SS:眠り姫の花園
マリエラが帝都に行く直前くらいのお話です。
――私の時間が止まればいいのに。そうすればこの姿は衰えず、あの方に綺麗なままでお会いできるのに。
こんなこと、ハンスに言わなければよかったかしら、とエレノアはベッドの中で考える。
エレノアは生まれついての難病で、体がとても弱いのだ。
上体を起こしていられるのは体調が良い時だけで、このところはずっと臥せってしまっている。
そんなエレノアを両親はたいそう気にかけ、様々な治癒魔法使いや錬金術師を雇ったけれど、エレノアの病を治すことは誰にもできなかった。それでもこうして恋ができる年齢まで生きられたのは両親のおかげだ。
下位とはいえ貴族の令嬢に生まれたのに、屋敷どころかベッドからさえ時々しか出られないエレノアには、はやりのドレスも宝石も、甘いお菓子も華やかな社交界も、年頃の少女があこがれる何もかもが縁遠い。
彼女にあるのはこの見慣れた自室と時折会いに来てくれる婚約者、そして秘密の友人のハンスだけだった。
婚約者は優しくて王子様のような人だ。金髪でハンサムで、スタイルもいい。しかも話が上手で華やかで、自分にはもったいない素敵な人なのだ。
何も選べないエレノアにとって彼は太陽のように輝いて見えたけれど、彼が頻繁に足を運んでくれたのは最初の頃だけだった。彼の足はだんだんと遠のき、エレノアがこの森の中の屋敷に引っ越した後はぷっつりと姿を現さなくなった。
コンコンコン。
部屋のドアがノックされる。
――はい、どうぞ。
婚約者が来てくれたのではないか。扉がノックされるたび、今でもそんな期待がよぎる。
しかし扉を開けて入ってきたのは、秘密の友人、ハンスだった。
――ハンス、お薬を持ってきてくれたのね。
年齢が近い彼は庭師の息子で、幼い頃からの友達だけれど、身分の差を気にした父に咎められ表立っては疎遠になった。それでもエレノアの好みの花を植えてくれたり、こっそり会いに来てくれる、エレノアの唯一の友達だ。
この屋敷に越してきてすぐの頃は、両親やメイドたち、ハンスの父親である庭師に料理長と、それなりに賑わう屋敷だったが、今この屋敷にはエレノアとハンスしかいない。
皆どこへ行ってしまったのか、どうしてエレノアのところへ来てくれないのか。
そう尋ねても無口なハンスは黙り込むばかりで答えてはくれなかったが、いなくなった両親やメイドの代わりに今でもエレノアの世話を焼いてくれる。
――私、ハンスの持ってきてくれる甘いお薬も、その赤いお花も大好きよ。
エレノアがそう言うとハンスは少し微笑んで、小瓶に入った花蜜のような甘い薬を匙にすくって飲ませてくれる。同じトレイに載せられているのは、赤みがかったオレンジの花。この花蜜の花だろう。
この花は、「時間が止まればいい」と、「婚約者はきっと会いに来てくれるから、それまで美しいままでいたいのだ」と、エレノアが悲嘆にくれていた頃に、ハンスが見つけてきたものだ。とても貴重な物らしく、両親がとても驚いていたことを覚えている。
不思議なことにこの花蜜を飲みだしてから、エレノアの姿は病にやつれる前の美しさを取り戻すことができたのだ。
――ハンス、いつもありがとう。……ハンスだけは、ずっと私のそばにいてね?
エレノアのお願いにハンスはゆっくりと頷くと、そのまま静かに部屋を出ていく。花の世話に戻るのだろうか。これもまた、いつものことだ。
すっと、意識が遠ざかる。
エレノアの不明瞭な意識は、もう、長く続かないのだ。
――あぁ、しゃんとしなくっちゃ。あの方に、きちんとお礼を言わなくちゃ。そうしたら私……。
まどろむエレノアの屋敷の庭では、ただ一人、ハンスが花の世話をしていた。
■□■
「ウェイスが帝都に行っている間に、汚れ仕事を片付けておくか」
キリリとした表情でレオンハルトがそう呟いた。
いつもであれば「キャー、金獅子将軍カッコイー」と陰で称賛の一つも上がるのだが、それを聞いた側近や側に居合わせたメイドたちは、一様に困惑の表情を浮かべている。
それはそうだろう。なぜならレオンハルトの口元はキリリとした目元とは対照的に布巾で覆われているのだから。しかも大量のバケツの準備を指示したとなれば、誰だって心の中で言いたくもなる。
――お掃除は汚れる仕事かもしれませんが、汚れ仕事ではありません。
だがしかし。軍と言うのは超がつく縦社会。将軍サマで貴族サマ、人望篤いレオンハルトさまが仰せなら、太陽だって西から昇っちゃう上意下達の世界だから、お掃除が汚れ仕事になるくらい朝飯前で訂正なんてするはずもない。
――将軍が お掃除なさると 仰せなら お供しましょう 魔の森までも
そんな短歌を迷宮討伐軍の誰かが詠んだかは知らないが、レオンハルトの号令に従い迷宮討伐軍の一部隊がバケツ片手に連れていかれたのは、読んだ短歌の示す通りなぜか魔の森の中だった。
「……お掃除ですよね?」
「? 大掃除ではあるな」
お供を仰せつかった隊長の問いかけにレオンハルトが答える。
なんだか言葉遊びみたいになってきた。
一行が向かった先は、デイジスが滝のように繁茂した場所だった。デイジスやブロモミンテラといった魔物が嫌う薬草も魔の森の中に群生しているが、この繁茂の度合いはどう見たって人工物だ。あまりにデイジスが繁茂していて一見分かりにくいが、近づいて観察してみればかなり古い時代の邸宅のようだ。エンダルジア王国時代には、魔の森の中にも集落や屋敷があったというからその一つなのかもしれない。
迷宮が討伐されてから魔の森の開拓も随分と進んだが、迷宮都市からこれほど近くにこんな場所があったとは。
「この先には強烈な飢餓感を与える植物が群生している。植物への対策としてマスクを着用し、花粉を吸いこまぬように注意しつつ花をすべて回収せよ。今から配布する丸薬は解毒剤だ。奥歯にはさみ僅かでも空腹を感じたら噛みしめよ。また、アンデッドの存在も想定されるが攻撃されぬ限りは放置で良い」
「はっ!」
どうやらバケツはお掃除用ではなくて、花の回収用だったらしい。どうりで蓋もあるわけだ。
レオンハルトの号令により、デイジスで覆われた囲いの一部が撤去され古い扉が破壊されると、むせかえるような甘い芳香を放つ花が咲き乱れる庭園の向こうに、半ば朽ちた屋敷が一棟建っていた。
多重の花弁を持つ赤みがかったオレンジの花。鮮やかな花の根元には匂いに誘われ紛れ込んだのだろう、幾つもの動物が眠るように横たわっている。動物たちの体を突き破り、この花が生えていなければ、ただ眠っているだけだと勘違いしたことだろう。
庭園に一歩踏み込めば、足元からパキリと乾いた音がする。白い砂利と思えたそれは、劣化して砕けた動物の骨だ。
「……情報の通りだな」
レオンハルトは独り言をつぶやくと、朽ちかけた屋敷の2階にある、この屋敷の主の部屋へと向かった。
■□■
コンコンといつもと違うノックの後にエレノアの部屋に入ってきたのは、エレノアが待ち焦がれた相手だった。
――うれしいわ、また来てくださるなんて。ずっとずっとお会いしたかった。ずっとずっと待っていたのよ。
金の髪に威風堂々とした出で立ち。
エレノアの婚約者は、おとぎ話から出てきた王子様のような男性なのだ。
――でもね、私、気づいているの。貴方がお父様に雇われて婚約者のふりをしているだけだって。それでも私、とてもとても幸せでした。だから、ちゃんとお礼が言いたかったの。
こんな立派な男性が、寝たきりの下級貴族であるエレノアの婚約者であるはずがない。
彼が両親が雇った役者なのだということは、漏れ聞こえてきたメイドたちのお喋りでとっくの昔に知っていた。
"不治の病の娘の婚約者を演じる男"。そういった触れ込みで有名になっていった婚約者は、仕事が忙しくなるにつれエレノアの元を訪れなくなっていき、エレノアが生来の難病に加えて伝染病を患って森の屋敷に越してからはぱったりと姿を見せなくなった。
事実を知った時はこの世の終わりのような気分になって、ふさぎ込んだしたくさん泣いたけれど、悪い人ではなかったと思う。
寝たきりのエレノアがワクワクするような話をたくさんしてくれたし、とても優しくしてくれた。エレノアが恋という物を知ったのは間違いなく彼のおかげだ。
――婚約者のふりをしてくれてありがとう。
不思議ね、ずっと胸が痛くて苦しかったのに、いつからか痛みは消えてしまっていたの。
彼のおかげで恋を知り、彼の前では少しでも綺麗でありたいと年頃の少女のように願った。
真実を知る前の会えない日々は寂しくて、真実を知ったのちは悲しみのあまり死んでしまうかと思ったほどだ。病で胸が痛むのか、それとも悲しみのせいなのか。ずっと胸が痛いまま婚約者を待ち続けていたけれど、いつしか胸の痛みはなくなっていた。
ハンスがずっとそばで支えてくれたからだとエレノアは思っている。
コンコンコン。
いつも通りのノックの後に、エレノアの部屋をハンスが訪れた。
いつも通り、甘い花蜜の薬を持って。
――ハンス、いつもありがとう。お薬をずっとありがとう。
お陰できれいな私のままで、ちゃんとお礼を言うことができた。ちゃんとお別れすることができたの。
だからもう、心残りは何にもないわ。
ほんとうはずっと前に分かっていたけれど、きっときっかけが欲しかったのね。
いつものように小瓶の花蜜を匙に掬おうとするハンスの手を、エレノアはそっととる。
――もう、お薬はいらないの。
だって……もう、行かなくちゃ。そう、私、行かなくちゃいけないんだわ。
ねぇ、ハンス。一緒に行ってくれるでしょう?
エレノアの願いにハンスはコクリと頷くと、彼女の隣に崩れるように横たわり、そのまま動かなくなった。
■□■
「レオンハルト将軍、これは一体……。その女の死体はずいぶん新しいみたいですが」
「いや、隣のスケルトンと同じ時代を生きた者だ」
エレノアの寝室に立つレオンハルトに護衛の兵士がおずおずと尋ねた。
朽ち果てたベッドに生きているかのように横たわる女性の遺体を見た時は驚いたし、この部屋を一体のスケルトンが訪れた時もさらに驚き剣を抜きかけたけれど、どちらもレオンハルトに制止されたのだ。
甘い香りのする蜜を携えて部屋を訪れたスケルトンは、レオンハルトを一瞥しただけで襲い掛かる様子は見せずにベッドに眠る遺体に近づいた後、女性の手を握ると隣に横たわるように崩れて、そのまま動かなくなった。
「……まったく訳がわからないのですが」
「炎災の賢者殿の説明の通りなら、どうやら私はフラれてしまったようだ」
「余計わけがわかりません」
「だから汚れ仕事……ン、汚れ役? というやつさ」
困惑する様子の兵士の肩をポンと叩くとレオンハルトは寝室を後にする。
ここは深窓の令嬢の寝室だ。偽物の婚約者が長居をするべきではない。
「花の回収状況と被害を報告せよ」
「はっ。花の回収は完了、数名、空腹を訴えた者がおりましたが、薬のおかげで被害はありません」
死肉を苗床として育ち、赤み掛かった多重の花弁を持つオレンジの花を咲かせる植物。マリエラがこの場にいたなら、その植物の名前をすぐにいい当てられただろう。
時騙し草。
花蜜を啜った者の肉体をそのままに保つ効果のある植物だ。
苗床となった遺体の状態を長く保つための効果なのだろうが、毒性を取り除いた物は変身薬の材料として必須だ。
栽培を誤れば集落ごと苗床になりかねない危険極まる植物だが、この花蜜は若さを保つ秘薬として高値で取引されるのだ。そういうたぐいのものだから種は厳重に管理され、金を積めば手に入るというものではない。
「イルミナリアがさ"あの子が地脈に還れそう"って言っててさ。魔物除けポーションのおかげで誰かに見つかりかねないし。将軍、ピッタリなんだよね、見た目が。たぶん、いい切っ掛けになると思うんだわー」
と、炎災の賢者フレイジージャが持ち掛けたこの話をレオンハルト自らが引き受けたのは、時騙し草の種が手に入るからに他ならない。これはしかるべき管理が必要な植物であるのと同時に、迷宮が滅んだこれからの迷宮都市に、産業の選択肢は多い方がいいからだ。
「一帯に火を放て。この植物の根一本残すな。なおこの件は他言無用とする!」
「は!」
レオンハルトの号令により、朽ちかけた屋敷も庭園も、時騙し草の花より赤い炎に包まれた。
その様子を見つめながら、レオンハルトは死してなお令嬢の世話を続けたスケルトンを思いだす。
あれは家族だったのか、それとも従者か。もしかしたら、令嬢に思いを寄せる青年だったのかもしれない。眠り続けた令嬢は、アンデッドだったのかそれともただの遺体だったのか。
レオンハルトに分かるのは、レオンハルトの訪れを切っ掛けに、スケルトンが活動を停止したということだけだ。炎災の賢者の言った通りなら、二人手に手を取って地脈へと還っていったのだろう。
(魔物も人も、還る場所は等しく同じか。それとも、あのスケルトンが例外なのか……)
真実は人の世を生きるレオンハルトには計り知れない。
ただ、努力が報われ、罪なき者が救われる、そんな世界であって欲しいと願った。
兄弟が大活躍な「生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい ~輪環の魔法薬~」は、
B's-LOG COMIC Vol.127(8月5日配信)掲載予定です。




