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10 夕食サービスとうたた寝

 ヴィルフリートは、ただいま絶賛緊張下にあった。

 というのも、背後から感じる視線のせいである。


「良い匂いです」


 ヴィルフリートの緊張の原因である彼女は、実にのほほんとした声で彼の背後からひょっこりと顔を覗かせてくる。

 第二特務室の広い厨房と違い、今二人が立っている厨房は狭い。何せ一人暮らしの拠点のものだから。


 例の朝食夕食サービスの開始日であったが、ひとまずは夕食の方から開始する事にしたのだ。


 朝食は……起き上がってすぐに美貌を捉えるのは色々ときつそうだったため、もう少し慣れてからにする事にしている。

 朝起きて美少女がすぐ家にやってくるとか、心臓に悪いにも程がある。


(……良い匂いを撒き散らしてるのはどっちだ)


 至近距離に居るので、緩いウェーブのかかった春色の髪が揺れる度に甘い匂いがする。

 女性とはこんなにも良い匂いがするものなのか、と独身で彼女なし魔法に生きてきたヴィルフリートの心臓は否応なしに音を立てて跳ねた。


 ちょっと視線を横にずらすと、興奮からか上気した頬ときらきら輝くすみれ色の瞳がこちらに一心に向けられて、それはもう楽しそうなお顔。

 仕事上致し方なく(といっても最近は楽しいのだが)ご飯を作っていただけなのにこんなになつかれるとか、配属前は思ってもいなかった。


「危ないので食卓で待っていて下さい。もうすぐ出来ますので」

「でも、もっと見ていたいです」

「これあげますので大人しく待っていて下さい」


 とりあえず側でひょこひょこされると視界にちらついて気が散るので、味見代わりにことこと煮込んでいたポトフを小さな器に注いで渡すと、単純な上司様は上機嫌で受け取って早速口にしていた。

 ぱぁ、と顔が輝いたので、悪くない感触だろう。


「おいしい」

「それなら良かった。さ、もうすぐ出来ますので席でお待ち下さい」

「はぁーい」


 何だか夕ご飯が好物で待ちきれずに母親の側をうろうろする子供を持った気分である。

 本人に好き嫌いはないらしいので、さしずめはらぺこで待ちきれない子供、といったところであろうか。


 二つの例とも子供と称したのは、どう考えてもエステルの普段の態度と異性への認識が子供のそれだからである。

 どうやったらあんなぴゅあぴゅあに育つのか、庶民で大家族の荒波に揉まれて育ったヴィルフリートにはちっとも分からなかった。


 ぱたぱたと足が軽い音を立てて遠ざかるのを聞きながら、年若い部下はひっそりとため息をついた。


(……未婚独身で子持ち母親の気分を味わうってどうなんだ)


 この場合嘆くべき対象は自分のモテなさか、エステルの無防備さか。……恐らく後者だろう。


 鼻歌を歌いだした上司(お子)様に、ヴィルフリートの頭痛は消える事はなかった。


 ――この場合は子持ちの母親よりも主夫に似た状況だという事にヴィルフリートが気付かなかったのは、幸と見るか不幸と見るか。




「出来ましたよ」


 何だかんだで用意が出来たので器によそって食卓に並べるのだが、皿が増えるごとにエステルの瞳が輝きを増すのが何とも面白かった。


 一、二時間で作れるものなので然程仕込みの必要のない料理ばかりになるが、それでもエステルには嬉しいものらしい。

 少なくとも危ないものは入っていないので、それに安心しているのかもしれないが。


 好き嫌いはなくともエステルはお菓子の方が好きらしくてあまり野菜を積極的にとろうとしないので、根菜たっぷりのポトフと野菜もたっぷりのミートローフやサラダ。

 帰りがけに購入したパンと保冷庫に突っ込んでおいた作り置きのリエットを取り出して食卓に出しておいた。


 料理のジャンルが雑多ではあるが、エステルは気にしないらしい。


 ぶっちゃけこれだけだと一人では食べきれない量ではあるが、はらぺこのエステルの手に……正しくは口と胃にかかればぺろりと平らげると予想している。

 だから五人前は作っているのだ。


「量は多目に作ってありますが、基本的にはあるもので作ってますので結構雑多ですよ。こんなんでよろしいのですか」

「はい! 美味しそうです!」


 ご機嫌そうなエステルに、見るからにお嬢様っぽそうな彼女にこんなものを食べさせて良いのかちょっと抵抗はあった。

 しかし、本人が希望したのだから仕方あるまい。


 そわそわと体を揺らしている姿はやっぱり子供なので、ヴィルフリートは待たせるのも可哀想だと「どうぞ召し上がって下さい」と苦笑混じりに告げる。


 その瞬間、すっとナイフとフォークを握ったエステルが、上品な仕種ながら素早くミートローフを一口大に切り分けて口に運んだ。


 あんまり直視しない方が良かったかもしれない。

 対面に居るヴィルフリートの目に、眩い笑顔を浮かべるエステルが居た。

 まじり気のない無垢な笑顔に、ヴィルフリートは食べる前からお腹一杯になっていた。


「おいしいです、とっても」

「……お褒めにあずかり光栄です」


 それだけ何とか返して頭を下げると、エステルは不満そうに唇を尖らせた。

 料理に不満があるのかと思いきや、年下の上司様は「別に、勤務時間外ですので、そんな堅苦しくなくても良いのですけど」とちょっと不服そうだ。


 ……つまり、敬語を外して欲しいとか、そんな感じの事を願われているらしい。


 流石にそれには素直に頷く事も出来ずに首を振ったら、膨れっ面に。

 食べ物を口に含んでいる時はよく見せる表情だが、今回ばかりは拗ねたような色を含んでいる。


「元々こうですので」

「嘘ですー」

「今私生活のモードに崩すと色々と困るので、これで構いません」


 困るのは主に異性が自室に居るという事だが、本人に言っても理解しないだろう。

 上司とはいえ見目麗しい異性と自室で二人きり、という状況は、エステルには理解出来ない気まずさと居心地の悪さがあるのだ。


「なら、せめて名前で呼んで下さい」

「え?」

「役職名で呼ばれるの、好きじゃないです。エリクやディートヘルムの時は名前で呼んでるのに、私だけ役職名なんて不公平です」


 差別反対です、とすみれ色の瞳が訴えかけてくる。

 別に差別をしていた訳ではないのだが、エステルは大層不服らしい。


「……エステル様、と呼べば良いのですか」

「呼び捨てで構いませんよ」

「勘弁して下さい」


 ただでさえエステルに気に入られていてエリクには微笑ましげな目で見られているというのに、これでいきなり呼び捨てになった暁にはニヤニヤ顔と追及が待ち構えているだろう。


 慣れれば人懐っこいらしいエステルだが、ヴィルフリートとしては上司を呼び捨てにする度胸はなかった。


 それはそれでちょっぴり不満らしかったが「エステル様、料理が冷めてしまいますので。お代わりも沢山ありますよ」と告げると機嫌を直してくれるので、ちょっと単純すぎてエステルが心配になるヴィルフリートであった。




 恐ろしい食欲で四人分ぺろりと平らげたエステルは、ご満悦そうにお腹をさすった。

 ちょっと膨れたような気がするもののそれでも細いままで、もう笑うしかない。


 食卓の椅子からソファに座ったエステル。

 どこまでもマイペースな彼女に突っ込む気力も失せていたので好きにさせるものの、抵抗とかないのか抵抗とか、と内心で唸る羽目になっている。


 明らかに第二特務室にあるソファーより硬くてぎしぎしするそれも気にせず身を預けたエステルは、きょろきょろと視線を走らせている。

 恐れ多くも隣に腰かけたヴィルフリートとしては、大人しくして欲しいところだった。


「私、男の人の住まいに入ったの、初めてです」

「……恐れ多いです」

「男の人のお部屋って、殺風景なのですね。自室とは大違いです」


 自室はごちゃごちゃしてます、と恐らく飾り付けたであろう人が泣きそうな感想を漏らしているエステル。


「エステル様のお部屋は大層調度品で飾られているのですね」

「誰も頼んでいないのですけどね。お陰で、落ち着きません。そもそも、自室自体落ち着かないから、まだ第二特務室に居た方がましなのです。……ヴィルフリートのお部屋は、余計なものがなくて落ち着きます」


(俺は落ち着かないからな、ちっとも!)


 落ち着かれても困る。長居されると困る。主にヴィルフリートの視界と心臓と胃の負担的に。


 上司が自室でふにゃふにゃと笑って寛いでいらっしゃるこの状況は、正直ヴィルフリートにはこたえる。

 直接彼女に早く帰れとは口が裂けても言えないのだが、落ち着かないので早くご帰宅願いたかった。


 大体、今の状況が異常すぎるのだ。

 出会って一月も経っていない少女を自宅に招くなど。


「……やっぱり、どこかで覚えがあるのですけど……どこでしょうか?」

「え?」

「いえ、気にしないで下さい」


 随分と大きな独り言をこぼしたエステルはゆるりと首を振る。

 話す気がないのは見て分かるので追及する事はしないが、何かを思案するように瞳を伏せていた。


 ……このままだと長居しそうな気がして、ヴィルフリートはちょっとどうしようか悩む。

 別に翌日は休日なので多少居座られても構わないものの、それ以前の常識として夜分に交際関係がない女性を連れ込んでいるというのはどうだろうか。


 エステルとは逆側の方向を向きつつ、これからどうしたものかとため息を一つ。


(……実力を考えれば全くなにも思われてないないのは当たり前なんだろうが、複雑過ぎる)


 多少なり意識してくれればこちらも対処しようがあるし帰るように促せるのだが、いかんせん彼女はその辺りがうとすぎた。


 気まずくて、とりあえず何か飲み物でも淹れよう、と何か飲むかエステルに問い掛けようとして、言葉を飲んだ。


「……エステル様?」


 気のせいだろうか、瞳は完全に閉じきっていて、寝息が聞こえるのは。


 確かに、エステルはよく食べてよく寝るとは言っていたが……!


(男の家で寝るなよ!?)


 クッションを抱き締めたまますやすや寝息をたてている。

 涼やかな美貌を緩ませ、実にご満悦そうに眠っているエステル。寝顔はいつもよりあどけなくて、一層に幼さを際立たせている。


「……エステル様、起きて下さい。お願いですから此処で寝ないで下さい」


 声をかけても起きなかったので今度は失礼を承知で肩に触れて揺さぶるものの、エステルが起きる気配はなかった。

 安心しきった緩んだ寝顔のまま、くぅくぅと規則正しい呼吸をしている。


 これが兄達なら蹴飛ばすなり殴るなりして起こすのだが、相手は上司な上華奢でか弱い少女。

 幾ら魔導師としての実力は圧倒的に上でも、肉体そのものはただの女の子なのだ。


 最大限気を使って頬をぺしぺしと叩いて覚醒を促そうとするものの……効果はない。

 それどころか、すりすりと叩いた掌に頬を擦り寄せて来る始末。


(――ああもう!)


 心の中で困惑やら葛藤やらで悲鳴を上げたヴィルフリートは、美貌の眠り姫を前に顔を片方の掌で覆い隠して項垂れた。

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