乗馬(後)
「幼い頃はいろいろ乗っていたと聞いていたが、やはり鞍に座るのには慣れているね」
「あ、あの、トゥル様!」
「馬も君も落ち着いているんだから、もう少し先に進むべきだよ。……でも、さすがに横座りしか無理かな」
今日は馬の近くに行くだけのつもりだったから、普段通りのドレス姿であることを気にかけてくれたのだろう。
そっと馬のたてがみを触る。
少しだけ振り返った馬は、私の指示を待っているようだ。その目はとても静かで、嫌悪の表情はない。……そう見えるのは私の願望だろうか。
「お嬢様。念の為、ベルトを締めますよ」
今ではトゥル様専属の護衛となっている騎士のグレムが、手早くベルトを閉めてくれた。
通常の乗馬ではこんなベルトは使わない。でも私は何かあれば軽くなってしまう。ふわふわと揺れて鞍から浮いてしまわないように、飛行騎獣用の騎乗具を取り付けていたようだ。
つまり……最初から、私を乗せるつもりだった?
「ごめんね。でもオルテンシアちゃんなら大丈夫だと思ったんだ。怖くはないよね?」
「——はい」
私は大きく頷いた。
ぎゅっと手綱を握り締め、それから横座りのままだと思い出した。
貴族の女性たちは、横座りで馬に乗る……らしい。
王都ではそれでいいかもしれない。でもここは辺境地区。横座りだけで対応できるとは限らない。私は思い切って鞍を跨いだ。
一瞬、馬を撫でていたトゥル様の手が止まる。
でもグレムは少しも慌てない。それどころか懐かしそうな顔をした。
「懐かしいですね。お嬢様は何度令嬢らしい乗り方をと言われても、いつもそうしておいででした」
「安全な方法をとるのは当然でしょう?」
「それでこそお嬢様です」
グレムは笑った。
トゥル様は少し驚いた顔をしていたけれど、私のドレスの裾をさり気なく足に被せてくれた。
「……君は、思っていた以上に大胆なんだね」
「私は領主の娘ですから」
急に恥ずかしくなって、ついそんな言い方をしてしまう。
でもトゥル様はなぜか面白そうな顔をした。
「グレム。昔のオルテンシアちゃんは、いつもこんな感じだったのかな?」
「私の口からは言えません。ただ……ご想像の通りかと」
「そうか」
トゥル様は納得したように大きく頷いた。
(……幻滅されてしまったかしら)
不安になってトゥル様の表情を伺う。
トゥル様はなんだか硬い顔をして、目を逸らしていた。でも気のせいでなければ目の輝きはとても楽しそうだし……硬く結んでいる口元も不自然に動いている。
「もしかして、笑っていますか?」
「笑っていないよ」
「嘘です。私の目を見ていません」
「そ、そうだったかな」
トゥル様は少し慌てて私に目を向けた。
私がじっと見ていたから、パチリと目が合う。目があった途端に、トゥル様がすぐにまた目を逸らしてしまった。
「……やっぱり笑っていませんか?」
「いや、その、何というか……活発な君はかわいいなと思っただけだよ?」
「そ、そう言えばごまかせると思っていませんか!」
「そんなことはないよ。さあ、この子が待っているから少し歩いてみよう!」
トゥル様はいつもより早口でそう言うと、馬の手綱を軽く引く。
引っ張るとまでいかないくらいの動きだったが、馬は従順に歩き始めた。
馬の背に座る私の体が揺れる。バランスの取り方が思っていた以上に難しい。揺れすぎると、私の体は落下とみなして変異してしまう。急いで座る位置を変えてみたけれど遅かったようで、体がふわふわと揺れ始めてしまった。
「しっかりつかまっていれば大丈夫だよ。馬の負担にならないからちょうどいいと思って、気楽にいこう」
トゥル様がそう言ってくれたから、姿勢とか考えずに鞍に体を寄せるようにしがみつく。美しい乗り方ではないけれど、馬の負担にならないと思えば確かに気が楽だ。
しばらく振り回されるように感じる。
でも体が慣れてきたのか、体重が戻ってきたのか、やがて揺れはそんなに気にならなくなった。
恐る恐る背筋を伸ばして座ってみる。久しぶりだったけれど、馬の揺れ方に体を合わせるコツを掴むことができた。
「慣れてきたようだね」
「はい。少し走らせてみたいです」
「そうだな……君、オルテンシアちゃんを頼めるかな?」
トゥル様は私の耳元で揺れるカートルに声をかける。銀色の魔獣は、チリーン、と鳴いて大きく揺れた。
もう一度微笑んだトゥル様は、手綱から手を離した。私は緊張しながら、控えめに指示を出す。不慣れな指示を、馬は正確に受け取ってゆっくりと走り出した。
がくん、がくん、と何度も大きく体が揺れたけれど、その度にカートルが網のように体を広げてバランスを取ってくれる。私も体の使い方を思い出したから、もう怖くはない。
もう少しだけ早く駆けさせると、周囲の風景があっという間に流れ始め、体に風を強く感じた。
乗馬場を二回りしたところで、馬を止める。うまく指示を出せなかったけれど、馬が慣れているからか、カートルが何かしてくれたのか、すぐに止まってくれた。
ほっとして降りようとする。でも手が強張ってよく動かない。それに体が微妙な変異を起こしているようで、揺れが残っているようだ。
もたもたしている間に、トゥル様が手早く固定ベルトを外してくれて、そのまま軽々と下ろしてくれた。
「どうだった?」
「馬はとても用心深く走ってくれました」
「そうではなくて、君自身のことだよ。……感想は?」
私はトゥル様を見上げた。
まだ体が揺れる感覚は収まらない。トゥル様に支えてもらっていなければ、座り込んでしまいそうだ。
久しぶりの馬の背はとてもよく揺れた。でも風を感じたからか、本格的な疾走ではないのに馬車より速く感じた。
「……とても楽しかったです」
「そうか。よかったね」
トゥル様は笑った。
とても楽しそうだけれど、ほっとしたような顔だ。
(心配しながら見守るのは、私の役割だったはずなのに)
久しぶりの騎乗だったから、体がまだ強張っている。腕も疲れたし、背中もお腹も筋肉が痛い。いろいろ疲れた。本当に疲れてしまったけれど。
「馬に乗ることは、とても楽しいですね」
もう一度、口の中でつぶやく。
どうやら私は、馬車の中から見る光景より、風を受けながら見る光景の方が好きらしい。
今は二周しただけで精一杯でも、そのうちもっと長く乗れるようになるかもしれない。そうなったら——トゥル様と一緒に出かけることができる。
「トゥル様のお供ができるように、これからもっと練習したいです」
そういうと、トゥル様はじっと私を見つめ、それからふわりと微笑んだ。
「シアは、かわいいね」
「……えっ?」
一瞬、息を呑む。
でもトゥル様の微笑みは変わらず優しいままで、乱れていた私の髪をそっと撫で付けてから、ひらりと手を振って離れていく。
グレムが馬具を通常のものに換え、トゥル様も丁寧に確認してから身軽に騎乗する。
気がつくと、屋内練習場には複数の障害物が用意されていて、トゥル様はそれらに向けて馬を走らせた。
特に競技用の調教を受けているわけではないなのに、トゥル様が跨った馬は忠実に、軽々と障害物を飛び越えていく。
人馬一体となった姿はとても美しい。でも私は、いつものようにうっとりと見つめることができなかった。
——トゥル様に、とても優しく「シア」と呼んでもらえたから。
軽やかな蹄の音が幾重にも重なって響く。でも私の耳には、まだトゥル様のささやきが残っている。
いつまでも動揺している私を心配したのか、耳元のカートルが、チリ、チリ、と鳴いた。
(番外編 乗馬 終)




