第二千百七十五話・新たな日々
Side:武田信虎
肩の荷が下りた。その一言に尽きるかもしれぬ。
連綿と続く争いの日々、武士とは左様なものだと思い生きてきたが、生きているうちに終わらせる場に立ち会えた。そのことに喜びを感じておる。
「お呼びと伺い罷り越してございます」
そんな折、わしはこの男、飯富兵部を呼んだ。かつてと比べて年老いたなと思う。互いにな。兵部は変わらぬ。時折すれ違う程度に会うが、わしを恐れることもなければ悔いるような顔もせぬ。
深々と頭を下げたままの兵部に煎茶を出して、頭を上げさせる。
「茶でも飲もうかと思うてな」
近習も下げた故、ふたりだけだ。町の賑わいが聞こえてくるほど静かじゃの。
「先に逝った者らは、今の我らをいかに見ておると思う?」
「主を追放などせずともよい世に生まれたかったと、羨んでおるかもしれませぬ」
羨むか。それもまた然り。
「織田の兵はいかがだ?」
「今巴殿の懸念は確かかと。某らは太平の世など見えませぬ。同じように乱世が見えぬ者ばかりになると、いかになるのやら」
「互いにまだ果たすべき天命はあるか」
「御意」
こやつらを上手く従えられなんだのはわしの不徳、いや、力不足と言うべきか。徳などあってもなにも変わらぬ。
「兵部、わしは頃合いをみて一度甲斐に行く。わしの因縁も終わらせねばならぬからな。そなたが供をしてくれぬか?」
滅多なことでは顔色を変えぬ兵部の眉が僅かに動いた。
「畏まりましてございます」
「今巴殿のおかげで目途が立った。わしと倅だけでは終わらせることすら難しいが、そなたならば出来よう。一切を任せる。役目もあり忙しかろうが頼む」
「ははっ!」
互いに思うところがあるのは生涯変わるまい。されど、生きねばならぬ。過ぎ去りし日々ではなく今日と明日を。
面目も意地もすべて捨ててよい。武田家が残り、次の世で生きながらえることが出来るならば。
兵部もその辺りの心情は変わるまい。
おかしな話だ。追放した者を信じるとは。だが、同じ世を生きる者を信じさせるのが尾張。久遠のもっとも大きな功のひとつ。
これもまた世の習いと言えよう。
Side:仁科盛康
内匠頭殿の奥方に対する無礼の件。一切、お叱りもない。
さらに殿より冷遇されることもなく、つまらぬ嫌がらせをされることもない。
少し驚いたかもしれぬ。
わしは婚礼の祝いの使者の応対をしつつ、清洲と近隣を見て歩いておる。尾張勤めの者が最初に命じられることなのだそうだ。
時計塔という時を知る塔、鉄道馬車なる乗り物、巷におる珍しき物売り。すべて信濃にはなきもの。
「驚かれたであろう? 皆、驚くのだ。近頃は混雑しておってな。前日までに願い出れば我らでも鍛練をさせていただける」
運動公園なるところで鉄砲の鍛練をする様子を見せていただいたが、案内役の男の楽しげな顔が気になる。わしのことなど腹の中で愚弄しておるのではないのか?
「そなたは……、わしのことを恨んでおらぬのか?」
あまりに楽しげな様子に、ついつい余計なことを口に出してしまった。男はわしの言葉に驚きつつ苦笑いを見せた。
「過ぎたことを恨んでも仕方あるまい。殿がお許しになられたならばよい。それに、尾張にいると過ぎたる因縁で恨むのは愚か者と言われる。守護様ですら因縁を水に流してしまわれたからな」
守護様? ああ、斯波の御屋形様か。なんでも不遇だった頃に呼ばれておったまま、今もそう呼ばせておるとか。
過ぎたる因縁を水に流すとは、なんとも徳の高いお方なのであろうな。
「仁科殿もすぐに分かる。この国は信濃とは違う。あと数年もたてば信濃も変わると思うがな」
笑うてそういうてくれた男の顔色が変わる。赤髪の女と銀髪の女、それと武勇に秀でていそうな男たちが歩いてくるのだ。
あれが……。
「平伏したほうがよいか? わしは先日無礼を働いてしまったのだが……」
「いや、大袈裟にされずともよい。内匠頭殿と奥方衆は特にそうだ。控えめに頭を下げるだけでいい、仰々しい扱いを好まれぬからな」
先日のこともある。平伏するか迷うたが、案内役の男の言うままに横に避けて頭を下げて見送る。
そういえばあの御仁も、いかなるわけか、わしに握り飯をくだされたな。妙に美味い握り飯であった。
「尾張は一見しただけで身分が分からぬ故、苦労することもあるが、人として礼儀を以て接すれば悪いようにはならぬ。まあ、仁科殿は懸念なかろうがな」
通り過ぎると安堵した。愚か者なれど、これ以上恥の上塗りだけは避けたいからな。
しかし、なんとも分からぬ国だ。
Side:久遠一馬
装甲大八車。近江に出す話は潰えた。まあ、オレも駄目かなと思っていたけど。
「要らぬと言うたであろうに。まともに仕えることすら出来ておらぬ者らに無用の長物ぞ。十年早いわ」
菊丸さんが子供たちと遊びに来たので説明しているんだけど、そんなことを言われてしまった。
それもそうなんだけど、尾張ばかりが変わって独占していると、流れ次第ではこちらの印象が悪化してしまうし。
「それより古河のことだ。いかが思う?」
「結構なことかと。上様のお立場だと古河公方家は助けねばなりません。上ふたりが敵となっても三男に家督を継がせればいいだけですから」
晴氏さんの動き。みんな警戒しているんだよね。ただ、オレはそこまで懸念していない。
正直、今の足利政権に逆らうのは、関東といえどもリスクが高い。無論、お家騒動から盤石だった者が崩れていくなんてよくある時代ではあるけど。
それを加味しても悪くないと思う。意地を張られて関東管領と組まれることが実は一番困るんだよね。
味方になりたいという人を敵に回すほど、オレたちは暇じゃない。
「左様か……」
「管領代殿もいますしね。春たちもいます。おかしなことにはしませんよ」
実はオレのところには晴氏さんから事前に文が届いている。春たちを招いて茶の湯を共にしたいがいいかとね。いろいろと教えを請いたいともあった。
そういう意味では、あの人は慎重だ。
「私が言っていいことではございませんが、上様はもう少しご自身の力を信じてもよいのではと思います」
付き合いも長くなりつつあり、いろいろと教えた結果でもある。今の立場の難しさを理解してくれているのはありがたいが、正直、もっと自信を持っていいと思う。
まあ、政権の形も変わっちゃったからそう単純な問題でもないんだけど。
「オレは京の都を離れた日を忘れることはない。苦しみ無念のままに死した父上のこともな。ただ、そなたがそういうならば、そう見えるように振る舞おう。そなたらの前では虚勢を張る気などないがな」
ほんと乱世の将軍に相応しいと思えるようになったなぁ。ただ、それでも足利家の天下は清算しないと駄目な時期なんだけど。














