第三百九十七話・三河の様子
Side:本證寺領の農民
「おらの田んぼが……、家が……」
「父ちゃん。お腹空いたよ」
まるで地獄のようだ。お坊さまの言う本物の地獄がどんなとこかは知らん。けどおらたちには今が地獄だ。見渡す限りの景色が変わってしまった。家も田んぼもすべてが水で流されてしまい、土砂だけが残った。
生き残ったのはなんとか逃げ出せた僅かな者だけだ。着の身着のままの村人は半分もいない。みんな水に流されてしまったんだ。
流された家族を探しに下流に行った者もいたが、無事に見つかった者は誰もいない。
おらの家族は幸いなことにみんな助かったが、隣に住んでいた弟一家はみんな流されてしまった。
末の子供が腹を空かせて泣いているが、おっ母が抱いてなだめてやるしか出来ない。
なんでおらたちがこんな目に遭わなきゃならないんだ?
「ちっ、ここもか。よいか、税はいつも通りに納めよ。遅れるのは許さぬからな!」
打ちひしがれるおらたちにとどめを刺したのは本證寺のお坊さまだった。僧兵を連れたお坊さまはこんな状況にも拘らず税が遅れるのも許さぬという。
「お待ちください。なんとか期限に猶予を……」
「なんだと? 汝は、仏罰を下されたいのか?」
若い者が亡くなったのに生き残ってしまったことを嘆いていた長老のひとりが、死を覚悟してせめて税を納める期限の猶予をしてほしいと願うが……。
「いえ、ですがご覧の通りここにはなにもありません」
「仏に逆らう愚か者が!!」
長老は苛立った様子の僧兵に、ろくに話を聞いてもらうこともないまま殺されてしまった。
「手段は問わん。必ず税を納めよ。よいな!!」
期待はしてなかった。前に同じようなことがあった時も同じだったからな。お坊さまにとっては大切なのは仏様だけで、おらたちは虫けらと同じ程度の物でしかない。
子供を売っても、近隣の無事な村から奪ってでも税を収めよと言うのがいつものことだ。
「聞いたか? 織田様のところだと尾張から運んできた飯を食わせてくれるらしい。しかも今年は税を払わんでもいいそうだ」
野分から三日、土砂の中から刈り入れ前だった米を僅かでもと掘りだしていたが、そんなところに流された家族を探していた奴が帰ってきて、近くの織田様の村の様子をみんなに話していた。
織田様の領地ではここよりは酷くないというのに、飯を食わせてもらうばかりか税が免除になって村の復興が始まっているらしい。
村のみんなが落胆している。
いつもそうだ。流行り病が流行れば薬を飲ませてくれるし、食べ物が足りなければ賦役で食わせてくれる。
おらの村からも流行り病の時には、こっそりと出かけて助けてもらった奴が何人もいる。
なんで仏様はおらたちばっかりに……。
Side:本證寺の僧
「駄目だな。税は例年の三割も集まればいいほうだろう」
「織田では被害が軽いらしいな」
「あっちは夏に賦役で堤防を直しておったからな」
今年もなんとか収穫までこぎつけたかと思っていた矢先に、野分が来て川が氾濫した。もともと矢作川の氾濫に弱い土地が多い、我が本證寺では被害が甚大だ。
だがやることは変わらん。絞れる限り税を集めるだけだ。成り上がり者の織田などに尻尾を振っておる願証寺などには絶対負けられん。
「織田ではどうやら大掛かりに復興と治水をやるらしい。税も免除だそうだ」
「なんだと!? 税を取らずにどうやって食うていくのだ?」
「織田の本領は尾張だ。三河からの税などどうでも良いのであろう」
問題は隣の織田だ。矢作川より西の領地は織田と隣接しておるところが多数あるが、織田がおかしなことをするので迷惑しておる。
賦役だと言いつつ飯を食わせて報酬を与えるなど愚かなことを。しかも更に税を取らぬだと? 領地を治めることをなんだと思っておるのだ? 今川ばかりか我ら本證寺にまで嫌がらせをするつもりか?
「また逃げ出す者が増えるな」
「逃がすな! 逃げた者は草の根分けても追いかけて捕まえろ!!」
「そうは言うが、織田領に入れば手は出せぬぞ」
「そうだ。織田に介入の口実を与えるわけにはいかん!!」
確かに、織田がいくら埒外であっても織田に介入させるような口実は与えられん。
憎らしいが相手は尾張全てと美濃と三河の西側まで治める大国だ。伊勢の商人ですら従える織田を敵に回すのだけは避けねばならぬ。
相変わらず織田は逃げていく流民を受け入れておるが、本心では歓迎しておるのか迷惑なのかはわからぬ。されど落ち度はこちらにもあるのだ。逃がすなと言われればその通りだからな。
逃亡する者は織田領に入る前に捕らえねばならぬ。だがここで問題なのは逃亡なのかそうでないのか区別が難しいことだ。
織田領の親戚に会いに行くと言えば止められぬ。一時、子供を連れていくことを禁じたこともあったが、向こうから銭を借りるので借金のかたに子供を連れていくと言われると、駄目だとは言えずうやむやになったからな。
「なにも織田を相手にすることはあるまい? 織田を利用するのはどうだ?」
「まさか今川方から奪えと言うのか?」
「今川は織田を恐れて三河に来られぬのだ。構うまい。もし今川が攻めてきたら織田に戦わせればいい」
このままでは我らの銭が足りぬと悩んでおったら、ひとりの僧が面白きことを言い出した。
確かに織田を敵に回せぬならばその敵を攻めればいいともいえるか? 上手くいけば織田に恩を売れるかもしれんし。
領民の不満は溜まっておる。確かに今ならば今川相手に適当な口実で一揆を起こせるか? 不遜極まりないが仏と呼ばれる織田ならばともかく、今川には西三河の者は不満を抱えておるからな。
出来なくもないが……。この件は上人の裁定を仰がねばならんな。どうせ何も分かっておらん奴だ、許可は取れよう。それでも上人は上人だ。
Side:織田信広
「相変わらず清洲の大殿は決断が早いですな。僅か数日でこれほどの兵糧と銭が送られてくるとは……」
たった一度の野分が三河にこれほどの亀裂を走らせるとはな。それにも驚きだが、父上の動きの速さにも三河の国人衆たちが目を丸くしておるわ。
水害の該当地域での税の免除と、税が得られぬ国人衆への援助の確約ばかりか、復興と川の堤防補修のための賦役に使えと、先遣の兵糧と費えの手付けが当然のように送られてきた。
この動きの速さに、三河の国人衆たちは恐れを抱いておる。
その気になればいつでも三河を落とすことが出来る。それを理解しておらぬ者はおるまい。
とはいえ此度は問題もある。
被害が酷い本證寺がいかに動くか。また本證寺の領民がいかに動くかわからぬのだ。久遠殿からは忍び衆を増員するので配慮を頼むという書状が来た。
最悪は本證寺と今川の連合軍と織田との戦もあり得るとのこと。久遠殿がそこまで考えておる以上はこちらも相応に対処せねばならぬ。
まあ久遠殿の文にもあるが、虞としては今川と本證寺の連合よりは本證寺の内乱か、本證寺と今川方の三河の国人衆との争いのほうがあり得るとあるが。
問題は三河の国人衆には一向宗の信者が多いことだ。勝手に動いた者には厳罰だと言うておるが、誰が本證寺に付くかわからぬのだ。
久遠殿もそこを懸念しておる。兵糧の横流し程度ならばいいが、兵まで動かせば黙っておるわけにはいかぬ。
「美濃とは落ち着いたからな。大きな問題はあるまい」
「されど流民がまた増えておりますが……」
「賦役で食わせれば大丈夫であろう。もちろん乱暴狼藉は厳罰にする。だが、流民が求めておるのは食い物だ。元々野盗をしておったような連中ではないのだ。食わせておけば安易に問題は起こさぬであろう」
其処彼処ではすでに本證寺領や矢作川対岸からの流民が来ておる。それにこちらの村が襲われたという報告もある。
状況は予断を許さぬ。だがわしが前面に出て対応することはできぬ。
父上は現状での三河侵攻には気が乗らぬ様だからな。援助ばかり求める三河には、今川向けの守備地に意味は有っても、支配地としてはあまり価値を見出しておらぬ様子。
わしのところにも戦では任せろという三河者からの文は多いが、織田を真似て領地を自ら食えるようにするという者は皆無だ。
出来ぬといったほうが正しいのだろうが。織田とて久遠殿が差配しておらねば同じだ。
まあ今や久遠殿は弟でもある。わしにも金色酒から砂糖まで随分と援助してくれておるのだ。忍び衆への配慮くらいでいいならばいくらでもするわ。
あとはとにかく食わせて働かせるしかあるまい。銭ならいくら使ってもいい。父上と久遠殿は銭で解決できることは、銭で解決したいらしいからな。
一向衆との戦など御免だ。














