第二千百八十四話・信濃滞在中
Side:久遠一馬
信濃衆も思うところはあるのかもしれないが、日々の忙しさと暮らしがよくなりつつある現状は悪く思っていない。大勢としてね。そんな印象だ。
まあ、塩や雑穀などの価格と流通量の安定で、平時における織田の力は理解しているのは確かだろう。
懸念があるとすれば……、やはり仁科三社だ。
寺社に関しては家臣ではないことから、わざわざ呼んでないんだよね。それでも主立った寺社からは挨拶の使者が来ていて義信君と信長さんが受けているけど。
仁科三社からは内々に挨拶の場で謝罪したい。許しを請う場がほしいと嘆願が事前にあったみたい。その報告に義信君は黙って信長さんとオレを見た。
「駄目だな。仁科三社に恨みなどないが、許すか許さないという話ではない。仁科家ともども処罰を撤回したのだ。あとは誰が三社と関わろうが罰を与えることはせぬ。斯波家と織田で呼ぶことはないがな。謝罪を受ける道理がない」
ほんと信長さんの言う通りとしか言いようがない。付き合うも付き合わないも勝手にしていいってのが現状だ。さらに神宮と熊野の仲介で問題なしとなり、俸禄も継続して渡している。
ここで謝罪を受けると、一度処分を撤回して済ませた案件を再度問題とすることになる。
ウルザたちの面目を潰し、仁科家を切り捨てようとした三社と付き合おうとする人は今のところいないが。
「三社は神宮と熊野の仲介に異を唱える気なのか?」
すすっとお茶を飲んだ義信君の言葉に居並ぶ信濃衆の顔が強張る。仁科三社の問題じゃないんだよね。神宮と熊野が出てきた段階で。神宮とは今も寄進停止と旧領返還の交渉が継続中で未解決なんだ。熊野も一部で進んでいた久遠船による定期便や交流促進の話が吹き飛んで困っている。
結果として三社の嘆願で神宮と熊野は動き、彼らへの処罰となる独立は阻止された。
このうえで居心地が悪いから許せというのは、正直、筋が通らない。
「そこな諏訪殿も父上と弾正を怒らせたがな。違いがある。諏訪の動きは因縁もあり、まだ理解を示すところがあった。さらに諏訪は世話になった者を見捨てるなり見限ることはなかったからの」
義信君の言葉に信濃衆も納得している。
まあ、仁科三社にも悪気はないし、もとより逆らう気はないんだよね。ただ、織田の治世で生きるうえで、小笠原に睨まれている仁科と同じく冷遇されると困ると焦った結果だ。
ここで仁科家との和解も済んでいないのに謝罪したいというのも、やはり焦りがあるんだろう。ほんと、信濃の治世からあそこだけ除外されているように誰も関わろうとしないから。
みんな理解しているんだけどね。助ける人もいないけど。
まあ、それはそうと、今日は近隣の賦役現場に視察に行く予定だ。この地に駐留する黒鍬隊の皆さんの激励も兼ねている。
そっちも重要なんだよね。
Side:織田信長
かずと共にいると常に考えさせられる。政とは、いかにあるべきかと。
十年以上共におるのだがな……。
かずは常に他者の心情を重んじる。それも身分ある者や権威ある者らではない。なるべく弱き立場の者らだ。
織田を軽んじ疑う新参の地ですら、飢えぬようにと差配する。利になるわけでも、すぐに喜ばれるわけでもないというのに。
それを知る者が増えるに従い、本来、世に安寧をもたらして人々のために祈るはずの寺社の現状に不満が高まる。
領内では、戒律も守らず乱れた破戒僧がおる故に世が乱れるのではと考える者が増えておるほどだ。堕落し乱れた寺社は誰が正すのか? 武士のみならず、同じ寺社の者から民まで寺社の在り方と現状を考えるようになった。
朝廷がその役目を果たすべきだと考える者もおるが、譲位から排除され、院の蔵人の傲慢な態度により失望した者が多い。
そういえば太原雪斎が言うていたな。名のある僧ほど穢れ、仏道を理解しておらぬと。
学校にて教授する際に、己自身も決して正しい僧ではないと言いつつ、寺社の身分ある者らの堕落と現状を隠すことなく語っておるのだ。
五山で修業をして今川家を支えていた太原の言葉は重い。
しばし考え事をしておる間に、松尾城近辺にある賦役の場に来ていた。
「うん、賦役の様子はいいね」
老若男女問わず働く姿に、かずの表情は満足げだ。
「坊主の姿も見えるな?」
驚いたのは若い坊主が幾人かいることか。差配するのではない。自ら民と共に働いておるのだ。
「はっ、近隣の寺社の者でございます。賦役に加えてほしいと嘆願がございまして、受け入れてございます」
ほう、土にまみれて働くか。同じ信濃でも仁科三社とかの者らではまったく違うな。
「子供たちは無理をさせちゃダメだよ。大人の倍は休めと命じて、遊ばせるくらいでもいい」
「ははっ! 畏まりましてございます」
働く子らを気にするかずだが、あれは無理をさせておるのではなく、自ら働いておるのであろう。ただ、かずは相も変わらず働かせることより休ませることに厳しい。
もっとも差配する武士の話では、昼餉を与えたあとは子らに学問や武芸を教えておるそうだ。近隣の坊主が従うことで、そやつらが率先して教えておるとのこと。
「若武衛様から皆に甘い菓子を与えるから、あとでみんなに配って。身分問わず、ちゃんと同じ量を配ってください」
そう言うと、かずの家臣らが金平糖の入った樽をいくつも運んでくる。信濃衆であろう現場にいる武士らは、その量に恐れおののくような顔をしておるわ。
他国ならば、臣下や坊主に与えるような貴重な砂糖菓子なのだがな。かずは賦役の場に行く際に持参し与えることがようある。
しかもあれは久遠で用意したもので、久遠が若武衛様に献上し、若武衛様から与える形にしておるだけ。若武衛様がおらぬ時などはオレの名で与えるからな。
よう知らぬ者はかずの配慮だと感心するが、実のところ今以上の立場を望まぬ故、民に施しを与える理由にしているだけに過ぎぬが。
「文句の付けようもないね。ほんと」
「ええ、そうですね。このまま皆で励んでくれれば十分です」
嬉しそうなかずとエルに、皆が安堵しておるのが分かる。ウルザとヒルザが数年治めたこの地は、やはり久遠が大きいのであろうな。
かずが来るからと、相当入念に支度をしていたと聞き及んでおる故に。
信濃は安泰だな。














