辺境地区の特質(後)
私の視線に気付いたのか、トゥル様は私に笑いかけてから座った。
「君たちの会話の中に、初めて聞く名前があったが、魔獣かな?」
「玉石蟹ですか? 魔獣ではなくて、ただの蟹です。牧草地にいるので、枯れ草の中によく紛れ込んでいるんです」
「ただの蟹ということは、毒などはないんだね?」
トゥル様はクレイドを心配そうに見ている。
それが嬉しいのか、クレイドは元気よく右手を見せた。
「毒もないし、あいつらがいるのはよくあることなので、翼竜の世話をするときは革手袋をするようにしているんです。まあ、手袋越しでもこんな感じになりますが」
「革手袋越しでもこんなアザになるなんて、ずいぶん力が強い蟹なんだね。……ん?」
トゥル様が眉を動かした。
クレイドの手のひらに残るアザを見ているようだ。じっと見て、クレイドの手の甲も見る。そこにも当然アザがあって痛々しい。
でも、トゥル様の表情は何か不思議なものを見つけた時のものだ。
「どうかしましたか?」
「いや、アザの形が……手のひら側のアザは二つあるね」
「そうですね」
「でも、手の甲には一つしかない」
「はい」
「……どうしてだろうか?」
「え?」
私は首を傾げた。何をそんなに不思議がっているのかわからなくてクレイドを見たけれど、クレイドも首を傾げている。
私たち三人が無言で首を傾げている間に、ナジアが新しいお茶を注いでくれた。
それで我に返った私は、こほんと咳払いをした。
「もしかして、王都では蟹にハサミはないのでしょうか」
「あるよ。でもこんな感じだ」
トゥル様は人差し指と中指の二本だけを立てて、軽く動かした。それでやっと、私たちはトゥル様の疑問が分かった。
「玉石蟹はこんなハサミをしています」
私とクレイドが立てたのは、親指と人差し指と中指の三本。親指が残り二本と噛み合う形だ。トゥル様は目を丸くして、すぐに紙とペンを持ってきた。
「絵に描いてくれるかな」
「任せてください!」
クレイドがすぐに描き始めた。でも何かが違う。
「クレイド、そこは違うわよ。もっとこう丸くて……」
「あ、そうか。ん、このあたりは尖っていたかな。丸かったかな」
「尖っていたと思うわ。それで、ここはこんな……あれ、違ったかしら?」
「おいおい、それじゃあ川蟹だぞ!」
私もペンを借りて描いてみたけれど、何かが違う。二人でいろいろ描いては悩んでいて、ふと顔を上げるとトゥル様が面白そうな表情で、私たちをじっと見ていた。
「あ、あの……私たちではうまく描けないようなので、魔獣飼育舎の者に、見つけたら捕まえておくように伝えておきます!」
「気にしなくていいよ。本物を見ることができれば、それはそれで嬉しいけれどね」
トゥル様はそう言ってくれて、それからふと思い出したようにまた口を開いた。
「そういえば、君たちは結婚する可能性があったそうだが、そんなに仲がいいのになぜ婚約はしていなかったんだろうか」
「……えっ?」
突然のことに私が戸惑っていると、クレイドが真っ青になった。
「違いますよ! 前にも言いましたけど、その可能性があっただけで決まっていたわけじゃないんです! 俺たちはほとんど兄妹ですから! なあ、そうだよな!」
「そ、そうです! 秘術の件を外部に漏らすのは望ましくない、だったら身内ならどうか、という話があっただけです!」
「ああ、そうなのか。クレイド君はブライトル家の要になるだろうから、その布石も兼ねていたのかな」
なんとか納得してくれたようで、トゥル様は小さくうなずいた。もしかしたら、お父様が中途半端に話をしたのかもしれない。
話すならしっかり説明をしてもらいたかった。なんだか冷や汗をかいた気がする。
こっそりため息をついていると、トゥル様が私を見た。
「でも、具体的な話になっていなかったおかげで、シアは私と結婚してくれたんだね」
「……は、はい」
トゥル様が「シア」と呼んでくれると、耳に優しい響きが残って、顔にじわじわと熱が集まってしまう。
思わず目を逸らすと、クレイドがそわそわと立ち上がった。
「あのー、俺、そろそろ失礼しますね!」
「今日はゆっくり時間があると言っていたのに?」
「それは、その……俺はお邪魔かな、と……」
「できれば、もう少しここにいてもらえないだろうか。クレイド君と話す時、シアもくつろいだ話し方になるから」
トゥル様は私とクレイドに微笑んだ。
「二人とも、私と話すときは標準語を話そうとするだろう? でも、私はもっとブライトル領の言葉を聞きたいのだよ。メイドや騎士たちもそうだが、君たちの言葉には時々古い発音が混じっているようだから」
「……あ、だからメイドたちのおしゃべりを聴いているんですか?」
「やっぱりシアには見つかっていたんだね。盗み聞きになってしまって申し訳ないが、そうでもしなければ聞くことができないから」
トゥル様は少し目を逸らしながら苦笑した。
別に、立ち聞き自体は問題はない。
本当に聞かれたくない話なら、屋敷の中でしなければいいだけだから。この屋敷に隠し通路があって、そのことは最初に伝えているし。
でも、古語そのものが残っているのは気付いていたけれど、古い発音まで残っているなんて、考えたこともなかった。
クレイドは尊敬の気持ちを全く隠さない目を向けながら座り直した。
「さすがトゥル殿下! 昔の発音にも詳しいんですね!」
「私の教師となってくれた人が、そういう専門家だったからね。開拓時代の名残なのか、もっと昔のこの地の民族のものがそのまま残っているのか……興味深いなぁ」
そう語るトゥル様は楽しそうだ。
必要に迫られて剣を使うようになっているけれど、何もない平和の中で育っていたらトゥル様は学者になっていたかもしれない。
(今でも、十分に学者みたいだけれど)
こっそり笑っていると、クレイドに方言的な表現を質問していたトゥル様が私の方へ体を向けた。
「ねぇ、シアももっとこの地の言葉を話してくれないかな?」
「え、私もですか?」
「メイドたちの発音と、君たちの発音は少し違うんだ。領主のような支配階級の言葉なのか、メイドたちの言葉がより古い言葉なのか、とても気になっているよ!」
トゥル様の青と緑の中間のような目は、キラキラと輝いている。
せっかく期待してもらったのだから、全力で応えたい気持ちはある。あるけれど、でも……。
「……意識してしまうと、上手く喋ることができません」
「そうなの?」
「はい、そういうものなんです!」
トゥル様の言葉は基本は王都風で、さらに独特な王族特有の発音で話す。それ以外の発音を使うことはないから、使い分けの難しさがよくわからないようだ。
——でも、私は後ろ暗さで落ち着かない。
それらしく言ったけれど、方言と標準語の使い分けの難しさというより、本当は取り繕っていない私を見られることが、急に恥ずかしくなってしまっただけだから。
幸いなことに、そのことに気付かれてはいないようだ。
トゥル様は「なるほど、そういうものなのか」と残念そうにつぶやいていた。
(番外編 辺境地区の特質 終)




