エピローグ(1)
朝、私が身支度を終えて一息ついていると、扉を叩く音がした。
いつもメイドが報告に来る時間より、かなり早い。
「あら、今日の殿下は、薬草園にお向かいになったのでしょうか」
メイドがそんなことをつぶやきながら、扉へと向かう。私も立ち上がって、帽子を被ろうと手に取った。
今日は晴れ。
薄く曇っているけれど、いつもより明るい。薬草園を歩くのなら帽子がほしい天気だ。
軽く被って鏡の前に行こうとした時、扉を開けたメイドが「ひえっ」と変な声を出した。どうしたのだろうと振り返ると……扉の隙間から、鮮やかな金髪が見えた。
「……えっ?!」
私も、意味のない声を上げてしまった。
でも扉の向こうにいたトゥル様は、ひょいと顔だけを中に入れるように覗き込んできた。
「急にごめんね。少し中に入ってもいいかな?」
「あ、はい、もちろんどうぞ」
私が慌ててそういうと、メイドも我に返ったように大きく扉を開く。トゥル様は、まるで中庭を散歩している時のように優雅に歩いている。
私のすぐ前で足を止めたトゥル様の後ろで、メイドたちが何か必死な顔で合図を送ってきた。
頭を指差しているようだ。
ぱちぱちと瞬きをした私は、帽子を中途半端に被ったままだったことを思い出して、急いで帽子を脱いだ。
メイドたちがほっとした顔をする。そしていつもの控えめな表情を作って壁際へと移動した。
帽子を背中に隠す私に、トゥル様はわずかに首を傾げて微笑んだ。
「覚えているかな。今日は、君と結婚して一年の日だよ」
「……あ、そういえば」
一週間ほど前に、お父様がそういう話をしていた。
契約を続けるかどうかの確認だったから、それで話は終わったと思っていた。
でも、そうだった。
一年前の今日、私はトゥル様と初めてお会いして、結婚したのだった。
「この辺りでは、結婚記念日というものはあまり気にしないそうだけど、私は王都の人間だからね。特別な日なんだ」
トゥル様は私の左腕に触れた。
驚いて帽子から手を離す。帽子は床に落ちてしまったけれど、気にしている余裕はない。
硬直する私の左手首に、トゥル様が何かをさらりと巻き付けた。
一瞬ひんやりとする。でも、すぐに体温に馴染んだ。
ブレスレットだ。黒くて小さなものが、金の輪で丁寧に繋げられている。
好奇心に負けて、私は巻きつけられたばかりのブレスレットを触ってみた。光をよく反射する様は黒曜石に似ている。でも黒曜石にしては軽いし、一枚一枚が透き通りそうなほど薄い。
初めて見る素材だ。
手を動かすと、黒に見えた表面が虹のように色を変えた。
「きれい」
思わずつぶやいた私を、トゥル様はほっとしたように見ていた。
「気に入ってくれたかな?」
「はい。でも、これは何でしょう。こんなきれいな黒い宝石は初めて見ました」
「えっと、宝石ではないんだ。だから、あまり価値はないかもしれないけど……君は濃い色のドレスをよく着るから、黒は似合うと思って」
少し照れたようなトゥル様に促され、私は鏡の前に立ってみた。
大きな姿見に映っている私は襟の詰まった飾り気のないドレスを着ている。色もいつも通りに濃い。
でも、そんなドレスだから、手首のブレスレットははっきりと浮き立っている。
かわいいというのとは違うけれど……とてもきれいだ。身につけていることを意識させないくらいに軽いのもいい。
毎日つけていたくなる。
「職人たちが音を上げるくらい丈夫だから、気軽に身につけてくれると嬉しいな」
「こんなに薄いのに、固いのですか?」
「普通の道具では穴を開けることができなかったんだ。仕方がないから、パージェに噛み付いてもらって穴を開けたよ」
パージェ、というのは、ドラゴンの幼体のことだ。
時々、ふらりとやってきてはトゥル様に撫でられている魔獣は、いつの間にか名前がついていた。トゥル様が名を呼んだ時に嫌がるそぶりはないから、きっと気に入っているのだろう。姿を現すのも頻繁になっている。
……そのドラゴンが噛み付いて、やっと穴が開く?
ふと、私はブレスレットに目を向けた。
黒くて、艶やかで、薄くて、丈夫だなんて、まるで……。
「え、まさかこれ、ドラゴンの鱗ですか!?」
「当たり! パージェを撫でていた時に取れたんだ。きれいだから集めてみたんだ」
トゥル様は嬉しそうに笑った。
……この鱗の大きさから推測すると、パージェと名付けられたドラゴンの幼体は、本当の大きさは鸚哥どころではなく、かなり大きいのではないか。
ちょうど猫と同じくらいの大きさか、もう少し大きいか……思ったより幼くはないらしい。




