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18 居ない上司様と、隠す同僚

「……エステル様は?」


 いつもなら既に出勤している筈の彼女は、どこにも見当たらなかった。

 お仕事については面倒臭がりだしご飯がなければ仕事をしないような彼女であるが、出勤自体は休日以外はきっちりする。職場を気に入っているらしく、だらだらしつつもこの第二特務室で過ごすのだ。


 けれど、今日に限って、彼女は居ない。


 彼女の机にも、特等席の柔らかいソファーにも、併設された厨房にも、あの色素の薄い髪を揺らす彼女の姿は見えなかった。


 代わりに今日はエリクもマルコも始業時間には席についていた。

 マルコが不快そうな顔を向けてくるのはいつもの事であるが、今日は尚の事不機嫌そうだ。


「居ない。お嬢はちょっと特別な仕事に行ってるんだ。まあ明日明後日には帰ってくるだろう」

「特別な仕事に……? 予定にはそんなの」

「急に入ったんだよ」


 珍しく、エリクは突き放すように言い切った。

 普段は親身になって接してくれる彼だったが、この件には触れられたくないらしい。


 特別な仕事。

 補佐官であるヴィルフリートにすら教えられていない仕事というのは、何だろうか。


 そういえば昨日、帰りがけにあったあの連絡は――。


「……昨日のあれですか?」


 思い当たる節はそれくらいしかない。

 彼女は昨日誰かに仕事だと呼ばれていた。無理に痛みを押し殺したような、そんな顔で受けていた。思わず手を伸ばして引き留めたくなる程に。


 あの表情が何を指すのか、ヴィルフリートには分からないが……エステルにとって、よくない事なのだろう。

 笑顔なのにどこか泣き出す直前のような、そんな風にも見えたのだから。


 疑問はそれ以上口にする前に、マルコの睨みに抑え付けられる。

 聞かれたくない、と昨日のエステルが態度で示したのと違い、彼はそのまま言葉で抑えようとする。


「ヴィルフリート、だっけ? 仕事だから、それさえ分かればそれ以上追及する必要ないよね? 何で根掘り葉掘り聞こうとするの」

「俺は補佐官ですし、把握しておくべきでしょう」

「古参の僕らが必要ないと言うのに?」

「それでも……」

「エステルが知られたくないと望む事を知ろうとするのが好奇心なら、僕は知って欲しくない」


 欲しくない、と言うがその実教えないという意思表示をするマルコ、エリクもまた苦笑いながら止めはしない。

 二人が教えるつもりがないというのは明白で、それだけ踏み込まれたくはない事だというのも分かる。


 好奇心がない、とは言わない。

 知りたいと思う理由に好奇心がないと言ったら嘘になる。


 けれど、好奇心が原動力で彼女の仕事について知りたがったと聞かれたら、それは否だ。


 エステルのあの表情の理由が知りたかった。どうしてあんな顔で、それでも逃げずに仕事に向かったのか気になった。


 いつも穏やかで、のんきにお腹すいたとしょげたり笑ったりしている姿しか見た事のないヴィルフリートにとっては、あの張り詰めたような、包み隠そうとして痛みが漏れ出た表情は初めてのもので。

 気丈に振る舞う彼女を、何と支えられたら……そんな思いがある事に、気付いたのだ。


 庇護欲にも似た感情。けれど、それよりももっと、近付きたい……そんな気持ちが含まれている。

 名状しがたい感情ではあるが、それが間違ったものだとは思わなかった。


「……ほんと、うざい」


 ヴィルフリートの表情から退く気はないと見たらしいマルコは、舌打ちせんばかりの勢いで低く吐き捨てる。

 基本的に良い思いを抱かれていないのは知っていたが、こうも露骨に拒絶されるとは。


「エステルが居ないからこの際言っておくけど、覚悟もないままエステルに深入りすると良い事はないよ」

「深入りって」

「ただ可愛いからとか危なっかしいからとか、そういう単純な感情で彼女に親身になって心を傾けないでって事だよ。……軽々しく、関わらないでよ」

「事情も説明されないままに言われるのは納得がいかないのですが」

「うるさいな。……君はまだ知らないから言えるんだよ」


 知らないから教えて欲しいのにそういう風に言われると、教えないのは誰だよと突っかかりたくなるが、彼はこれ以上教えてはくれないだろう。


 かといってエリクもかわされそうなので、残るは本人であるが……出来れば、刺激したくない。


 これではどうしようもなく押し黙るしかないヴィルフリートに、エリクは安堵したようだった。


「いずれ知る機会がくるかもしれない。今は気にしない方が良い」

「一生知らない方が良いと思うけどね」


 どこまでも刺々しいマルコの言葉にエリクが肩をすくめたが、マルコは撤回はしようとはせずにヴィルフリートから意識を外すようにそっぽを向いた。




 結局のところ、エステルは今日の業務が終了しても姿は現さなかった。

 一日居ないだけ、それだけなのに、違和感があるのは第二特務室がやけに静かだからだろうか。


 普段なら昼前にはぐーぐーお腹を鳴らせてせがむエステルの姿があったし、おやつ時には仕事をボイコットしてお菓子要求してくるエステルが居た。

 ……どちらも食事に関してなのがエステルらしいが、和気藹々とした雰囲気でのんびり仕事をしていたのに。


 エステルが居ないだけで、第二特務室はその場に居る人間の息遣いやペンを走らせる音がよく聞こえた。


 マルコは気が向かないからと途中で帰るし、エリクはエリクで仕事が終わったからと多少こちらを気にしたもののやはり帰ってしまった。

 室長が居ないと割り振られない仕事もあるので、する事も少ないから仕方ないが――取り残された気分だった。


 相変わらずのホワイト職場の定時まで待ってみたものの、やはり今日は来る気配がない。


 ひっそりとため息をついてとりあえず家に帰る。

 今日はエステルが夕食を訪ねる事もないだろう。最近は夕食にやってくるのも慣れてきて、他愛ない会話も出来るようになっていたが、今日はそのエステルと来そうにない。


 何だかしっくり来ないような、そんな感覚を胸に違和感として残したまま、慣れていた筈の一人での食事を経て風呂に入る。食事をつい作りすぎてしまったのは、癖になりかけているせいだろう。


 そうして眠りにつこうと魔力灯を消したところで……それは淡い光を放ちながら、飛んできた。


 柔らかな白金の光のまといながらふわりと羽ばたくそれに、視線が吸い寄せられる。


『……ヴィルフリート』


 聞き慣れた声を伴って、ヴィルフリートの手に薄闇に淡く光る鳥が舞い降りた。


『夜分にすみません。……どうしても、声が聞きたくて』


 掌に収まる程の、小さな小鳥。

 繊細そうな羽をたたんだその鳥はゆるりと嘴を持ち上げ、それから囀りの代わりにエステルのか細い声を紡ぐ。


『その、……就寝前でしたよね。ご迷惑でしたでしょうか』

「いえ、そんな事はありませんよ。お声が聞けて安心しております」

『安心、ですか……?』

「あなたのご飯のおねだりを聞かないと、何だか落ち着かないもので」


 不安げな声にわざと冗談を混ぜて返せば、向こう側で少し気が緩んだような、笑った息遣いが聞こえる。

 結構に失礼な事を言っているつもりだったのだが、エステルは『私のお腹の音が合図ですかね』とくすくす笑っていた。


 少し湿ったような、泣きそうな気配を感じていたが、笑わせられたなら良かった。

 こんな時間に伝達魔法を飛ばしてくるのだから、おそらく心細かったのだろう。


 やや空気がほぐれたのは感じられたので、ようやく本題に移せそうだ。

 けれど、あまり刺激してはエステルがまた塞ぎ混んだような気配になりかねない。側に居たのなら顔色を見つつ問い掛けられたのに、今彼女はここには居ないのだ。


 目の前に居ないから、なだめられも慰められもしない。 


「……今日は、どちらに」


 恐る恐る、控え目に問いかけると、彼女は向こう側で少しだけ息をつまらせた。

 けれど、黙秘を選ばなかった。


『……ちょっと、特別なお仕事をしてました。大切なお仕事です』

「それを俺がお聞きするのは差し支えがあるのですね?」

『……その、今は……お話、出来ません』


 機密事項が絡んでいるのかもしれない。

 そうなるとヴィルフリートが無理に聞き出すのはエステルにも危険を冒させる事になる。根掘り葉掘り聞くのはエステルも傷付けるだろう。


 なら、もうこの話題はここでおしまいにする。

 エステルを悲しませたい訳ではなかった。


「そうですか。では、今どちらに?」

『……え?』

「声が聞きたいなら直接会えば良いでしょうに。話くらい聞きますよ」

『い、嫌じゃないのですか』

「……嫌なら言いませんよ」


 配属当初の自分ならそんな面倒はお断りしただろう。

 けれど、今は、出来ればエステルの願いを叶えてやりたかった。自分でもそんな手間をかける理由が分からないものの、エステルの笑みが翳るのは何となく嫌だった。


『そ、そうですか……その、第二特務室に』

「勤務時間は終わったのに、そういうところは熱心なんですね」


 茶化しつつ、立ち上がって寝間着から出歩いても問題なさそうな格好にさっさと着替えて。

 出来るだけ急いで、自宅を後にする。そうでもしないと、居なくなってしまいそうな気がしたから。 


『……ふふ、そうですね。えらいですか?』

「今日は褒めてあげましょう、偉いですよ」


 自分でも何様だ、と思ったものの、エステルは嫌がる気配は見せなかった。


『ふふ、そうですか。偉いんだ』

「……偉いので、美味しい料理でもご褒美代わりに振る舞いますよ。お腹すいているでしょう」

『……はい』

「ちょっと待っていて下さい、今そちらに向かいますから」

『……ふふ、ヴィルフリートも勤務時間じゃないのに偉いですね』

「時間外労働も場合によってはしますよ」

『そっか』

「俺は、別にあなたに料理を作るのは、嫌じゃないですから」

『……はい』


 ほぅ、と安堵したような吐息と、それでいてどこか――泣きそうな、か細い声が聞こえた。

 急ごう、と早足だった状態から駆け足になり、ヴィルフリートは魔法を繋げたまま夜の職場に向かった。

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