瀕死のジャック・ニーレンバーグ
ウェイスハルトは、提出された内偵報告書を前に密かに頭を悩ませていた。
報告書は迷宮討伐軍の就業状況に関するもので、一点を除けば現状は極めて良好といって良い。
ポーションをふんだんに使えるようになり、僅かな期間で迷宮の討伐階層を2階層も更新できたから、迷宮討伐軍の士気はかつてないほどに高まっている。
新たな階層という未知への探求心に突き動かされるのか、探索能力を持つ者たちは我も我もと迷宮調査の希望をだすから、斥候部隊の人員は異動や応援によって増員され、日々提出される報告書を読むのも大変なほどだ。
実際に階層を攻略する第1から第8までの部隊は、討伐済みの階層での素材集めと訓練に余念がなく、得られる戦果、特にバジリスクの素材の売り上げはポーション代や装備の充実に充てても余りあるほどだ。こちらの部隊も、万一怪我をしてもポーションがある分生存率は高く、従来よりずっと安全マージンを低くして戦闘できる。そのスリルが楽しいのか、戦闘民族よりの思考回路を持つ戦士どもは、日々イキイキと迷宮に突撃している。
ここまでは、まぁ、いいのだ。ここまでは。
皆、楽しそうでなによりだ。
問題は専門性が高いゆえに増員できない上に、著しい患者増に悩まされている治療部隊だ。
ポーションの導入によって一人当たりの治療期間は圧倒的に短くなった。
今までの治癒魔法に頼った治療方法は怪我人の体力を消費するから、怪我人の体力が回復するまでインターバルがあった。昨日処置した人間を、今日また処置するなんてありえなかった。しかしポーションを使う場合、けが人の体力は関係ない。《命の雫》の力でどんどこ癒してしまうから、手足を生やすようなものでない限り、連日どころか治るまでぶっ通しで処置ができてしまう。
しかも、レアな特化型ポーションを使っていることを知られないよう、治療は完全に眠らせてから行う。患者の側からしてみれば、寝て起きたら怪我が治っていて、しかも痛みは欠片もないのだ。
そりゃあ、治療部隊への好感度も爆上がりするというものだ。最近では、あのニーレンバーグの診察さえ、笑顔で受ける者が出る始末だ。黒の新薬の副作用が精神面に出ているんじゃないのかと、少々心配してしまう。
もっともニーレンバーグ率いる治療部隊からすればたまったものではない。
治療した端から、冒険野郎どもはご機嫌で迷宮に飛び込んで行って、ふたたびポーションだけでは治しきれない怪我をこしらえて戻ってくるのだ。それも、「生還したから問題なし」「名誉の負傷」とこれっぽっちも悪びれずに。
さらには負傷によって一戦を退いていた者たちも、我も我もと治療を希望するものだから、診療所は日々満員御礼で、今や最も過労死に近い職場になっている。根性論で何とかなる水準は、とっくの昔に超えているのだ。
「問題は、当のニーレンバーグまでも、意欲高く治療に当たっていることか……」
重傷者を除けば、治療を1日2日遅らせたとて、別に死ぬわけではない。迷宮アタックが遅れるのは、怪我を負った者のせい。診察時間が終わったら、ベッドに縛り付けて翌日回しにすれば、オーバーワークはマシになるのに、治療部隊を率いるニーレンバーグがそうしない。
(シェリー嬢にポーションを使ったことを恩義に感じているのだろうな。義理堅さは美点なのだが……)
休めと言って休む男ではない。ヘタに命令を下せば部下たちだけ休ませて、一人で夜通し治療をしかねない。
「なんとかニーレンバーグに自発的に休んでもらう方法はないものか……」
ウェイスハルトの悩みをさっくり解決して見せたのは、偶然茶葉の配達に来ていた薬味草店のメルルだった。
■□■
「ちょいと先生、無精ヒゲがひどくないかい? ちゃんと家に帰ってるんだろうね」
迷宮討伐軍のどこにでもズカズカと入り込み、誰にでもズケズケとものが言えるところがメルルのすごいところだ。
気つけに使うスパイスの配達、新茶のお試し。そんな理由で治療部隊にやってきたメルルはさっそくニーレンバーグを捕まえる。
「食事と風呂には帰っている」
「それだけかい? シェリーちゃんと遊んでやってるのかい?」
「シェリーは大丈夫だ。夕食は一緒に取っているし、一人にしないよう家政婦を雇っている」
案の定なニーレンバーグの回答に、メルルは「はーっ」とわざとらしいため息を吐く。
“納品が済んだならさっさと帰れ”と言いたげなニーレンバーグの前で、こんなため息が吐けるなど、メルルは鋼の心臓か。メルルのアイアン・ハートは体形同様どっしりしていて、ニーレンバーグの視線程度ではビクともしない。
「なーにいってんだい、先生。娘が父親と過ごす時間を喜んでくれるのなんて、今だけなのに。ねぇ、あんたも確か娘さんいただろう?」
「そうですよ、もったいない」
完全におしゃべりモードに突入し、適当に娘のいる治療技師二人を捕まえて会話を続ける。この二人、もちろんメルルとウェイスハルトの仕込みだ。
「シェリーちゃん、今幾つだっけ。12歳? あ、じゃーもうすぐ始まっちゃうねぇ」
「ですねぇ。うちの娘なんか、パパの後でお風呂入るの嫌だとか……」
「あー、うちの娘も、パパの服と一緒に洗濯しないでって言ってたなー」
「……どういうことだ?」
いつもなら雑談になど混じらないニーレンバーグだが、話題が愛娘シェリーのこととなるとついつい気になってしまうらしい。ばっちり喰いついてきた。
「あー、女の子は思春期になると父親のことを疎ましく感じるようになるんですよ。まぁ、成長の証っていうか、正常な反応らしいんですが」
「夫婦仲が良いの見て育つとマシだって聞きますけど……。僕ら帰宅が遅いから、どうしてもね」
(なん……だと……)
ニーレンバーグの眉間のしわが深くなる。そういえばそんな話を聞いたことがある。
にやり。
ニーレンバーグから見えないように笑うメルル。掴みは完璧だ。
よし今だ。メルルの目くばせで、二人のパパ治療技師が必殺技の準備に入る。必殺技にはいわゆる“タメ”が必要だ。
「そういうもんだって、成長の証だって思ってても、あのセリフ言われたらズキっときちゃいますよね」
「あー、わかる。ちょっと泣きそうになりますね」
「あのセリフとは、……なんだ?」
この世には知らない方がいいことがある。だがしかし、あらかじめ知っておくことで対処も取れるし、衝撃も少なくなることをニーレンバーグはその過酷な人生経験から理解している。だから、彼は聞いたのだ。愛娘シェリーに比べればこれっぽっちも可愛くない部下の口から聞くセリフなら衝撃も少ないだろうと、そのように考えて。
必殺技をあてるため、タメて引きつけられているとも知らずに。やはり働きすぎなのだ、脳の働きが鈍っていたに違いない。
「シェリーちゃんもそのうち言うようになるよ」
なんていう、メルルの前置きのせいで、ニーレンバーグの脳は治療技師の声をシェリー・ボイスに変換してしまう。
「パパ、嫌い」「パパ、臭い」
「ぐっ」
――パパ、キライ……キライ……キライ……キライ……キライ……。
――パパ、クサイ……クサイ……クサイ……クサイ……クサイ……。
ニーレンバーグの脳内で、シェリーの声がリフレインする。
なんという衝撃だ。殺傷力が高すぎる。
この衝撃を若い頃に知っていたなら、幻覚剤やら催眠やらを併用し娘を持つ男の拷問手段に利用できたかもしれない。いや、これから思春期を迎える娘がいるなんて情報が分かっている段階で他にもっと有効な手段を取るだろうからやはり無意味か。
脳内シェリーの会心の一撃に、錯乱状態に陥るニーレンバーグ。
(いかん……。こいつらの声でも聴いて正気に戻らねば)
幸か不幸か、シェリーとは似ても似つかない野太い声で、娘を持つ部下たちが、
「あ、そっちですかー」「いや、それもなかなかキツイですよね」
などと、自虐的な会話に花を咲かせている。話の内容はともかくとして、この会話に集中して平静を取り戻すべきだろう。
彼らが何の話題に花を咲かせているのか。そこを飛ばしてしまったニーレンバーグはやはりかなり動揺していたのだろう。これもメルルの作戦のうちだとも知らずに、こんな言葉を覚悟もなく聞いてしまうとは。
「そもそもパパとも呼んでくれなくなりました」
「ふぐぅっ」
ニーレンバーグに会心の一撃。かのニーレンバーグがこれほどのダメージを受けたことがあっただろうか。もはや彼は足元から崩れ落ちそうだ。
そんなニーレンバーグの様子をじっと観察していたメルル。そろそろ仕上げにかかる頃合いだ。
「それにねぇ、先生。これくらいの年頃になると友達やらと遊ぶ方が楽しくって、父親となんか遊んでくれなくなるよ。でもって、そうこうしているうちに、連れてくるわけだ」
「連れてくる? ……何をだ」
その先は、ニーレンバーグでさえ思考の外に追いやっていた禁忌の領域だ。
けれど、振られてしまった以上、耳を貸さない選択肢はない。
「彼氏さ」
「……………………!!!!!」
驚愕の表情を浮かべるニーレンバーグ。
これはニーレンバーグに対する攻撃だというのに、娘を持つ治癒部隊員たちも「うっ」とか言いつつ胸を押さえている。
「だから、相手にしてもらえてる今の時間を大事にするべきだって話さね。今はそこまで切羽詰まった患者はいないんだろ? 兵士たちだってすぐに治してもらえると思ってちゃ、腋も甘くなるってもんさ。いっそ休みでも取って、娘とデートにでも出かけたらどうだい?」
「……そうだな。たまには休暇も必要だ」
「……私も。財布代わりなら買い物に付き合ってくれるかなー」
「……僕も。家族イベントなら、来てくれると思いますし」
こうしてメルルの説得と、娘を持つ治療部隊の自爆気味の協力のお陰で、治療部隊のオーバーワークはほんのちょっとだけ緩和された。
ジャック・ニーレンバーグ。
迷宮討伐で傷ついた兵士を癒し、同時に誰より畏れられる男。
人体への理解の深さはもちろんのこと、暴れる屈強な兵士を無力化させることにも長けた、まさに文武両道を地で行く、迷宮討伐軍の要の一人である。
が、その実態は娘思いな父親に過ぎない。




