羽虫もどき(2)
「これだ! これだよ! もう今日はいなくなってしまったと諦めかけていたけど、今日は戻ってきてくれたようだ!」
トゥル様が嬉しそうに笑っている。
ふわりと飛んできた「羽虫もどき」が、思わず差し出してしまったらしいトゥル様の手のひらに降りてとまる。
目を輝かせたトゥル様が覗き込み、でも首を傾げた。
「……おかしいな。さっき見たのより大きい。別の種類なのかな」
私もトゥル様の手を見た。
手のひらに、何かがのんびりと載っていた。
全身は魚のように細かく黒い鱗に覆われていて、明るい太陽の光を受けてキラキラと輝いている。大きな翼は体の何倍もあり、小さな鱗に覆われた尾は長い。
翼は一対で、脚が二対。
大きめの羽虫くらいと言っていたけれど、今、手のひらに乗っているものはトゥル様の中指の長さと同じくらいだ。
大きさはともかく、スケッチと全く同じ特徴を持っている。そして、パチリと開いた目は銀色だった。
予想していた通りの姿だ。だから衝撃は少ないはずなのに……全身が一瞬で冷えた気がした。
額に嫌な汗が浮かんで、頬へと流れ落ちていく。トゥル様は心配そうな顔になった。
「オルテンシアちゃん? 大丈夫?」
「……トゥル様……トゥライビス殿下……それは虫ではありません」
やっと、声が出た。
体が震えるのを必死で抑えようとしたけれど、うまくいかない。
トゥル様は、自分の手のひらに載っている羽虫もどきを困ったように見た。
「そうか、やっぱり虫ではなかったんだね。もしかして、毒のある魔獣なのかな?」
「…………毒は、持っていないはずです」
「そうなんだ?」
トゥル様はほっとしたようだけれど、私の反応がおかしすぎるために首を傾げている。
「では、これには何か別の問題があるのかな?」
「……とても大きな問題があります。それは……最上位の魔獣です」
「え?」
トゥル様が、一瞬ぽかんとする。
私はごくりと唾を飲む。
できるだけ笑顔を保とうとしたけれど、どこまでできているだろうか。でも、トゥル様の安全を確保することと辺境地区の常識をお教えするのは「妻」である私の役目だ。
体が震える。
それを懸命に抑え、私はもう一度笑おうとした。
「それは……ドラゴンの幼体です」
「…………えっ?!」
トゥル様は私を見つめる。
羽虫もどきは……黒ドラゴンの幼体は手のひらからふわりと飛び立った。
「これが、ドラゴン?」
見上げながら、殿下は呆然と呟く。その声で、私ははっと我に返った。
「……あ、待って!」
私は必死で手を伸ばしてしまった。
あれがトゥル様のそばにいてくれれば、トゥル様を襲う魔獣は激減する。もう魔獣の襲撃に怯えなくて済む。そう考えてしまったのだ。
羽虫もどきは……ドラゴンの幼体は、もう手の届かない高さに浮かんでいた。落ち着いて考えれば、私が手を伸ばしたから、さらに高く飛んでしまったのかもしれない。
でも、完全に逃げようとはしていない。私とトゥル様をじっと見ている。とても興味深そうに見えるから、まだ望みはあるかもしれない。
虫取り用の網があれば捕まえることができただろうか。そんな無茶苦茶なことを考えてしまった時、空中に浮かぶドラゴンを見ていたトゥル様は、そっと手を上に差し出した。
「私の奥様が君をお望みらしい。降りてきてくれるかな?」
人間に対するように、トゥル様はドラゴンの幼体に語りかけた。
穏やかで、柔らかく、とても優しい声で……私は思わず聞き惚れてしまった。
そして。
トゥル様の手に、再び黒い羽虫もどきが降りてくる。ちょこんときれいな指に捕まり、とたとたと腕に沿って歩いていく。
金髪がかかる肩まできて、ようやく満足したように足を止める。……気のせいでなければ、大きさがまた変わっていた。
トゥル様も首を傾げてしまった。
「うーん、また大きくなったね。もう羽虫ではないな。幼い頃に見た異国の鳥くらいか? あれはなんと言ったかな……そうだ、インコだ!」
インコという鳥のことは知っている。
お母様が、王宮の話をしてくれた時に出てきた鳥だ。ちょっと可愛らしい絵も描いてくれた。
体は私の拳くらいで、嘴は丸く曲がっていて、人にとてもよく懐くと言っていた。お母様の描いてくれた絵では、辺境地区では馴染みのある鮮やかな色に塗られていた。
幼い頃の私は、どんな鳥だろうと一生懸命に想像していた。
だから、肩に幼体をとまらせたトゥル様の姿は、思い描いていたものに近い。トゥル様の頬に甘えるように体を擦り寄せる様子も、とても微笑ましいのだけれど……。
あの小さな魔獣は、辺境地区でも最強の存在。
成体になれば、我がブライトル家が全戦力を傾けても勝てるかどうかという強大な存在で、幼体でもすでに大きさを自在に変えているから、氷嶺山猫と同じくらいの魔力を持っているはず。
……そういう、とても恐ろしい存在、なのだけれど。
「ははは、なんだか人懐っこい子だね! 思っていたよりかわいいな!」
トゥル様は、しきりに擦り寄ってくる幼体を撫でながら笑っている。
その姿はとてものどかで、ドラゴンも楽しそうで……私はふうっとため息をついて、肩に入っていた力を無理矢理に抜くことにした。




