蝶の群れ(1)
翌日、とてもよく晴れていた。
でもお母様に急な来客があって、見張り塔へ行くのは二日延期されることになった。
その間に、予想に反してまた雨が降り始めてしまった。
二日後も雨が続くようなら、見張り塔行きはさらに延期しなければいけない。そう気を揉んでいたけれど、そんな私を見たトゥル様は「いつかは晴れるだろう?」とのんびりと笑っていた。
また気を遣わせてしまったようだ。
でも、幸いなことに、私が密かに落ち込んでいる間に雨は弱まって、二日後の日の出の頃には完全に上がってくれた。太陽が高くなった今は、ほんのりと青い空が広がっている。風も強くはないようだ。
絶好の散歩日和だ。
ようやく予定が空いたお母様は、トゥル様を見張り塔へとご案内した。
「この塔は、この屋敷の中では最も古い建造物の一つです。何かあったときのために、領主の部屋から直接この塔につながる秘密の通路が作られています。シアの部屋からもつながっていますが、その辺りの秘密の通路は、そのうちお教えしましょう」
「興味深い話だけど、そういうのは、私は聞かない方がいいのではないかな?」
「我らは、殿下にならお教えしても問題ないと考えています。あとは……殿下のお心次第でしょう」
「……私ではなく、オルテンシアちゃんの心次第だと思うよ。ブライトル伯爵夫人」
「我らは殿下の覚悟を知りたいのです」
前を歩くお母様とトゥル様が、何やら話をしている。
でも、私にはその内容を気にする余裕はない。見張り塔はとても高いのだ。翼竜がいる上部へ上がるためには、長い階段を登り続けなければいけない。
毎日のように昇り降りするお母様はもちろん平然としているし、優雅な貴公子にしか見えないトゥル様も息を乱さずに登っている。
でも私は、二人に遅れながら、やっと一段一段進んでいる状態だ。
(……やっぱり、私は下で待っていればよかったかしら)
本当はそうするべきだったと思う。
長い階段を見上げた時も、そう思った。
でも私は、トゥル様と一緒に行きたかった。うまくバランスが取れないこの体のことを無視して、塔の上に行きたかった。トゥル様が翼竜を見る時の目の輝きを、興奮したような質問を、すぐそばで見て、聞いていたかったから。
愚かなことをしていると思う。
私がいなければ、お母様とトゥル様はとっくに頂上まで着いていただろう。ここで待つと、今からでも言うべきだ。
そんなことを考えているのに、私は息を切らせてまた一段登る。ふと顔を上げると、トゥル様が心配そうに振り返っていた。
「オルテンシアちゃん。少し休もうか?」
「……大丈夫です。でも時間がかかりそうなので、お二人は先に行ってください」
「君を待つよ。私は急いでいないし、ゆっくり話を聞きながら上るのは楽しい。それでいいだろうか、ブライトル伯爵夫人?」
「問題ありません。今日の仕事は人に任せていますから、時間はあります」
……誰に任せたのだろう。
お母様の性格なら、副官ではないだろう。きっとお父様だ。
押し付けられた時のお父様の顔を想像して、こっそり笑ってしまう。体のきつさが少し和らいだ気がした。ついでに深呼吸をする。
(大丈夫。もう少し頑張れる)
そう思った時、トゥル様が手を差し出した。
「手を引いてあげるよ。それとも、後ろから押してあげようか?」
「……お手をお借りします!」
トゥル様が本当に後ろに回り込もうとしたので、私は慌ててトゥル様の手を握った。
しっかりとした手が、私を軽く引っ張る。
重かった体が軽くなる。壁で体を支え、トゥル様に引っ張り上げてもらい、私は階段をまた上り始めた。
不思議だ。
私の体は、トゥル様に手を引いてもらうととても軽くなる。どんな悪い道も、どんな階段も平気になる。まるで……子供の頃に戻ったようだ。
いつの間にか、ずいぶん高いところまできたようだ。少しずつ空間が狭くなり、階段も狭くなる。子供の頃に息を切らせながら駆け上がった記憶がさぁっと蘇った。
(そうだ、こんな風に狭い階段が続いたら、もうすぐ頂上になるんだったわね)
やがて、階段が途切れて終わる。
番兵が重い扉を明けると、突然周りが明るくなった。
強い風で体を押し戻されそうになる。でもトゥル様がいつの間にか私の後ろに立っていて、抱き止められていた。
「大丈夫? 着いたみたいだよ」
トゥル様はそう言って笑い、前を見る。
青と緑の目は明るく輝いていた。
端正な頬が、初めて翼竜を見た子供のように紅潮している。いや、トゥル様はこんなに近くで翼竜を見るのは初めてのはずだから、少しもおかしいことではない。翼竜を見れば、大人だって一瞬で子供に戻ってしまうものだから。
「我がブライトル家の翼竜は、いかがですか?」
まだ荒い息のまま、私はそっと聞く。
翼竜を見つめたまま、トゥル様は笑った。
「すばらしいな。とても美しいよ!」
歓声なのか、吐息なのか、あるいは両方なのか。声が弾んでいる。
——このトゥル様を見たかったのだ。
壁に手をついてやっと立っているような疲労の中、私は深い満足を覚えた。
翼竜と言われる魔獣は、実はいろいろな種類がある。
我がブライトル家が所有する翼竜は長毛種。山羊のような長い毛が全身を覆っている。騎獣として使っているものは、ほとんどが緑色の翼竜で、例外はお母様の騎獣くらいだ。
見張り塔の待機場にいた翼竜も、緑色の長い毛が美しい翼竜だった。巨大な体と銀色の目がなければ、普通の動物に近い。
翼は前脚が変化したもので、腕と指に相当する部分が長く伸び、体との間に薄い幕状の皮膚が広がっている。もちろん、その翼にも長い毛があるから、空を飛んでいるときはその毛が後ろに流れてとても美しい。
そう言う説明を、お母様がトゥル様に丁寧にしている。
トゥル様は頷いているけれど、緑色が強く輝く目は翼竜をずっと見ている。半分聞き流しているようだ。
でも全く話を聞いていないかと言うと、そうでもない。後から、聞き流したと思った説明について質問してきたりするのだ。
トゥル様は翼竜のすぐそばにいた。でも手を伸ばしたりはしない。お母様がいるから翼竜がトゥル様を攻撃することはないけれど、みだりに触ろうとしないところがトゥル様らしい。
(……あれだけ近付いていれば、大して変わらない気もするけれど)
こっそり笑った私は、少し離れたところに用意された椅子に座っていた。疲れてしまったため、と言う口実だ。
でも本当の理由は、私が近付くと翼竜が不機嫌になってしまうため。トゥル様は翼竜に好意を寄せられているから、邪魔はしたくないのだ。
ここにお連れしてよかった。
そう思いながら、ほっとため息をついた時、翼竜がふと視線を動かした。
少し遅れて、見張りの兵士が下方を指差した。
「奥方様。あれはなんでしょうか」
お母様も見ている。翼竜の不機嫌そうな様子に少し気を取られながら、私もそちらを見た。
蝶だ。
鮮やかな赤紫色の蝶が飛んでいる。
それだけなら特に珍しいことではない。赤揚羽は屋敷の中庭でも見かけるから。でも見張りが指差した蝶は一匹ではなかった。十匹くらいいるだろうか。群れを作るように飛んでいる。
「……赤揚羽が群れを作るなんて、珍しい」
お母様がつぶやく。
警戒するように腰の剣に手をかけたのは、辺境地区の警備をするものの習性だ。さらに、見張りが違う方向を指差した。
「西からも蝶の群れが近付いてきます!」
「警戒を続けよ! シア、あなたは下がっていなさい。殿下は、念のためこちらへ」
お母様は殿下を翼竜の影へと招く。
万が一の時は、殿下を乗せて上空に逃れるためだろう。敵の狙いを分散させる意味もある。お母様はどの翼竜でも乗りこなす。お母様と翼竜がいれば、殿下は安全だ。カートルもお渡ししている。




