第二千百八十九話・信濃滞在中・その六
Side:久遠一馬
松尾城を後にして、オレたちは帰路に就いている。もう少し信濃をあちこち周ってみたかったなというのが本音か。
結局、ウルザは残ることになった。寂しいところもあるが、これもひとつの選択だろう。日程さえ調整がつけば出産に立ち会いたいけど。どうなるかなぁ。
ウルザは信濃という国を気に入っているらしい。出産の際に実家に戻るようなものだと本人が言った時は驚いたほどだ。
信濃に関しては信濃四将と言われる小笠原、諏訪、村上、木曽といった者たちがきちんと地域の取りまとめをしつつ新しい体制に順応していた。これは朗報だろう。
ただ、寺社の立ち位置と今後はまだ盤石とは言えず、見方を変えると地縁を切り離せていないのは今後の展開次第では懸念ともなる。
まあ、懸念というならば、越後と上野といった隣接する国が懸念要素として大きくなりつつあるが。
山国故、大軍で攻められて一気に陥落というのは可能性としてあまりないが、隣接する国や地域とは多かれ少なかれ血縁があって交流がある。信濃が変わったことで格差が生まれている以上、影響があるのは今までの経験からほぼ確実だ。
「街道はこっちも頑張ってくれているね」
行きは美濃経由だったので帰りは三河経由にしたが、街道はどこもきちんと草を刈ったりして整備されている。
街道に関しては基本、地道な整備が続いている。道幅を広げることや難所などでは迂回ルートを整備するなど、現地で細々と検討実施していることも多い。
「南信濃を考えるならば、天竜川の治水は検討をするべきですね」
そう、エルも言う通り信濃を今以上に変えていくには、天竜川の整備と治水がいる。濃尾平野の木曽三川もそうだが、この時代だと川筋が定まっておらず大雨や台風で変わることすら珍しくない。
天竜川の場合、史実で暴れ天竜なんて言われていたくらいだからなぁ。急流で治水も苦労があるだろうが。やらないといけないことだ。
まあ、道路整備と治水事業、元の世界の時代でもやっていたことだからね。ある意味、当然なんだけど。
奥羽の季代子たちも言っていたが、信濃や奥羽などでは未開発の土地が割と多くて夢があるとも言える。
登山に思えるような街道を、もう少し安全に人がすれ違えるくらいにすることや、出来るところから治水をして農業と水運を安定させないといけない。
オレたちが今この話をした理由は、信濃ならやれそうなんだよね。大規模賦役とか。ウルザたちと信濃衆の関係は良好で信頼もある。
逆に言うと、代官変更を考えているとか言い出せる雰囲気じゃなかったけど。
オレ自身、初めての信濃入りなのに、領民から歓迎されて拝まれることまであった。小笠原信定さんに申し訳なくなるくらい、南信濃で久遠が定着しちゃったんだ。
無論、小笠原家が軽んじられているということではない。むしろ小笠原長時さんと信定さんのおかげで信濃が豊かになったと評判はいい。
「冬、大きな岩があるよ!」
「左様でございますね。姫様」
それと、今回初めて陸路の旅に参加したお市ちゃんと乳母の冬さん。馬と自分の足で歩く旅ながら、音を上げることなく楽しんでいる。
ウチの暮らしや習慣にも慣れているし、わがままも言わない。ウチの妻たちと侍女と一緒に行動しているから警護の問題もないしね。滞在中にもあちこち見て歩いていて、帰ったら報告書を出してくれるそうだ。
他家の領地はまた話が違うが、義信君と信長さんと行く旅には今後も本人が望めば同行させてもいいかもしれない。
「やっぱり旅はいいね。新しい発見がいろいろとある」
「ええ、そうですね」
尾張はオレたちがいなくても困らないようになってきた。皆さんの成長に合わせて、オレたちも成長して変わっていかないといけないのかもしれない。
今年と来年には飢饉もあり、関東が荒れる可能性もあるが、信濃は大丈夫だろう。甲斐は、信虎さんが帰郷する影響を見極めないといけないけどね。
信濃がどう変わるんだろうと思うと、ワクワクするかもしれない。
帰ったらいろいろと検討してみよう。
Side:佐々孫介
若武衛様らが尾張に戻られた。漏らすなと命じたことが漏れるなど失態もあったが、概ね上手くいった。
ただただ、安堵する。久遠に傷を付けるわけにはいかぬからな。
お方様がたは望まれまいが、久遠が光明となり導いておるのは事実。皆で守り盛り立てていかねばならぬ。
たとえ地獄であろうと恐れるつもりなどないが、自ら地獄のような世に戻るなど御免被る。
この日、わしは信濃警備兵の主立った者とささやかな宴をしておる。
「無事に済んで良かった」
「ああ、左様だな」
信濃者も安堵しておるのは同じか。山ばかりで難しい地なれど、この地が故郷なのだ。神宮のように要らぬと突き放されることをなにより恐れておった。
「あれほど寺社の使者が大挙して押し寄せるとは……」
唯一の失態を悔いるように呟く者の言葉に、警備兵の中でも信濃者が項垂れた。
若武衛様らが信濃に来られるとなった折、我らも寺社をいかがするか迷うたのだ。呼ぶか呼ばぬかな。
若武衛様らは夜殿に会いに来たということにしたが、実のところ信濃の検分であったこと、わしと数名の者だけは知らされておった。
呼んだほうがよいのではという意見もあったが、内匠頭殿は坊主と会うより民と会い、信濃を見たいと求めておられたからな。
「過ぎたことはよい。誰が何故、寺社に漏らしたのか。ひとり残らず理由を明らかとせよ。罰を与えぬ故にな」
「ははっ!」
失態から学べとは久遠の教えだ。今やるべきは悔いることではない。寺社に漏れたわけと、次に漏れぬようにする策だ。イザベラ殿から命じられる前にこのくらいはこちらで進めておかねばな。
これは信濃以外の領国でも役に立とう。戦でなくて良かったわ。
◆◆
永禄五年、五月。斯波義信、織田信長、久遠一馬が信濃を訪問している。
同年の美濃訪問に続いての領国訪問であるが、こちらは信濃代官、夜の方こと久遠ウルザの懐妊祝いとして信濃を訪ねたという記録が、『織田統一記』や『久遠家記』に記されている。
ただ、同年の美濃訪問にて、領国の検分の必要性を感じた一馬の意向が反映された信濃訪問であったことが、一部の資料に残っている。
為政者が領内を歩き領民に声を掛ける。現代では政治家が選挙区を歩くようなものだが、当時としては守護大名ですら家臣や国人の領地へ行くのは遠慮していた時代であり、当時としては画期的なことであった。
信濃においてはウルザと明けの方こと久遠ヒルザの両名の働きにより、すでに斯波家と織田家を敵対する勢力はほぼ消え失せていて、領民から寺社に至るまで総出で歓迎していたことが分かっている。
もっとも、この時は寺社の使者が殺到したことにより一行の予定が狂うことになるなど、予期せぬ問題も起きていたが、問題はそのくらいで信濃訪問は大成功と言える。
この後から、織田領の各地では義信たちの訪問があるかもしれないと考え、現地の者たちが訪問を心待ちにして準備をする様子があったことが各地の記録に散見している。














