第三百九十九話・安祥城
Side:織田信広
謁見の間と言うには口幅ったい、我が安祥城の一の間、評定の間は静まり返っておる。無理もない。わしですら戸惑っておるのだからな。
「直にお話しさせていただくのは初めてでございますね。久遠ウルザと申します」
「同じく久遠ヒルザ」
まるで日に焼けすぎたような黒い肌をした若い女だ。織田の家紋の入った書状を持っておったことで身分が明らかになった。
彼女たちは配下の忍び衆と共に、本證寺領と隣接する村で野盗の如く村を襲ってきた者どもを事前に察知して捕らえたのだ。
残らず生かしたまま捕らえたということで、ここ安祥城まで連行してきたというのだから騒ぎとなった。
わし以外は顔を知る者がおらんかったが、正月に久遠殿の屋敷に行った際にちらりと顔を見た覚えがある。
まさか久遠殿の奥方がこんな険呑なところに来ておったとは。
「よう参られたな。とはいえさすがに少し驚いたわ」
「お騒がせして申し訳ありません。情勢が少し難しいので直に指揮しておりました」
ただ噂で聞いたことがある。久遠殿の抱える忍び衆の中でも精鋭中の精鋭を指揮する奥方がおると。なんでも忍び狩りを行なった今川の兵を悉く始末し、物頭の武士の首を差配した国人の寝所に据え置いた、はたまた『賠償頂戴致す』の紙一枚を残して国人自慢の鎧兜武具一領をいつの間にやら失せさせたとか。今川方は恐れを込めて『影の衆』と呼んでおるらしい。
真偽の怪しい噂だと思っておったが、満更嘘ではないらしいな。
「やはりそれほどか?」
「はい。一揆が起きて織田領に来てもおかしくはない状況です」
清洲にはこちらの情勢を日課の如くに文で送っておるが、西三河ではすでに戦が始まっておるような状況だ。
本證寺は織田に向ける敵対の意思はないと言うておるが、すでにこちらの領地が襲われたのは一件や二件ではない。
相手が寺なので襲われた国人衆も、勇んで攻めるとは言わぬが、憤懣遣る方無い者や、このまま一揆が起きて攻めてくるのではと恐れる者はおる。
それに一向宗を信仰しておる者は家中にもおる。一揆に加担する者が家中からでるのではと疑いに捉われる者もおって、疑心暗鬼になりかけておるのだ。
ウルザ殿の言葉に控えておる者たちが息を呑んだのがわかる。
「それは困ったな」
「お言葉ですが、たとえ一揆が起きてもこの城を落とせるほどの勢力には至らないでしょう。末端の寺は本證寺の動きに同調しないところも多くあります。それに、狙いは矢作川の東岸です」
たかが女如きと侮る者が数人おるようだが、ウルザ殿はそんな者など眼中にないとばかりに堂々とした態度だ。
つい困ったと口を滑らせてしまったが、あっさりとこの城は落ちないと言い切るとは。肝も据わっておるわ。それに本證寺の狙いはやはり松平と今川か。
「それも困ったことだ。東岸には内々ではあるが織田に臣従をすると言うておる者が少なからずおる。見殺しには出来まい?」
このふたりはいかにやら揺れる家中の様子を理解しておるらしいな。まさかそれを知って来たのか? 周囲の戸惑いに落ち着いた笑みで微笑んでおるわ。
「御心配には及びません。それはすでに策が動いておりますれば……」
「あの件が上手くいっておるのか?」
「はい」
懸案は矢作川の向こうだ。松平が今川に臣従したせいで今川方に組み込まれた状況ではあるが、向こうにはすでに織田に臣従を申し出ておる者も少なくない。
本證寺に策が漏洩することを懸念して三河の国人衆には知らせておらぬが、今川家と対一向衆で共闘致す話があるのは父上から知らされておる。
三河におればあの今川と共闘などありえるのかと半信半疑な思いだったが、ウルザ殿たちは詳細を知っておるようで本当にその線で進めておるようだな。
「殿、策というのは……」
「まだ言えぬ。下手に漏れれば策が無駄になるからな。父上と久遠殿が進めておる策だ」
策という言葉に国人衆たちは驚き戸惑う者もおるが、父上と久遠殿の名を使うと静まり返った。
正しくには今川家の太原雪斎が打診致してきた策だと聞いたが、まだ一族や重臣にも内密な策のはずだ。
それにしても父上と久遠殿の名はすさまじいな。如何なるのだと不安そうだった三河者の表情が一瞬で変わった。
「ただその前に領内を荒らす不届き者を捕らえるべきかと。こちらで得た情勢の知見をお役立てください」
「そうだな。すまぬが詳しい話を頼む」
なるほど。城に来たわけはこちらが本命か。これ以上領内を荒らされると、こちらの領民が決起するか国人衆が離反する恐れもあるからな。
さすがは久遠殿の奥方だ。噂以上だな。無論、久遠殿と奥方衆を知っておれば甘く見るつもりはなかったが。
名を馳せておる奥方でなくても、これほどだとは。弟となった男の嫁御でなくば、配下に欲しいくらいだ。
Side:久遠一馬
尾張では遅植えの稲の収穫と、その後の麦の種まきが始まっていた。
このまま何事もなく武芸大会を開催したいのだが、三河は日々情勢が悪化している。
正直『困っているので助けてほしい』と言ってくれれば、飢えない程度に援助はするんだけどね。先日には野分の見舞金を願証寺宛に織田家と連名で少し贈ったが、その御礼言上にと清洲城の信秀さんを表敬訪問した帰りに、那古野のウチに挨拶がてらに訪ねてきた願証寺のお坊さんも困惑していた。
本證寺の中でも個人では現状を危ういと考えている人はそれなりにいて、一部ではなんとか事態を収めようと願証寺と連携して動いているお坊さんもいるようだが、本證寺上層部の坊主どもは織田への警戒と自分たちの既得権を維持することで頭がいっぱいらしい。
最後に、加賀のようにはしたくないと複雑な様子でポツリと語ったお坊さんの憔悴した姿には、願証寺を見直したくらいだ。
もともと石山本願寺は一揆には否定的であり、石山本願寺を戦に駆り立てて一揆と武装化に傾けたのは畿内の幕府内の対立だ。
加賀の一向一揆でも石山本願寺はやり過ぎだと介入したらしいが、それが更なる泥沼になったという有様でもある。
今回も願証寺からは石山本願寺に仲裁を求める使者を送ったらしい。
「本證寺の狙いは今川か」
「恐らくは。さすがに織田を敵に回したくはないようで」
この日、ウチの屋敷で火縄銃を撃っていた信長さんに先日願証寺からもたらされた極秘情報を知らせたが、信長さんは少し考え込む様子を見せてる。
少し驚きだが、本證寺の情報が本證寺内の穏健派から願証寺に伝わって、ほとんどそのまま織田に流れてくるんだよね。
今のところ本證寺上層部の坊主どもは松平と今川狙いで動こうとしているが、ほかの一向宗の上宮寺と勝鬘寺がそれに賛成と反対で内部で割れているらしい。
「だが小競り合いは増えておるのであろう?」
「そうですね。本證寺領では領民も坊主も殺気立っているんで、忍び衆も撤退しました。よそ者というだけで襲われるんです。願証寺が内部の様子を流してきますし、行商人や薬師にも本證寺領には行かないように命じてもらってます」
信長さんも懸念しているが本證寺領は殺伐としていて、よそ者は誰だろうと関係なく襲われ始めてるので忍び衆ですら撤退させた。
尾張の行商人とか旅人が何人も殺されたんだ。忍び衆も旅の薬師として救助活動していたが殺されそうになったこともあって、現地でサポートしているウルザとヒルザが撤退させている。本当に三河から東は、為政者や宗教者を名乗る野盗山賊の支配地が多すぎる。
時期的に年貢の現金化とかで商人が動く時期なんだけどね。命には代えられない。
本證寺上層部の坊主どもはなにがなんでも税を払えと命じているため、本證寺領の領民が旅人や織田領から奪っているんだ。
これってオレからすると十分織田への敵対行為に見えるが、この時代だとこの程度の小競り合いは同じ家中でもあることだ。本證寺も許容範囲だと舐めてるっぽいね。戦を仕掛ける大義名分にはなるようだけど、本格介入はまだ避けたいのが本音だ。
「やはり今川が出すのは西三河の人質を軸にした援軍か?」
「そうでしょうね」
「すでに今川から離反しつつある西三河の人質を旗印に据えて、援軍として送ることで、実の所、今川に損はない。所詮は維持できぬ西三河の処分と引き換えに織田との和睦の足掛かりが出来るならば悪くないか。全くもってエルの読み通りだな」
今川からは西三河の者を中心とした援軍を出すと非公式に知らせてきた。
もっともこの話が最初にあった時にエルが賛成した理由が、この話で今川が西三河の損切りをする可能性が高いと推測したことだ。
援軍に出すならば、織田への鞍替えを考えている西三河の国人衆の人質を中心とした者だろうと予測していたんだよね。人質がいなければ堂々と今川を裏切れるからね。まぁ、人質だけでは兵力が足りないので、反抗的な国人衆も一緒に連れてくるんだろうけど。
今川にとって織田との和睦の障害のひとつが矢作川東岸の国人衆の扱いだ。今川とすれば西三河の放棄にはそれなりの大義名分がいる。一向一揆で荒れて国人衆が裏切ったとなれば、放棄は仕方ないと言えるんだろう。裏切られたことで多少の面目は失われるが、今の今川家にとっては些事だろう。
雪斎は東三河で踏ん張って甲斐を攻めて活路を開きたいらしいが。
エルなら虫型偵察機の情報がなくてもこの程度のことならば簡単に予測出来ることだ。織田と北条が誼を通じた以上、攻め込めるのは北の武田以外、選択肢が無いからね。
まあエルに言わせると今川が生き残る可能性が一番高い方針がこれらしいから、雪斎はやはり優秀なんだろうね。














