自由が欲しかった私が、転生先で得たもの
※主人公が前世で殺人を犯します(実際に死んだかは定かになりません)
「あなたはこの家に必要ありません」
義母がクレール・ヴァロワにそう告げた時、クレールの意識は不意に、どこまでも深く沈んでいった。
◇ ◇
私には自由がなかった。
友達は母親が選び、読む本は姉が読んだものに限定され、習い事は動きが激しくなく人と接触しない大人しいもの、ということで絵画教室に通わされた。姉のようにピアノやバレエを習いたかったが、私には希望を口にする自由が与えられていなかった。
体が弱いと心配されていたわけではない。なのに異常に怪我や病気をしないように監視され、食事は栄養面で完璧なものを供され、ひたすらに規則正しく健康的な生活を送ることを強制された。
姉のように夜更かしをして流行のドラマを見ることも、休みの日に友達と映画を見に行ったりショッピングをすることも許されていなかった。
傍から見れば恵まれた暮らしをしていたのだろう。
高級住宅地と言われる地区の中でも大きな家に住み、優しそうな両親と、八歳年上の美しい姉がいる妹で、真綿に包むように大事にされている箱入り娘が私だと思われていた。
だけど、母は私に優しい言葉をかけないし、父は私の顔を見ようとさえしない。姉は、自分の自由な行動をひけらかすように、外で楽しかったことを食事の席で語った。両親は相好を崩して聞き入っていた。
私が興味もなさそうに食事に集中していると、姉は、
「ごめんね、あなたにはまだ外出は早いわ。高校生になったらね」
などと、慰める振りをして笑うのだ。
案の定、私が高校生になっても、外に遊びに行く自由は与えられなかった。出かけたところでお小遣いも貰っていなかったから、何もできないのだけれど。
家と学校を往復する以外に私が行くことができたのは、週に一度の絵画教室だった。
五歳から通っていたので、それなりの作品が描けるようになった。しかし、熱意もなく、言われた通りに鉛筆や絵筆を動かすだけなので、我ながら退屈な出来栄えだと思う。
その教室に、若い男性のアシスタントがやってきた。
二十代後半くらいで、柔らかい雰囲気のイケメンは、たちまち教室の中高生の女の子たちのアイドルになった。
私は女子高に通っていたので若い男の人に免疫がなく、話しかけられても満足に返事をすることもできなかった。友達さえ母に決められていたので、それ以外の人とのコミュニケーションが覚束ないのだ。
そんな言葉に詰まる私にさえ、彼は嫌な顔もせず、根気よく対応してくれた。
そうして私は、簡単に恋に落ちた。
デッサンの途中に彼を盗み見ると、彼も私を見つめていることがよくあった。慌てて目を逸らす私を面白がっているのか、目が合うとニッコリと笑ってくれた。その笑顔に私は夢中になった。
惰性で通っていた絵画教室が、私の中で唯一のオアシスになった。
交際を彼から申し込まれた時は、もう今すぐ死んでしまいたいくらい嬉しかった。家族に言えば、反対されることが分かっていたからだ。友達さえ自由に選べない私が、交際相手を勝手に決めることなどできなかった。
私は悲しくて苦しくて、でも彼には本当のことを知って欲しくて、私の置かれている環境を全て話した。
彼は長いこと考え込んでいたが、
「いいよ、それなら内緒で付き合おう。いざとなったら、僕が攫ってあげる」
と言ってくれた。
私は今だけの幸せだと分かっていながら、彼と付き合うことにした。付き合うといっても、外出の自由がない私がデートなどできるはずもなく、ただ絵画教室の終わりに待ち合わせて、駅まで話をしながら一緒に帰るくらいが精一杯だった。それでも、毎回私は、これが人生で一番幸せなひと時になるだろうと思いながら歩いた。
高校卒業後、私は親の決めた女子大に進学した。家から通える大学なので、家族からは逃れられなかった。
絵画教室の彼とは、ごくたまに私のキャンパスに彼が迎えに来て、束の間お茶をするくらいの付き合いになった。絵画教室は、大学に入った時にやめさせられていた。彼は相変わらず優しくて、私の孤独な心は彼によってだいぶ慰められた。
私が二十歳になった頃、姉が入院した。
私には知らされていなかったが、姉は元々腎臓が悪く、このままでは透析が必要になるらしかった。透析を生涯続けるにはあまりに先が長く、姉は悲嘆に暮れているという。
「だから、お願い、あなたの腎臓を一つお姉ちゃんに分けてあげてほしいの」
と、母が私に言った。
「透析を始めたら、週に三回、四時間もかかる処置を受け続けなくてはならない。この先、望むような生活は送れないだろう。あまりに可哀そうだと思わないか。私と母さんの血液型はAとBだ。ユリもお前もO型だ。血液型は関係ないとは言え、すこしでも拒絶反応のリスクを減らしたいんだ」
諭すように父も言った。
「あなたも二十歳になったから、ドナーになれるの。ね、今すぐじゃなくていいから、なるべく早く、間に合ううちに決断してちょうだい」
私から姉への生体腎移植は、もはや決定事項であった。それでも私は、しばらく考えさせてと言って、その足で絵画教室に向かい、彼と話をした。
「そうか、大変な決断になるね。だけど、お姉さんの将来を考えたら、妹としてできることはしてあげたくならない? 君はそういう優しい人だと僕は信じている」
私は正直、彼に反対してほしかった。ドナーとなることは承知せざるを得ないけれど、彼が会ったこともない姉よりも私を気遣ってくれたという事実がほしかった。
私は彼に失望し、失望した自分に嫌気が差し、私がドナーとなることを疑いもしない傲慢な家族を憎んだ。
私が浮かない顔をしていたせいか、担当医から何度もドナーになることを本心で受け入れているのか確認された。親からの圧力はないのかと聞かれても、私は淡々とドナーになることを明言した。
結果、腎臓を移植された姉は順調に回復し、腎臓を一つ失った私は鬱状態に陥った。
私は食事が喉を通らなくなり、痩せていった。
それまで私の健康管理に躍起になっていた両親は、私にまったく関心を持たなくなった。溌溂と動き回る姉を見て喜び、部屋から滅多に出てこなくなった私を、いないものとして扱った。
ある日、階下から懐かしい声が聞こえてきた。
彼だ!
彼とは最近連絡を取っていなかった。心配して家まで来てくれたのだろうか。そう思った私は階段を静かに降りかけたところで、とんでもない会話を聞いてしまった。
「ユリちゃんが無事で本当に良かったよ。あの子もお姉ちゃんを救えて良かったんじゃない? ドナーとなるために生まれてきたんだ。健康で傷の全くない体に育て上げてもらったんだから、その恩返しはするべきだよね」
「本当よ、あの子が二十歳になるまでが長かったわ。もうすぐで透析だって言われていたから焦ってたの。間に合って良かった」
「でもさ、俺がユリちゃんの彼氏だって知ったらあの子どうなるかな」
「ただでさえ鬱で暗いのに、これ以上どうなっちゃうの?」
「俺と付き合ってるつもりでいただろうからね」
すべてが腑に落ちた
そういうことか
姉のためのドナーとして生を受け、ドナーとして健康体に育てられたのか
なるほど、私は両親にとって次女ではなく、姉にとって妹でもなく、
大事な移植のための腎臓を宿した体だった
この家の子供ではなかった
腎臓を体内で培養するサイボーグ、それが私だった
私はしばらくしてから階下に降りた。
「あれ? 珍しいね降りて来るなんて」
私を見た姉は、一瞬ビクッとして言った。
「や、やあ、調子はどう? 無事ドナーとして役目を果たして偉かったね」
姉の彼氏はわざとらしく微笑んで言った。姉と触れんばかりの近さにいる。
「水が飲みたくて」
私はそう言ってキッチンで水を飲み、包丁を持って姉たちのところに戻った。
姉は背中をこちらに向けていた。彼氏は姉の顔を覗き込んでいて、私が手に何を持っているのか気付かないようだった。
私はためらわず姉の背中の右下の方に包丁を突き立てた。
「私の腎臓を返して」
姉の悲鳴と、彼氏の怒号と、姉が頽れる音と、ダイニングの椅子が倒れる音、色んな音の中に突っ立っていると、彼氏が私から包丁を奪い取り、迷わずそれを私の首元に差し向けた。
死ぬ間際、私はちゃんと姉に復讐したことと、最初から仕組んで私に近づいてきた彼氏に殺人という罪を犯させたことに満足した。両親には、直接の仕返しはできなかったが、二人の娘をとんでもない醜聞で亡くしたことが何よりの復讐になるだろうと思った。
私は腎臓さえ姉に提供してしまえば、この家にはいらない存在だったのだ。私もそんな家族ならいらなかったし、こんな自分もいらなかった。
◇ ◇
「あなたはこの家に必要ありません」
そんな義母の言葉で、クレールの脳裏に前世の記憶が甦った。あまりにもリアルで、つい昨日のことのように思い出された。
この家でも、自分は必要とされていなかったのだと思い知らされた。
「クレールさん、あなたがヴァロワ家に嫁いできて三年になるわ。子を成せない女など貴族家には不要です。出て行きなさい」
クレールはこれまで、何ひとつ義母に逆らわず過ごしてきた。理不尽なこともあったが、それも貴族の有り様だと自分を納得させてきた。
けれど、前世でしてきたとてつもない我慢と、唯一と思っていた彼からの裏切りと、最後に自分がしでかしたことを思い返して、強い者に唯々諾々と従うことが、果たして自分を守ることになるのかと疑問に思った。
前世の自分は自由になりたかった。今こそ、自由になるチャンスだとクレールは思った。
「分かりました、出て行きます」
「そう、じゃあ、荷物をまとめてなるべく早めにね」
クレールが、はいと返事をすると、それまで義母の横で何も言わなかった夫のシャルルと、義父であるヴァロア伯爵のギヨームは、ふんと鼻でバカにしたように笑って、
「これだから子爵家から嫁を選ぶんじゃなかった。貴族は代々血を繋いでこそだ。最低限のこともできないとはな」
と言って立ち上がった。私はすかさず言った。
「では、結婚した時の持参金は、使った分を差し引いて返していただきますね。早急に計算してお返しください。それが確認できたら出て行きます」
「なんだと!」
ヴァロアの男たちはいきり立った。
「これは私の正当な権利です。醜い言い訳を並べ立てて争いますか? ヴァロア家ともあろうものが、息子の妻を追い出して持参金を取り上げたという醜聞を広めたいのですか」
「いや、それは」
ギヨーム・ヴァロアは言い淀んだ。
「なぜですか、父上、嫁に来たからには、持参金はヴァロア家に差し出したものでしょう。今さら返せとは厚かましいのではないですか」
「ばか、シャルル、お前は黙っていろ」
今度はクレールが鼻で笑った。
「そんなこともご存知ないのですね」
「何だ、クレール。子も産めないくせに生意気だぞ」
あからさまに馬鹿にされて、シャルルは口を尖らせた。怒った時の彼の癖だ。クレールは、言い含めるようにゆっくりと説明した。
「シャルル様は、寝所に来るときにはいつも酔い潰れておいででしたね。横になるなりすぐに寝入ってしまわれて、それでどうして子ができましょう。初夜からその調子でしたから、まるで寝るのを見守る母親になった気分でした。不能をごまかすのにそんなことしか思いつかないなんて、哀れなことですね。新しい方がいらしても、その調子では、後継は望めないでしょうね」
「何ですって、そんな失礼な言い掛かりがありますか。ねえ、シャルルちゃん、違うわよね。ちゃんと夜のお作法は習ったのでしょう?」
思わず義母はシャルルを、ちゃん付けで呼んだ。
「違う違う違う違う!」
シャルルは両手で耳を塞ぎ、違う違うとむずかる子供のように繰り返した。
「では、家令の方と話し合ってきます。ごきげんよう」
クレールは一礼して部屋から出て行った。
ヴァロア家の面々は、ほんの数分前とは人が違ったかのように喋るクレールに面食らっていた。
それより、聞き捨てならないことを言っていた。
「シャルル、お前、あれの言っていたことは本当なのか。まだ女が怖いとか言っているのか」
「そんなことないわよね、シャルルちゃん、あの女だからダメだったのよね。いいわ、次はもっと可愛らしい子にするから、怯えないで教わった通りにするのよ」
「何ということだ、それでは子ができないのは当然ではないか。あれに瑕疵はなかったというのか? それでは離縁したら、こちらの責となる」
「そんなこと公にしなければ分からないでしょう。三年子ができなければ去るのは当然と人は受け取りますわ。シャルルちゃんの名誉を傷つけてたまるものですか」
義母のイザベラはシャルルを抱きしめて、大丈夫よと繰り返した。伯爵のギヨームは、そんな母子を無表情で眺めた。
それから数日後、クレールの持参金はクレールの納得のいく金額でしかるべきところに預け入れられた。
実家の子爵家にはシャルル・ヴァロアと離縁したことを手紙で伝えたが、家に戻る気はなかった。家族仲は悪くなかったと思うが、こういう時のために父はしっかりと持参金を用意してくれたのだ。クレールは、実家に迷惑をかけずに生きていこうと決めた。
さらに出立の準備に数日の猶予を願い出たが、伯爵は思うところがあったのか、拒否はされなかった。
クレールは南方の温暖な地方にある修道院に身を寄せることにした。持参金の金額のおかげで、すんなりと迎え入れてくれるようだ。
そこの修道院は、織物や薬草栽培ではかなり知られていた。クレールは前世でも今世でも、屋外で活動することがほとんどなかった。だから、お日様を浴びて働くことに憧れを持っていた。
義母などは日焼けを厭い、どんな短時間でも大袈裟な帽子と日傘を忘れなかった。クレールにも、貴族夫人として、日焼けは絶対にしてはいけないと言い含めていた。家の中でさえ、窓辺に寄るのを咎められ、部屋の奥で淑やかに刺繍をしたり本を読むことを推奨された。
こうした抑圧された暮らしの中から飛び出して、クレールは今、修道院に向かう馬車に乗っていた。
王都のヴァロア家のタウンハウスから修道院までの長い道のりは、クレールだけでは心許なかったので、父親に頼んで、馬車と御者、護衛を二人世話してもらった。母の心遣いで、メイドもひとり、旅の間だけ寄越してくれた。その旅の道中で、クレールが一人で着替えや身の回りのことができるようになりなさいとのことだった。
クレールは、実家の子爵家にいる時は何も特別なことだとは思っていなかったが、ヴァロア家での扱いや、思い出した前世と比べて、なんと恵まれた家庭に生まれ育ったのだろうとしみじみと思った。もう顔を合わせることもないであろう両親に、改めて感謝の念を抱いた。
旅は順調だった。
ついて来てくれた護衛もメイドも、クレールの顔見知りだったので、馬車の中ではメイドと女子トークをし、宿では護衛も交えて四人で食事をした。御者も誘ったが、馬の世話があるからと、クレールたちとは別に食事を取った。
四人で話す内容は、子爵家での共通の思い出や最近の領地の話題が主で、クレールは世俗と離れる前の長くはない時間を心から楽しんだ。
馬車での長旅を終え、クレールはここまで一緒に来てくれたメイドに、もうこちらでは着ることのないデイドレスを数枚下げ渡した。他のドレスはここに来る前にほとんど売り払って、修道院で着るシンプルな服だけ用意してきた。
「これは売っても良いし、飾りを取って着ても良いわ。もちろんバラして別の物にしてもいいから使ってね」
メイドは嬉しそうに受け取って、護衛たちと一緒に来た道を戻っていった。
クレールは修道院での暮らしにすぐに慣れた。
子爵令嬢として育ち、伯爵家に嫁ぎ、貴族としての生活しか知らなかったはずだが、前世の記憶を思い出したことで、慎ましやかな修道女の暮らしに不満はなかった。
修道院には、ほかにも貴族出身の女性はいたが、身分を捨てたことで変に競うこともなく、できることや得意なことを見つけて穏やかに過ごしていた。
クレールは最初から薬草畑で働くことを希望した。
「クレールさんは、ホントに外で働くのが好きだよね。お貴族様だったんでしょう?」
一緒に畑で草取りをしているマリーが言った。
「だって、外は空気が気持ちいいじゃない。私、家の中に閉じ込められてるような毎日だったから、見上げると空があるような生き方をしてみたかったの」
「変わってるよねえ。まあ、仕事が楽しいなら何よりだけど」
クレールは黙々と草を取り、時々立ち上がって腰を伸ばした。
薬草畑の向こうには、広大なブドウ畑が広がっていた。
「あれがワインになるのね。そろそろ収穫の時季かしら」
「そうね、来週あたりだと思うわ。あそこはお隣の修道院の土地だから、収穫になるとたくさんの修道士の皆さんが出てくるの。時々、挨拶できるくらい近くに来るから、楽しみにしてる子もいるのよ」
「でも、会話をしてはいけないのでしょう?」
「クレールさんてば真面目なのね。こんにちは、くらいはいいのよ。でも、それだけでドキドキするわ」
マリーは胸の前で手を組んで、うっとりと言った。
「そうなのね」
「もう、クレールさんてば、あっさりしすぎ。ちょっとは乗ってきてよ。格好いい人は見るだけで目の保養になるんだから。また一年頑張れる気がするわ」
「ふふ、大袈裟ねえ。私もそんな風に思えたらいいけど、一度結婚に失敗しているから」
「あ、そうだった。はしゃいじゃって、ごめんなさい」
「ううん、女の子が楽しそうなのは、見てるこっちも嬉しいから大丈夫」
「何言ってるのよ、クレールさんだってまだ若いんだから、老け込まないで」
頬を膨らますマリーは可愛いと思う。恋なんて、恋に憧れているうちが一番純粋で楽しいのかもしれない。クレールは前世での初恋と、今世での結婚の破綻を振り返り、そう思った。
そんな話をした翌週、隣のブドウ畑で収穫が始まった。
すると、普段は建物内で織物作業をしている修道女たちが、薬草畑をうろうろしだした。目的はもちろん、ブドウ畑で働く修道士を眺めることだ。
「あ、あの人、今年もいた。やっぱり格好いい」
「背が高いと修道服がやたらと素敵に見えるのはなぜかしら」
「私はこちらにいる方が理想のど真ん中だわ」
そんな会話を聞きながら、クレールは顔も上げずに雑草をむしった。
昼ごはんの時間になると、皆は建物に戻って行った。修道士たちも時間正確に行動するので、あっという間に畑には人気がなくなった。
クレールが籠に集めた雑草を畑の端に捨てに行くと、
「お嬢様」
と呼ぶ声が聞こえた。
クレールはそんな呼ばれ方をしなくなって三年以上になるので、自分のことではないと思った。いったい誰を呼んでいるのかと思って辺りを見回すと、一人の修道士が近づいてきた。
「クレールお嬢様」
そう呼んだのは、子爵家の侍従だった男で、クレールが修道院に入る時について来てくれた護衛の一人だった。数週間前に見送ったばかりなのに、どうして修道士の格好をしてここにいるのか。
「ジャン、どうして? なぜここに」
「それを聞くのですか」
ジャンは眉を下げて、寂しそうな笑みを浮かべた。
クレールは何と返していいか分からなかった。
「・・・会話は禁止されています。戻ります」
背を向けたクレールに、ジャンは言った。
「私がここにいることだけ、お嬢様が覚えていてくださればいいのです」
クレールは、修道院の建物に急いだ。
動悸がする。走ったせいだ。ジャンの顔を見たからではない。
クレールは、ジャンが自分を追って、こんなところまで来てしまったことが申し訳なかった。
ジャンは男爵家の三男で、かつては騎士を目指していたという。兄弟は、兄が二人と、年が離れた妹がいた。母親は妹が八歳の時に亡くなった。
ジャンが騎士になるために王都の学校に行くと言うと、妹がひどく寂しがったので、王都に行くのを止め、隣の領地であるクレールの家に仕えることになった。ジャンはまめに帰省していたが、妹が母親と同じ病気で床に伏した。ジャンは一時、休みをもらって妹の看病に当たったが、十歳の誕生日を待たずして亡くなった。
ジャンはその後、クレールの家に戻ってきたが、妹とそう年の変わらないクレールのことをよく気遣ってくれて、外出する時には護衛としてついて来てくれることが多かった。
クレールも、あまり話のはずまない兄たちより、ジャンの方が話しやすくて懐いていた。
とは言え、クレールはヴァロワ伯爵家に嫁ぐことが決まっていたし、どちらも必要以上に踏み込むことはなかったので、二人の間には何も生まれなかった。
クレールは戸惑った。
ジャンは旅の途中の会話で、妹のために祈り続けていると言っていた。修道院に入れば毎日祈り放題だろうと、もう一人の護衛に言われて、それもいいなと笑っていた。
だからって、クレールの隣の修道院に来るなんて聞いてない。
『ジャンがここにいることを、私に覚えていてほしいだなんて、まるで・・・』
それに続く言葉を、クレールは思い浮かべるのをためらった。
その夜から、クレールは悪夢を見るようになった。
それまでどうして忘れていられたのか分からない。クレールは前世で姉を殺していた。正確には、殺そうと包丁で背中を刺したところまでは覚えているが、姉が死んだか、命を取り留めたかは分からない。どちらにしても、平穏なその後が送れているとは思わない。
夢の中で、クレールは何度も姉を刺した。恋人だったはずの彼氏も、刺した。父も母も、クレールの包丁を胸に受けた。
夜中、目が覚めたクレールは汗をびっしょりとかいていて、震えが止まらなかった。
自分は人を殺した。ジャンの妹のように無垢な存在ではない。自分はジャンが可愛がる妹にはなれない。
クレールはベッドの上で自分の身体を抱きしめて嗚咽した。
こんな自分は、ジャンにも見守ってもらうに値しない。それなのに、近くに来てくれたことが嬉しいだなんて。どうしよう。クレールは、前世の自分を消したかった。
クレールが悪夢を見るようになって一週間が過ぎた。
畑に出ても覇気がなく、草を抜く手にも力がなかった。
「ねえ、クレールさん」
おずおずとマリーが話しかけてきた。
「夜中、うなされてるよね。何かあったの?」
「・・・ごめんね。うるさかったよね」
「違う、違う、心配なだけ。夢の中で、クレールさん、ひたすら謝ってるよ。誰にか分からないけど、夢の中で謝るくらいなら、本人か、それが無理ならシスターに懺悔したらどうかな」
「・・・そうね」
「ねえ、太陽の下で働くの、楽しいんじゃなかったの? もったいないよ、下ばっかり向いていたら」
マリーの精一杯の励ましが、クレールの胸に沁みた。
「ありがとう。そうね、そうかも」
「あのさ、どんな夢か聞いてもいい? つらいんだろうけど、人に話してみると、案外それだけのこと?ってなったりするよ。あたしが言っておいてなんだけど、シスターに話すと、余計に深刻になっちゃう気がするからさ。どう? マリーさんに、バーンと打ち明けてみない?」
そう言ってマリーは両腕を広げて笑った。その勢いにつられて、クレールは話してみることにした。
「マリーさんは、前世を信じる?」」
「え? ひょっとしてクレールさん、前世の行いに悩まされてるの? 律儀だなあ」
律儀という言葉にクレールは面食らった。
「律儀かしら」
「そうだよ、前世でどんな酷いことをやらかしてたって、そんなの償いようがないじゃない。きっとどこかの段階で、神様がちゃーんと帳尻を合わせてくれてるよ」
「マリーさんの前世は、どんなだったと思う?」
「あたし? あたしはね、前世はすごーい豪勢な暮らしをしてたの。可愛くてお洒落で素敵な人生を歩み過ぎちゃったから、今世ではちょっと控えめ、というか地味目にしておこうかって神様が決めたの。だからまた来世では王都でご機嫌な毎日を過ごすことになると信じてる。それには今、真面目に暮らしておかないとね」
マリーは得意げに胸を張った。なんと前向きな考えだろう。そうやって彼女は自分を律しているのだ。
クレールの前世も、どこかで帳尻を合わせてもらえただろうか。いやむしろ、それまでの虐待に近い扱いに自分で帳尻を合わせた結果があの復讐だったはずだ。最後は自分の命をもって贖ったのだから、あれで許してほしい。
いずれにせよ、前世の自分の行いに、今のクレールができることは何一つないのだ。
「私はね、前世で自由がほしかったの」
クレールがぽつりとこぼした。
「それなのに、またこんな修道院に押し込められちゃったの?」
「いいえ、ここは私が選んで、望んでここに来たの。太陽の下で働いたり、周りの人と会話をしたり、自分が読みたいと思った本を読んだり、そういう自由がほしかったの」
「お貴族様の暮らしって、そんなに窮屈なの? 修道院の暮らしが自由に思えるだなんて」
「貴族の生活はそれぞれだけど、私の前世と比べたら、今すごく自由なの」
「そっかあ、自由の範囲があまりに狭くてびっくりしちゃったけど、クレールさんが望んだ幸せなら、それは素敵なことだよね。うん、大丈夫、前世のことは、たぶん神様の帳尻合わせが終わってるはず。だから、望んだ自由も手に入ったんだよ。そう、思おうよ」
マリーの力強い慰めに、クレールは久しぶりに青空を仰ぎ見た。
その夜は悪夢を見なかった。
クレールは、前世の自分のしたことは、もう今の自分が負うべき罪ではないとして、その記憶に触れないことにした。無理に忘れようとせず、自然に薄れてゆくのを待とうと思った。
今のクレールは、クレールとして生まれてきてからのことだけに責任を持つ、そんな覚悟でこの先の人生を過ごすことに決めた。そうしてやっと、落ち込んでいた状態から浮上することができた。
翌日、まだ朝日も射さぬうちから、クレールは薬草畑に出て、あぜ道を大きく一周した。
ほんの一週間、見過ごしただけなのに、刈り取りの時期を逃しそうなものや、雑草が育ちすぎたところが目についた。ここは早目にやらないと、などと頭にメモを残していると、目の端に走って来る修道士の姿が映った。
「お嬢様」
息を切らせたジャンが、泣きそうな情けない顔をして近くまで来た。
「もう、出てきてくれないかと思いました」
「いいえ」
「あんな変なことを言ったから」
「いいえ」
「私はここにいても良いのでしょうか」
「亡くなった妹さんのために祈るのでしょう?」
「はい」
「でしたら私も祈りましょう。私も、あなたも、修道院に身を寄せた者同士です。祈ることがつとめですから」
「お嬢様の安寧を祈っても良いでしょうか」
ジャンの真っ直ぐな目が、クレールを射た。
「もちろんです。それに、あなたが近くにいてくれることが心強いです」
クレールは、奥底から湧きあがりそうな思いに蓋をして、修道女として正しくあろうと努めた。
やがて鐘の音が朝食の時刻を告げ、クレールとジャンはそれぞれの建物に戻った。
それからブドウの収穫の季節になるたび、クレールとジャンは、それぞれの畑からささやかな挨拶の言葉を交わし、お互いの安らかな暮らしを祈り合った。
傍から見れば、知り合い以下に見えるほど素っ気ない二人だったが、少なくともクレールは、ジャンが自分を見つけてまっすぐに歩み寄り、ただ一言、「こんにちは」とか「気持ちよく晴れましたね」などと声をかけてくれるだけで、ひたひたと胸に満ちてくるものを感じた。
二人の慎ましいやり取りは、何年もたてば人の口に登るようになった。
いつか揃って還俗するのでは、などと噂をされたりもしたが、クレールもジャンも、そんな素振りを微塵も見せることなく、クレールが六十五歳で生涯を閉じると、その翌月に、後を追うようにジャンも息を引き取った。
読んでいただき、ありがとうございました。
※タイトルがどうもしっくりこないので、変えるかもしれません




