白の仔ら⑲ 加護というもの
間が悪い日、というものはある。
宿の朝食のメニューが苦手な肉料理で、替わりの品の注文に時間を取られたであるとか、いつもより道が少し混んでいる程度ならばまだいい。しかし、ちょっとした出来事の積み重ねで時間を取られた挙句、先を越された馬車の荷主が脱税を企てた阿呆だったりした時は、足止めを喰らう時間の長さにいらつきを覚えざるを得ない。
そしてそういう時に限って、魔の森を抜ける旅程でも日頃より多くの魔物に出くわすものだ。
この日も、そんなろくでもない日だった。
迷宮都市でろくでもない冒険者に絡まれたのがケチの付き始めだったのだろうと、帝都から来たエルフの商人、ニクス・ユーグランスは小さくため息を吐いた。いつもより少し早めに出たというのに、道中立ち往生する馬車が道をふさいでいたり、商人自体も森狼の群れに何度か出くわし、旅程はすっかり狂ってしまった。
「それにしても、どうしてこれほど森狼がいるのでしょう」
迷宮都市と帝都を繋ぐ街道は、黒鉄輸送隊をはじめとした隊商が往復するたびに魔物を掃除しているはずなのに。道中で立ち往生していた隊商も、いつもより多い森狼の襲撃に車輪周りを痛め、交換をしている最中だった。
ニクスは知る由もないことだが、黒鉄輸送隊が魔物除けポーションを使い戦闘を回避するようになったため、駆除される魔物の数が減ったことが原因だ。
もっとも、多少魔物とのエンカウントが増えようと、魔の森を行く隊商にとって致命傷にはなりえない。多少狩ったくらいで魔物の数が減るなら苦労はないし、その程度の安全マージンを見ていないような隊商など、稀に現れる人狼などの上位個体との遭遇でどのみち全滅する定めだ。
しかし、ニクスたちとっては、若干状況が異なっていた。
「もうすぐ日が暮れる。目的の聖樹にはたどり着けそうもありませんね。長い夜になりそうだ」
ニクスの隊商が扱う品は運送コスト度外視のレアもので、防御力を捨てた速度重視の軽量馬車で、魔物除けポーションを使って戦闘を避けつつ魔の森を駆け抜ける。とはいえ、帝都製の魔物除けポーションだ。保管の魔道具で運んでいるとはいえ、取り出した瞬間に《命の雫》は抜けていくから、効果は低く短時間しか続かない。黒鉄輸送隊のように魔物を寄せ付けず進むのではなく、出会った際にひるませ逃げ延びるのに使う。
軽量化のため人員はニクスと御者の2人しかおらず、魔物の少ない昼間だけ移動し、魔物が活発になる夜間は魔の森に点在する聖樹の下で野営する。
聖樹には魔物を寄せ付けない護りの力があるけれど、それはあくまで聖樹に宿る精霊の力の及ぶ範囲に限られる。若木でも人間一人を弱い魔物から護るくらいは可能だが、精霊より強い魔物からは護れない。
ニクスたちがたった二人で安全に夜を過ごせるのは、彼に『世界樹の加護』というスキルがあるからだ。エルフという種族が良く所持しているこのスキルのお陰で、ニクスが休む聖樹にはこの世界のどこかにある世界樹の力が宿り、街道に出る程度の魔物は人狼だろうと寄せ付けない。
ニクスたちの商会だからこそ可能な旅程だが、夜までに聖樹に辿り着けない場合、リスクは大きく跳ね上がる。
「ニクス様、黒狼の群れです。道の先から向かってきます」
「本当に、悪いことは重なるものです」
うんざりした様子で御者の報告に応えると、ニクスは客室を出て御者台に移動する。
黒狼は森狼より貪欲で狡猾だ。人間を獲物と見定め集団で狩りを仕掛けてくる。群れで獲物を狩るくせに、隙あらば仲間の誰より多く人間を喰らおうとする意地汚さが、どこか人間を思わせて不快な気持ちにさせるのだ。
獣とは本来美しいものなのに、人を喰らってその穢れを取り込んでしまったようだ。
「魔物除けポーションは?」
「不要です。5匹程度なら問題ありません」
御者の問いかけに短く答えると、ニクスは右手を前方にかざす。
向かい来る黒狼にひるむことなく、馬車を引くラプトルを進ませる御者の腕も大したものだ。馬車の速度は緩むことなく、黒狼との距離は僅かだ。まずは馬車を引く騎獣を仕留めようと黒狼が牙を剥き、後ろ足に力がこもったその瞬間。
「《風牙突-牙喝》」
遠目に見た者がいたならば、疾走する馬車がまるで一本の巨大な槍先になったように見えただろう。空理力学を無視した空気の流れが馬車のベクトルを柄とした槍の穂先のように巻き起こり、黒狼を迎え撃つ風の牙となったのだ。
渦を巻く巨大な風の刃は突進する馬車の質量を伴って黒狼を迎え撃つ。風牙突の時点で、地を蹴った黒狼のうち正面にいた2体は見えない穂先に貫かれたように肉が裂け、飛び散った血が街道を汚した。側面に位置した個体は、即死こそ免れたものの馬車や騎獣に触れるより先に見えない壁に打たれたように弾き飛ばされ、続いてニクスが牙喝を唱えるや槍の側面を流れる風がいくつもの刃のような形状を成して波状攻撃を仕掛ける黒狼をかみ砕いた。
「ギャン!」
斃された黒狼の叫びはすでに馬車の後方で、馬車は速度を落とすことさえしない。
「お見事です」
御者の賞賛にニクスは肩をすくめて答える。
たった二人で、薄い装甲の馬車で魔の森を抜けるのだ。この程度の魔物をいなせないようでは話にならない。
冒険者として登録していないから名を知られていないだけで、ニクスは相当に腕の立つ風魔法の使い手だった。
だがしかし。
間が悪い日というのはあるものなのだ。
ガタガタガタンッ。
「チッ、落石か、倒木か!?」
暗い夜道を疾走していたのだ。路上の障害物を踏んだ馬車が跳ね上がる。ニクスがとっさに空気の流れを操作して馬車の上部を押さえつけたから、馬車は横転を免れたけれど、車輪にはそうとうの衝撃がかかったらしい。
ギギギ、ガガガガと障害物を踏んだ車輪が嫌な音を立て、馬車は激しく揺れていた。
「これは、軸受あたりがやられたようです。換えたばかりだってのに、これくらいで。不良品を掴まされたか……。速度を落とせば走行は続けられますが、なるべく早く取り換えたほうが良い」
「次の聖樹まで何とか持たせてください。……魔物は私が引き受けます」
速度を落とした馬車へと包囲を狭めるように、集まって来る気配を感じる。
獣の臭いに交じって腐ったような生臭い血臭を風が運んでくる。
(……本当に、悪いことは重なるものだ)
この臭い、おそらく魔物の中に黒死狼が混じっている。人の死肉を喰らって黒狼から進化した黒死狼は喰らった人間の知恵まで身に付けるのか時折狡猾な罠を仕掛ける。より上位の魔物と共に現れたり、獲物を巧妙に追い詰めたり。
(先ほどの障害物も、奴らのせいではないでしょうね?)
5体の黒狼との戦闘で油断したところに障害物で馬車の車輪にダメージを与え、速度を削いで一斉攻撃。そこまでの知能があるなど聞いたことが無いが、だとしても、タイミングが悪すぎた。
ニクスは保管庫から数本の魔物除けポーションを取り出すと、馬車や騎獣たちに振りかけた。少しでも攻撃を減らすための対処だが、ここはまだ迷宮都市の地脈だ。帝都の魔物除けポーションがどれだけ持ってくれることか。
ニクスは馬車の天井に登って狙いを定める。ここからならば全方面の敵を狙える。
ガタガタと音を立てて走る馬車を追うように、左右の森からも背後からも、獣たちの足音が聞こえてくる。
まるで森中が鳴動しているかのように、四方から響く獣の声。生臭い臭いが風に乗って運ばれてきて、まるで狼の巣穴に飛び込んだようだ。
「《風牙盾、風弾、風弾、風弾》はぁ、キリがありませんね」
風牙突で敵を弾き飛ばしながら進むには、今の馬車は速度が足りない。ニクスの正確な攻撃で、とびかかる黒狼は撃ち落とされているけれど、倒すよりも増える方が早い。
進行方向から風が運んでくるのは、淀んだ魔力と腐ったような血の臭い。おそらく黒狼に追い立てられ、向かう先には黒死狼が待ち構えているのだ。いや、これほど運が悪い日なのだ。もっと手ごわい魔物が待ち受けているかもしれない。
(これは不味いですね。魔の森の魔物のごときにやられたなどと、商会の名に傷がつく……)
せめて出立前の紅茶くらい、最後まで楽しめばよかったとニクスは笑う。最後に食べたお茶請けが、どこの誰とも知らない子供の作った不格好なクッキーだなんて。
「もしもの場合は分かっていますね?」
「……はい。荷物は必ずお届けします」
万一の場合は、馬車を捨て、運ぶべき荷物だけを持って御者が単騎で魔の森を抜ける。魔物はすべてニクス一人が引き受けて。
もちろん、この程度の窮地で命を捨てる気はないが、万が一ということはあるのだ。
すぐそこまで迫る戦いに備えて、両の手に魔力を集めるニクス。
意を決したニクスの視界の端で、さわさわと梢が揺れ、木の葉がくるりと舞い上がった。
次いでニクスの鼻孔をふいにくすぐる一陣の風。
獣の臭いに満ちた空気を洗い流すような清らかなそれは、嗅ぎなれた、心安らぐ緑の香りを運んできた。これは、この香りは――。
「右の森に入りなさい! すぐに!」
風の運んだ香りにニクスが叫び、向かう先へと魔物除けポーションを投じる。立ち昇る魔法薬の効果に魔物がひるみ、退いた場所へと御者は迷わず馬車を突入させた。
ガタガタガタ! ガタタタタ!!
草木を折り、木の根を踏みつけ、大木の間を縫って走る馬車はひどく揺れ、壊れた車輪は今にも外れてしまいそうだ。
けれど進んでいった先は木々の切れ間になっていて、開けた梢の合間から、月の光が一本の若木に注がれていた。
「こんなところに、聖樹の若木が……」
若木の側で馬車から降り、ニクスがまだか弱い幹に触れると、彼の持つスキルを通じて聖樹の若木に世界樹の加護が宿る。途端に周囲の空気は獣臭漂うそれから深い森の中にいるような木々の芳香に満たされて、周囲からは魔物の気配は消えていた。
「助かった……のか」
御者が大きく息を吐き、周囲の安全を確認するとラプトルたちを馬車から離す。狼の魔物に囲まれながらも果敢に走り続けたラプトルたちも、やはり恐ろしかったのだろう。御者に頭を擦り付けて、ねぎらわれていた。
「こんなことが……」
今ここに、聖樹の若木の元にいるのは現実だ。けれどニクスは、これが通常起こりえないことだと知っていた。
あの時、待ち構える魔物と対峙する寸前の風に吹かれた瞬間に、ニクスの脳裏にこの若木の光景が浮かんだのだ。
まるで、意思を持つ風に導かれたようにニクスは思えた。
「よき風……か」
間違いない。これは加護というものだ。
こんなことをできる存在を、白いつがいの獣の正体を、エルフであるニクスは知っている。「ごめんなさい」と不格好なクッキーを渡してきた白い髪の小さな子供を。
(あの双子は本物だったのか。……だとしたら)
聖樹の若木に守られた安全地帯に風がそよぐ。
風は梢をざわざわとゆらし、舞った木の葉とくるくるとダンスを踊っていた。




