第八十六話・近代製鉄の始まり
side:久遠一馬
那古野から少し離れた庄内川の沿岸にある工業村には、この日多くの人が集まっている。
信秀さんを筆頭に織田家の重臣に、津島神社や熱田神社の神職も集まり、高炉の火入れ式を行うことにしたんだ。
まあ取り仕切ってるのは政秀さんで、オレじゃないけどさ。
ぶっちゃけ必要なのか疑問もあるけど、元の世界でさえ火入れ式とかあるからなぁ。
「これが鉄を作るとはな」
「明や南蛮の物を参考にウチで改良しました。現有の製鉄法より圧倒的に大量の鉄を作れます。欠点は原料を海外から運ばねばならないことですね」
天守のない時代だけど、物見の為の櫓や五重塔などはある。建物の大きさや凄さはその人の権力を表してる一面はあると思う。
耐火レンガ製の高炉は他にはない威圧感があるし、信秀さんの力を誇示するにはちょうどいいかもしれない。
別に狙ったわけじゃないけどね。
「原料は日ノ本にはないのか?」
「探せばあるでしょうが、誰の領地にあるかわかりませんので。ウチだと海外から運んだ方が早いんです」
ほとんどの人は何をどうするのか理解していない。一部の職人には少し前から教え始めてるけどね。当面はウチで管理する必要があるだろう。
工業村には原材料の鉄鉱石やコークスが山積みにされていて、その量にもみんな驚いてる。
高炉は一度火を入れると落とせないらしく、原材料を絶やすことはできない。原材料の輸送は場所的に熱田の方が近くていいので、熱田でガレオン船から下ろして川舟で工業村まで運んでもらっている。
台風や長雨で輸送できないことを考えると、相応の備蓄は必要なんだよね。
「これが稼働すれば尾張は変わります。ただ、鍛冶職人が足りないのは相変わらずですけどね。余った鉄はウチで買います。加工してもよし売ってもよしと、使い道はいろいろありますから」
「そういうところは抜け目がないな」
「商売をしないと、ウチもやっていけませんから」
時代的にもう少し後になるだろうが、史実では南蛮人から鉄を買っていた。南蛮鉄と呼ばれて、鎖国までは輸入されていたはずだ。需要はあると見ていい。
問題は製鉄と精錬はここでやるけど、鉄から物を造る鍛冶職人もまた作られる鉄の量に合わせて必要だということだ。
刀や槍に鉄砲は当然ながら、農具や工具なんかの日用品も全て職人の手作りだからね。
職人は尾張の内外から集めている。でも生産量に見合う数の職人なんて居ないし、職人の力量も様々だ。
工業村では製鉄と粗銅の精錬に銭の鋳造が、当面の主力だ。落ち着いたら火縄銃とか鋳造砲の生産もしたいけど。
いずれは近江の国友とか紀伊の雑賀とかを超える工業村にしたいな。
ともかくこれで、春までに工業村と牧場と農業試験村を始める目標は達成した訳だ。
いや、工業村の外に作る公衆浴場街はまだできてないや。現状で完成したのは高炉と反射炉に、粗銅の精錬と銭の鋳造所と職人たちの住まいに代官屋敷だけ。
工業村の敷地も大半がまだ手付かずだったりする。
こればっかりは仕方ない。反射炉は高炉に合わせるならまだまだ増やさなきゃならないし、職人も足りないからね。はぁ、先は長いよ。
side:佐治水軍のとある武士
「瀬戸内の水軍衆にはこのような物まであるとは……」
「銭が余っておるのか?」
「連中も頻繁に使える物ではあるまい。されど我らよりは実入りは多いであろうな」
久遠殿に礼を言いに那古野に行って戻られた殿は、またとんでもない物を持ち帰った。
瀬戸内の水軍が使うという焙烙玉だ。何でも久遠殿が試作した物らしいが、噂以上に危険な代物だ。まあ久遠殿の南蛮船の砲ほど危険ではないがな。
されどこのような物を用意できる、瀬戸内の水軍が羨ましくなる。伊勢湾の交易は盛んだが、やはり畿内と西国は更に交易が盛んなのであろう。
「これなら我らでも作れるな」
「ああ、硝石は高いがな。織田家には久遠殿が納めておるというし、買うなら久遠殿に頼まねばなるまい」
「気前のいい御仁にも見えるが、裏を読めば我らからも利益を得ようとしてるような……」
「なら他から買うか? 聞いた話だと、値がまるで違うらしいぞ」
久遠殿の南蛮船の砲は我らには作れん。だが焙烙玉ならば作れるであろう。ここは焼き物も盛んなのだ。
しかし焙烙玉の玉薬に必要な硝石は、久遠殿から買わねばなるまい。他より値が安いのもあるし、同じ織田家中なのに他から買えば久遠殿とて面白くあるまいしな。
まあ理由もなく便宜を図られるよりはいいがな。向こうとて商売をせねば、あんな船を何隻も維持できまい。
我らに技術を教え、物を売りたいのであろう。
「そういえば久遠殿の島とやらは、本当にあるのか?」
「あるだろう。ないならばどこから来たのだ?」
「いや、久遠殿が南蛮の国の間者だと、噂があっただろう?」
「そんなこと織田の大殿ならば、とっくに考えておろう」
ただ久遠殿が本当は南蛮の間者ではないのかという話は、どこからか流れてきた噂だ。
あのような大きな船を何隻も持てるとなると、我らより遥かに力がなくてはならぬ。南蛮との交易で稼いでおるとは聞いても、それを我らが確かめる術はないのだしな。
とはいえ間者の噂は東から流れてきた。恐らくは今川の流言であろう。
そもそも久遠殿の運ぶ物の量と織田の利益を考えると、織田の大殿は南蛮の間者だとしても、構わぬと考えても不思議ではない。
「例の船を使いこなせたら、行ってみたらいいではないか」
「荷を運ぶ仕事くらいあろう」
「片道十日か。少し恐いな」
まあ久遠殿が間者だろうと、そうでなかろうと関係ない。我らは久遠殿から南蛮や明の技術を学び、海に出るまで。
それにぐずぐずしておると、他の水軍衆に久遠殿が声を掛けないとも限らない。いや目端の利く水軍衆が久遠殿に直接臣従を申し出ても驚きはせん。
あれほどの便宜を図ってくれるならば、臣下に入るという水軍衆もあるだろう。
「それより例の網はどうだ?」
「あれはすごいです。大きくて使いやすいですし、よく魚が獲れまする」
「海苔の養殖も急がねばな」
正直なところ、我らも実質的に久遠殿の臣下のような仕事になるが、贅沢は言っておられん。
我らは働いて稼がねば食えんのだ。
織田だろうが今川だろうが久遠だろうが、誰でも構わん。食えるだけの仕事を拒絶する余裕はない。
――――――――――――――――――
那古野工業村
天文17年の春に織田弾正忠家が造った、高炉型製鉄炉を中心とする施設の総称である。
織田弾正忠家に仕官した久遠家が伝えた、高炉型製鉄炉の実験施設であったと言われるが、詳細は不明。
しかし信秀自身が南蛮技術を試すために造らせたと発言していたことは確かなようで、多くの人は半信半疑だったと伝わる。
高炉の型は久遠式高炉と思われ、当時の資料から石炭を蒸し焼きにしたコークスの高炉だったと思われる。
当時の明やヨーロッパ諸国では依然として木炭製鉄しかしてない時代に、何故久遠家にコークスを利用した高炉の技術があったかは不明である。
ただ久遠諸島は小さな諸島群であり、比較的大きな父島や母島でも土地は限られていた。
そんな久遠諸島で木炭による製鉄などできるはずもなく、ヨーロッパかあるいは明から渡ってきた技術者たちが、石炭での製鉄に目を付けたのではと考えられている。
久遠諸島にも同時期と思われる小型の高炉や反射炉にコークス炉の跡があり、ある程度久遠諸島にて技術は完成していたと思われる。
尤も久遠諸島は現在も全て久遠家の私有諸島であり、本格的な発掘調査は実現してないので詳細は不明である。
一説にはすでに領有や交流があった、シベリアか南洋諸島のどこかで製鉄を試みたとも言われるが、こちらも確固たる証拠はない。
そもそも久遠家の祖は倭寇の一族と思われているが、こちらも確固たる証拠がない後世の創作の影響が強く、織田家仕官以前はよくわかっていない。
現状で判明しているのは、久遠諸島は木炭での本格的な製鉄は向かないことで、その技術が織田家に伝わるまでは小型の高炉で、コークスを利用して細々と製鉄していたらしいという推測だけになる。
那古野の久遠式高炉は高さ9メートルほどで、当時の日本での鉄の生産量が3000トン余りの時代に、凡そ年間1600トンを生産したと思われる。
技術的には世界最先端の高炉であり、森林資源の減少を招かない画期的な物であった。
しかしその事実を知るのは久遠家と信秀・信長親子と一部の者に限られたようで、当時の技術者たちですら南蛮渡来の技術と信じていたとの逸話がある。
その影響は戦国時代を変えたとも言われるが、その技術が国外に流出することはなく、ヨーロッパでコークスが使われ出したのは161年後の1709年だった。
なお、織田家ではここで製錬技術が未熟だった国内の銅から金銀も抽出していたようで、他にも銅銭の鋳造もここで行われたと思われている。
ただ、那古野工業村は後に移転拡大されており、工業村の施設は全て撤去され更地に戻されたため、遺構などが残っておらず、全体としての実情はよく分かってない。
現在那古野工業村の跡地には、近代製鉄発祥の地という小さな記念の石碑があるのみであり、他には当時を偲ぶ物はない。














