19 欲しいのは人肌
ヴィルフリートが到着すると、エステルは一人でソファに横になっていた。魔力灯もつけないまま、ただ側に伝達魔法で出来た鳥が居る。
窓辺から差し込む頼りない月明かりと淡く光る伝達鳥だけが、その華奢な肢体を薄闇に浮かばせている。
仕事以外は几帳面な彼女にしては珍しく上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに雑にかけていた。
適当に身を投げ出し、ほんのりとめくれ上がっているスカートも気にした様子がない。
気だるげにも見える姿は、本当に珍しく彼女を大人びさせて見えた。
退廃的な色気、とでも言おうか。
その癖不安げに表情を曇らせているので、ちぐはぐな雰囲気でもある。
けれど、ヴィルフリートが姿を見せるとぱっと起き上がってふにゃっと笑うので、すぐにその表情はかき消えた。
「ヴィルフリート」
「エステル様。……どうかなさいましたか」
「……ううん、顔見たら安心しただけです」
「そうですか。それならよろしかったです」
あどけない微笑みは、安堵が見るからに含まれていた。
迷子の幼子が親を見つけた、そう思わせるような表情に、ヴィルフリートは苦笑い。
今日だけは遠慮なく隣に座ると、彼女は嬉しそうに口許を綻ばせる。
「ヴィルフリートは私の特効薬ですね」
「お薬じゃなくてご飯の間違いじゃないですかね」
「……たしかに。ヴィルフリートはおいしそうです」
「自分で話題を提供しておいてなんですが、怖い事は言わないで下さい」
「本当に食べたりはしませんけど」
「分かっていてもあなたの食欲は怖いですからね」
茶化して不安を拭おうとすれば、エステルもそれに釣られてやや頬を膨らませる。
少し拗ねさせるのは忍びなかったが、不安げにされるよりずっと良いだろう。それに、そうして包み隠さず喜怒哀楽をはっきりと露にしてくれる方が、安心出来る。
からかわれた、と分かっているエステルはちょっぴり唇を尖らせて、いじけたと言わんばかりに薄桃の髪を指先に巻き付けていた。
「むぅ。私だって好きでこんなに食べてる訳じゃありません。いえ食べるのは好きですけど、肉体維持に必要というか……食べないと、持たないんです。燃費が悪すぎるので」
溜め息。諦めたような、苦笑いにも近い表情で。
「せめて、役目さえなければもう少し食べる量は減るでしょうが。……何故私がこんな事を、と思うと複雑ですが……存在意義だから仕方ありませんね」
「エステル様?」
「いえ、気にしないで下さい。……独り言ですから」
ああ、また隠し事をした。聞かれたくないと強張った笑みで線を引いて。
それは分かっても、ヴィルフリートにその線を消せもしないし乗り越えられもしない。
マルコには覚悟もないのに深入りするな、と言われたが、今更にそれを思い知らされる。
……エステルの踏み込まれたくない領域に踏み込む事で、彼女を傷付けるかもしれない。
それが怖くて、ヴィルフリートはあともう一歩を踏み出せない。
エステルもまた、踏み込ませたくないからこそああして距離を取ってヴィルフリートが退くのを待っているのだろう。
だから、ヴィルフリートは一歩引いた。弱い部分に触れないように。
結局引け腰になった自分が情けないというよりは、エステルが嫌がるのが怖かったのだ。互いに、臆病だから。
もうその事に触れる気がないと分かったエステルはいつものような表情に戻り、おずおずとこちらを見上げてくる。
「……ヴィルフリートは、食べすぎる女の子は嫌でしょうか」
「あなたらしくて良いんじゃないですかね。俺は一杯食べるあなたが好ましいですよ、作り甲斐ありますし」
「それならよかった」
それで何故かご機嫌になったエステルが、ふにゃふにゃと緩んだ表情で隣のヴィルフリートに身を寄せてくる。
柔らかいのは笑顔だけじゃなくて、触れる体も、態度も、声も、何もかも柔らかい。
どうしてここまで信頼してくれるのか――それは分からなかったが、エステルにとってヴィルフリートは自ら触れたいと望んでくれる、それだけ理解出来た。
(……ああ、仕方ないんだ、それは分かってるが……この体勢は何とかならないのだろうか)
ヴィルフリートが到着するまで不安がっていたのは承知しているので、今ばかりは突き放せない。
ここでスマートに抱き締め返せたなら苦労しないが、そこは独身歴が年齢のヴィルフリートにとって、それは難題とも言えた。
だからこそ、拒みはしないが自らは触れない、そんな中途半端で流されたような状態に陥っていた。
「……ヴィルフリート、いい匂い」
「え? いやまあ風呂上がりですし……」
すんすん、とヴィルフリートの腕にもたれて鼻を鳴らしているエステルは「石鹸の香りとはまた違う匂いがするのですよ」と笑う。
「どうして、あなたはいつもいいにおいがするのでしょうか。……いい匂い。あなたが美味しいからでしょうか」
すり寄っていた状態からふと腰を浮かせたエステルは、そのままヴィルフリートの露出していた首元に顔を埋めて、そのままかぷっと噛み付いた。
痛くはない、甘噛みとも言えないような歯を押し当てただけの触れ合い。
見る人が見れば睦み合いと思うような、それでいて甘さというよりはエステルから漂うのは疑問の確認と、切なさ。何かを切望しているようにも見える。
噛むのは止めてゆっくりと唇で感触を確め始めるのだから、ヴィルフリートは呻きも出来ずにされるがまま。
柔らかな唇の感触、それから本人もシャワーは浴びたらしくいつもの洗髪料の香りが直接届いてしまって、何というかものすごく心臓に悪い。
腕を少し動かせば柳腰はあっという間に収まる距離で、もう硬直するしかない。
「……空っぽの私は、食べても食べても、満たされない。ぽっかり穴が空いたみたいに、すり抜けて落ちていく。でも……あなたは、穴を塞いでくれる。ご飯ももちろん美味しくてお腹いっぱいになるけど、ご飯を食べなくても、触れるだけで満たされる。……あなたの魔力のせい……?」
細い指先が、持ち上がる。
つぅ、とヴィルフリートの首筋を伝って顎に、そして唇に触れた。
「……空っぽの私を満たせるのは、あなただけかもしれません」
深いすみれ色の瞳には、ヴィルフリートだけが写っている。薄闇でも、至近距離だからはっきりと見てとれた。
その瞳は恐らく、ヴィルフリートが見た事がないもの。
乞うように、恍惚も切望も陶酔も何もかも混ざってただヴィルフリートに何かを求めていた。
この時程エステルを異性として見た事はなかっただろう。
吸い込まれる、そう錯覚してしまう程に、艶めいた瞳が視線を捕らえて離さない。
けれど、その妖しい瞳は、直ぐに隠れた。
ヴィルフリートの胸に顔を埋めて、エステルは唇を閉ざす。
もう色香というものはなくて、ただ幼子が甘えるように頬をすり寄せてくる。……ほっとしたのは、先程腕が思わず伸びそうになったのを自覚してからだった。
「……もうちょっと、補給させてください」
彼女は多くを求めなかった。
このままで居させて欲しい、それだけだ。
けれど、ヴィルフリートにとっては多くはなくとも大きなお願いだった。
何の拷問だろうか、と大真面目に思うくらいには、この状態はきつい。
幼げな願いを口にする微笑ましく思うもののそれはほんのちょっとで、あとは全部動揺やら困惑やら緊張やら羞恥やら、一つでは言い表せない感情がない混ぜになって胸の奥で暴れる。
嫌という訳ではないが、ちょっと気軽に男女が触れる距離ではないよな、とヴィルフリートが注意したくなるような、そんな状態だ。
「……ちょっとですよ」
「はぁい。……ヴィルフリート、心臓がうるさいですね」
(誰のせいだ誰の!)
余計な事に気付いたエステルに「無駄口叩くなら離れますよ」と素っ気なく言ってしまって、エステルは慌てて口を閉じてヴィルフリートの体に思う存分もたれたのであった。
ちょっと、が三十分も続くと色々と辛い、というのは今回ヴィルフリートが学んだ結果だった。
これで2章終了です。次の話から3章に入ります。




