20 かつての苦い記憶
――昨日は死ぬかと思った。
昨夜の事を思い返して羞恥に駆られつつも表には出さずに出勤したヴィルフリートは、第二特務室にエステルの姿を見つけて安堵した。
「おはようございます、ヴィルフリート」
「おはようございます」
不安そうな昨夜の顔は消えて至って元気そうで、ヴィルフリートも何事もなかったかのように挨拶をする。
昨夜の密着はあまり思い出したくないというか、思い出すと色々と困る。具体的には、匂いとか柔らかさとか異性という事実を突きつけてきて、尚且つ信頼されて懐に少しずつ入れてくれている事を思い知らされるのだ。
まだ線引きはされているものの、近い位置に居る気はする。
乗り越えたい、と徐々に思うようになった身として、なんというか、もどかしくてむず痒いのだ。
「……早速ですがヴィルフリート、お腹すきました」
「相変わらずですね。そう言うと思って軽食ですが作ってきましたよ」
変わらない態度に変に意識しても仕方ないかと笑い、持ってきたボックスを彼女に差し出した。
どうやら、今日はエリクもマルコも来ないらしい。
自由な人だ、とは思うものの、もう突っ込む気力も失せているので諦めている。どうせ今日は仕事も……いや昨日の割り振りが出来なかったせいで溜まっているものの、明日出勤して真面目に取り組めば終わる範囲なので何も言うまい。
はぐはぐ、と美味しそうにサンドイッチ(今度は大きさをエステルの口に合わせてきた)を頬張っているエステルを見ながら、まあこんな日があっても良いかな、と苦笑。
今日はがっつり目にクラブハウスサンドに仕立て、それとは別に簡単に出来るコールスローや一口オムレツもおかずとして入れてある。
その内喉をつまらせそうなので部屋に置いてあるティーセットで紅茶を淹れると、丁度喉をつまらせたらしいエステルが泣きそうな顔をしていた。カップを手渡すと、急いで流し込んで喉のつかえを解消している。
「……どうしてつまると分かったのですか」
「慣れてきましたからね。一度に口につめ込まず、しっかり噛んで飲み込んで下さいね」
「はぁい」
板についてきた食事係……というか給仕役に苦笑しつつ、まあこんなのも悪くないな……と食事風景を見守る。
しばらくしてぺろりと平らげたらしいエステルが、自身が座っているソファの横をぺしぺしと叩いた。座れ、という事らしい。
取り敢えず横に腰を下ろすと、エステルがもたれてきた。
(……待ってくれ、何なんだ。急にどうした)
昨日ならまだ分かるが、今のエステルは元気そうだ。こちらに頼る必要はないだろう。
それだというのに、エステルは甘えるように……というよりは、確めるようにこちらの腕にくっついていた。
くん、と昨日のように鼻を鳴らしてヴィルフリートの香りを嗅いでいるらしく「んー」と喉を鳴らしてはもぞもぞと身を寄せている。
腕というのが幸いなところで、不幸なのがエステルの身を押し付けられているところだろうか。
「……昔感じた事のある魔力そっくりなんですよね、ヴィルフリート」
動く事も出来ずに固まるヴィルフリートに、エステルは問いかけるというより自分に確認するように呟く。
エステルと出会った事はない、と思う。こんな目を引く少女に出会ったら、おそらく忘れない筈だ。たとえ小さな頃でも、片鱗はあるだろうし。
「は、はあ……エステル様みたいな美人に会ったら覚えていると思うのでまずないと思いますが……エステル様?」
「いえ、何でもないです」
いきなり肩に顔を埋めたエステルに、どうしたんだと思えば……ほのかに耳が赤くなっている。
そこは照れるのにどうしてくっつくのは照れないのか。
逆にこっちが恥ずかしくなってきてほんのりと頬に熱がのぼってしまう。
ちら、とこちらを見上げてくるエステルの瞳がヴィルフリートを捉えて少しだけ嬉しげに輝いたのを、ヴィルフリートは見ない振りをして、せり上がる甘酸っぱいようで苦い何かを飲み込んだ。
今日はエリクもマルコも、まだ見ぬレティなる人物も居ないので、二人きりの職場だ。
エステルは調べものをするらしく、ヴィルフリートも彼女にお供するべく後ろを歩くのだが……ふと、その歩みを止めた。止めざるを得なかった。
エステルもまた、歩みを止めて視線を持ち上げる。
エステルの目の前には、紫紺の長髪を束ねた男性が立っていた。
特別な魔導師である事を示す、装飾のあしらわれたローブに飾られた徽章は特級を表している。
どこか気だるげで、その癖意味深な笑みを浮かべて、彼はエステルを見下ろしていた。
「ディートヘルム」
「これはエステル、ご機嫌麗しゅう」
腰を折り手を胸に当ててうやうやしく挨拶をする男は、ヴィルフリートが最も苦手とする男……ディートヘルム。
あまり良い思い出がないので出来れば会いたくなかった人物だが、エステルは彼に特段悪感情を抱いている事はなさそうで、案外気軽に話しかけていた。
一応特級魔導師という事ではあるものの、立場はディートヘルムの方が上なのだが……ディートヘルムは、エステルを見下したような雰囲気はない。エステルもまた、それを当たり前のように受け止めていた。
「これは珍しい、貴女がこちらの廊下を通るのは」
「仕事に必要な資料を探そうと書庫に行くつもりだったのですよ」
「それはそれは。……はて、その割には機嫌が良さそうな」
仕事がお嫌いなのに珍しい、と意思の読めない笑みを浮かべるディートヘルムに、エステルは気分を害した様子もなく微笑む。
「ええ、あなたのお陰でとても」
「おや、私が貴女に何かしたかね」
「ええ。素晴らしい補佐官を私につけて下さりましたから」
「……ああ、なるほど」
そこで、ディートヘルムは違う笑みを口許にたたえた。
ヴィルフリートが一番苦手な、何というかいかにも悪役のような、でも下品ではない口の吊り上げ方に目元の緩ませ方。
笑顔というには含みのあるその表情に、ヴィルフリートは無表情を保とうとしたのに目が険しくなってしまう。
どうしても、ヴィルフリートは苦手だ。
左遷された事もそうだが、その表情が苦手なのだ。獲物を捕らえる蛇のような、いつの間にか這い寄って全てを丸飲みしそうな、そんな顔が。
視線がヴィルフリートを捕らえるので、ヴィルフリートは今度こそ無表情でその値踏みするような視線を受けた。
だが、ヴィルフリートに嫌みなどは投げず、すぐにエステルに視線が戻る。
「お気に召したようで何よりだ。あなたが一番求める人材だと思ったので」
「ええ、お陰で毎日が楽しいです。ありがとうございます」
「それは光栄で」
またうやうやしく腰を折ったディートヘルムは、ふと柔らかな表情を浮かべる。
「先日はお疲れ様だったね」
「……いえ」
「体調に問題はないのだね?」
「ええ」
「そうか。それは何よりだ。貴女の身に何かあったら、私も困るので」
どこか気遣わしげな声に驚くのはヴィルフリート。
エステルに対してだけではあるが、ディートヘルムは優しいというか、気にかけているようだ。悪意というものではなく、かといって純粋な善意にも見えないその感情を、何と言ったらいいのか。
対するエステルは、困った……というにはやや不快げな表情だ。ただ、それはディートヘルムに向けられたものではないようにも思える。
「あれがうるさい、の間違いではないですかね」
「私個人としては、貴女の方が心配でね。貴女は脆い」
「……そう、ですね。仰る通りです」
「だからこそ、のつもりなのだよ。私は」
すぃ、と視線がまたヴィルフリートに移る。
今度は、ヴィルフリートを見据えるように、見抜くように、射抜くように。
「ヴィルフリート第二特務室室長補佐官、エステルの事をよろしく頼むよ」
「……はい」
「それでは失礼」
ディートヘルムは、優雅な一礼をして去っていく。
ヴィルフリートがエステルに声をかけるまで、エステルは眉を下げてどこか悲しげに瞳を伏せていた。




