第二千百八十話・信濃への旅・その二
Side:斯波義信
数年前、武田の西保三郎……、今は元服して武田三郎信之と名乗っておるが、あやつが尾張に来た頃を思い出す。
尾張が豊かなのは知っておったが、甲斐源氏である武田家正室の子が暮らすことに困る有様であることに驚いた頃だ。
海の魚や菓子を喜ぶ奴でな。見ていて悪い気はせなんだので、生きる道になればと明の言葉を習うてはと勧めた。
左様な武田三郎は今、清洲で文官として役目に励んでおる。楷書体も覚えており、先々が楽しみだといわれるひとりだ。
少し話が逸れたが、甲斐信濃は武田と今川の争いとなり、わしは尾張に生まれたことに安堵したが、信濃に入り街道を旅しておると、甲斐とこの地が難しいと言われることを身を以て理解しておる。
この地を豊かにするには難儀しよう。一馬は山には山の暮らしがあると言うが、荷を届けるだけで苦労をする国では尾張と同じ豊かさは得られまい。
「若武衛様、このあと雨が降るかもしれません。少し急ぎたいのですが……」
つらつらと考えておると一馬がやって来た。
十年過ぎたというのに、未だに二十歳やそこらの者と同じく若い。家中には威厳が足りぬのではと案じる者もおるが、当人らはむしろ、なるべく若いまま長生きするほうが好きな様子。長生きの秘訣じゃと父上らは真似ておるが。
「そうじゃの。急ぐか」
一馬は尾張介と話して、すべてわしに報告して命を仰ぐが、わしはすべて任せることにしておる。
そもそも領国を見聞することを献策したのは一馬じゃからの。それに海の民である久遠は旅をするにも長けておる。確かに雲行きが怪しいが、わしには雨が降るかなど分からぬというのに。
しばらくすると降り出した雨の中をしばし急ぎ、我らはなんとか今宵の宿となる近隣の城に入ることが出来た。
すでに信濃に入っておる。ここらもかつては小笠原の所領だったとか。ただ、左様なことを懸念せずともよいくらい。皆が我らの到着を喜んでおる。
「ご無事の到着、祝着至極に存じます」
「世話になる。よしなに頼むぞ」
従えて数年の属領。本来ならば、大勢の兵を連れて身辺に気を付けねば夜も眠れぬかもしれぬというのに。
上様から旅の話を聞いたことがあるが、寝ずの番を置いても安堵して眠れぬことが珍しゅうないとか。あれが本来の旅であろう。
まあ、一馬らと共におると、この程度のことでは驚かぬようになったがな。
人を味方とする。しかも心からだ。左様なことをさせて一馬の右に出る者などおらぬからの。
Side:斯波義統
倅らは、そろそろ信濃に入っておろうな。今宵は弾正とふたり酒を酌み交わす。
「身分ある者が出向いてこそ領国がひとつとなるか。理解はするが、それもまた出来る者は多くあるまいな」
ふと思うたことを問うと、弾正が苦笑いを見せた。
「己の評価が低いのが一馬の至らぬところでございますれば……」
才ある奥方衆がいるせいか、それともあやつのまことの親はそれ以上であったのか。興味が尽きぬわ。
「あやつは皆を育ててしまうな。倅も尾張介も民も」
近江と京の都では、今も尾張を、いや一馬の動きを見定めようと必死じゃ。にもかかわらず、当の一馬は家中と領国の先々を考えておる。
城や館から出るなと言われるなら理解するが、あやつは外に出そうとする。倅もまた、共に行こうと連れ出したのだ。
「仁科の一件以降、信濃はひとつにまとまりました。今が好機なのは事実。あやつはそういうところに抜け目はございませぬ」
一馬は、そのまま甲斐を経て駿河にも入りたいと言うていたが、それは弾正が止めた。甲斐の風土病が懸念としてあったのだ。ケティの知らせでは水に触れねばいいとあったが。万が一があってはならぬからの。
それに甲斐はまだ因縁の始末が済んでおらぬ。無人斎の帰国が先であろう。
ゆるりと話していると、酒がなくなった。
「すぐに代わりを……」
「いやよい。ここまでにしておこう。わしもそなたもまだまだ生きねばならぬ」
弾正が酒の代わりを求めようとしたので止める。
一馬は替わる者なき男じゃ。故にあやつに日ノ本の業を背負わせることだけはあってはならぬのこと。
我らが死すれば、あやつを担ごうとする愚か者を止める者がおらなくなるやもしれぬ。
「左様でございますな。あと十年、いや二十年か」
「おかしなものよの。一馬が尾張に来た頃、わしもそなたも己の先行きを悟り諦めておったというのに」
わしは、今少し面白きことが見たかった。弾正は倅に跡を継がせるつもりで、尾張介が連れてきた一馬を認めただけであろう。
ところがいつの間にやら仏やら次の管領やらと、かつてないほど権勢を得てしまった。我らが今少し愚かならば、己が力だと勘違いしてしまうぞ?
「ふふふ、あやつは目上の者すら使う故に」
「であるの。わしらは、まんまと働かされておるわ」
面白いの。なんと面白き日々じゃ。
わしは今も斯波家の権威も隆盛も、そこまで求めておらぬ。ただひとつ、一馬の見ておる先は見たいのじゃ。
それだけでよい。それだけでな。
Side:久遠一馬
宿泊する場所は事前に決めてある。無論、天候次第で変えることはあるが。
歓迎合戦になることを懸念して過大な歓迎は禁じているものの、義信君と信長さんと地元の有力な者たちが会うための宴は許可した。
地元の人たちとの歓迎の宴を終えると、すずとチェリーは慶次と道中日記を書いていた。
「うむ~悪代官がいないと、今一つ盛り上がらないのでござる」
「みんなしっかりと働いているのです」
君たちも変わらないねぇ。テーマソングだからと諸国漫遊をする某時代劇の主題歌を歌うせいで、一部の人はウチが旅する時に歌うための歌だと勘違いしているじゃないか。
まあ、大変な山越えをみんなで頑張れるようにと励まして、雰囲気を明るくしたことは大いに評価するけどね。
堅苦しい雰囲気での旅とか御免だし、助かっているのも事実だ。
「満腹」
「いつもながらよく入るねぇ。そのお腹、どっかにつながっていないかい?」
あちらではケティとジュリアがくつろいでいる。最近、留守番が多いふたりが今回は一緒に来ている。あとはエルとセレスも一緒だ。
ジュリアとケティは特に名前が知られ過ぎて、他国に行く際には動きにくいから留守番が増えていたからなぁ。
「明日には松尾城だ。山越えは大変だけど、街道は悪くないね」
「治安は他国と比べようもないほどいいですから」
「そうですね。警備兵の仕組みがここまで安定するとは。少し出来過ぎです」
オレはエルとセレスと明日の日程と確認をするが、二人が言うようにほんと治安がいい。
義信君と信長さんがいるから、相応に人を配しているものの、それもひとつの訓練のようなものと言えるほど一切問題が起きてない。
まあ、ウルザとヒルザを筆頭に信濃衆のおかげなんだけど。特に小笠原長時さんの弟である信定さん。彼は抜きん出た才覚こそないものの、ウルザたちと信濃衆をうまくつないでいる。
資清さんの時も理解したが、これはこれで替えの利かない力量なんだよね。実は彼も次の信濃代官の候補なんだけど……。ウルザたちからは辞退するのではと言われている。
長時さんは、もう信濃に戻るつもりがないと公言して事実上の辞退をしている状態だし。小笠原家自体、尾張流の礼法をうまくまとめているから、そのままになるだろう。
さて、オレたちも早めに休むか。出立は朝早いしね。
子供たちは寂しがっていないかなぁ。それだけは心配だ。














