……不可抗力だ、多分)


 エステルが甘えてくるから、悪いのだ。突き放せる訳がない。

 だから、これは仕方のない事。


 ひとまずそういう事にして、ヴィルフリートはそのままエステルをベッドに寝かせて自分は目を閉じた。

 ……いそいそと腕の中に潜り込もうとする子猫の動きを感じて渋々腕を開けると、すぐにエステルが転がり込んできたので、ヴィルフリートの胸の痛みは余計に増す。


 狙ってわざとやってる訳じゃないから、余計にたちが悪い。


(……なんでこうなったかな)


 エステルも、自分も。




 翌日。

 結果として、二人して始業時間に遅刻した。

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