第二千百六十五話・配慮
Side:久遠一馬
拗れるかと思った仁科の件は、あっさりと調整がついた。小笠原長時さんが折れたというべきか。
ひとつ思うのは、家臣の安易な討伐が出来なくなったことで下の者より上の者が折れて解決する事案が増えたことだ。それは今回のことに限らない。
武断政治から文治政治に移行したからだろうが、ごね得にならないように少し気を付けないといけないだろう。
そのことについて資清さんたちと相談していると、湊屋さんが姿を見せた。
「殿のご懸念の件、今のところは大きな動きはございませぬ」
報告にひとまず安堵する。懸念は神宮と慶光院のことだ。神宮の立場と評判が揺らぐ中、慶光院と清順さんだけが名を上げた。そのことで困っていないかと気になってね。
忍び衆やウチと交流がある神宮の末社、それと伊勢の商人たちなど伝手を使って監視と警戒をしている。
湊屋さんのところには、南伊勢の商人たちから神宮の動きなどが逐一入ってくるからいろいろと頼んでいるんだ。
「それは良かった」
「神宮はそこまで愚かではないと思いまするが……」
「そう思うけどね。仁科の件も、今思うと同じように神宮ならば懸念にはならないと放置した結果だからさ」
神宮を信じて意思疎通は相応に出来ていた。ただ、同じ神宮の人でも価値観や認識にだいぶ違いはあった。不幸な失敗だと思うけどね。同じ過ちは犯してはならない。
ちなみに仁科三社を現状維持にすることで押し通した神宮の使者は、すでに神宮にいない。海祭りのあとくらいに隠居して息子に職を譲っている。
表向きの理由は病とされ、療養のためにという名目で伊勢を離れている。無論、事実上の罷免であり追放だろう。
こちらとの和解に邪魔なことで、目の届かないところに移された。漏れ伝わる情報では、一族に縁がある寺に押し込めるらしい。
「清順殿は相変わらずか」
「あのお方はそうでございましょう。お方様がたに劣らぬ御覚悟があるとお見受けしておりまする」
慶光院清順さん、この時代に史実で名を残す女性だけあって、やはり凄い。伊勢神宮関係者が縁や伝手を使って謝罪と和解を探っている中、彼女だけはなにも求めず謝罪行脚を続けているんだ。
「あと仁科家、旧領から離すことになった。隠居して出家するとか言い出してさ。三社が現状維持で仁科家だけ罰を受けているような現状はよくないからさ」
「左様でございますか……」
湊屋さんはなんとも言えない様子だ。まあ、湊屋さんとするとなにも言えないよね。相手は信濃では名門だし。
「三社のほうが厄介になりそうでございますな」
ただ、熟慮したうえでの湊屋さんの言葉に、政治を理解しているなと感心する。仁科さんの隠居と出家、小笠原さんは大人しくしていなかったことを嘆いていたが、一応、けじめを付けようとしたと言える。その評価は内々にだが認めないといけない。
こうなると同じく争っていた三社はけじめを付けようとしているのか? という目線で周囲は見ることになるんだ。
ほんと大人しくしていることが一番だけど、当事者のひとりがけじめを付けようとしたことで比較されちゃうからね。
困ったことに三社は神宮と熊野とも上手くいっていない。
「三社と神宮と熊野は、ほぼ絶縁に近い。形として現状維持で納めたことで返礼の使者を出したものの、神宮と熊野に激怒されているからなぁ」
末社の絶縁まですると、また騒ぎになるのでしていないが、神宮と熊野の怒りは騒動の元凶である三社に向けられているからな。
三社には俸禄を与えていることで生きるのに困っていないものの、織田領の商人は寄り付かなくなり、いつの間にか越後の商人が出入りしているとか。
もともとあの辺りは日本海側の商圏だったこともあり、織田領となったあとも商いを細々と続け顔つなぎはしていたからなぁ。織田領の商人が三社を避けるようになったあとで越後の商人が商いを増やした。
景虎のことだから、こちらが抗議すれば止めると思うが、そこまですると三社が生きていくことすら困りかねない。
そもそも神宮にしろ仁科三社にしろ、織田家として商いを禁じるとか一切命じていない。今までと同じでいいと内々に伝えてある。ただ、今まで通りにしろと命じることもしていないんだ。
あとは商人たちが忖度しただけだろう。
三社に関しては越後と景虎の動きを見るのにちょうどいいから、泳がせているという意味もあるが。
史実の軍神様は空気も読めるというか、匙加減が上手いね。
Side:小笠原信定
懐妊の兆候があり休まれておる夜殿の代わりとしてイザベラ殿というお方が来られた。通り名は特にないとか。本領や日ノ本の外におられるお方様か。
そんなお方様が到着され、役目に関して知る間もなく、仁科の処遇に関して尾張から沙汰があった。
あの兄上が自ら仁科の面倒を見るとは。その知らせに家臣らも驚いておる。わしが言うていいことではないが、兄上は過ぎたことを忘れるようなお方ではないからな。むしろ、恨みは忘れぬお方だった。
この日、城に仁科を呼び出した。明け殿とイザベラ様が揃って上座におられることで、仁科殿は顔を上げると誰だと驚いた顔をする。
夜殿の名代となると近習が説明し、さっそく本題に入る
「仁科殿、貴殿の隠居願い。たしかに聞き届けたわ。ただ、尾張からそれに関して新たな下命もあった。詳しくはそこの書状に書いてある。今この場で見てみて」
兄上は仁科になんと書いたのであろうか? 中身はわしもお方様も見ておらぬ故、分からぬ。
仁科殿は、僅かに驚いた顔をして熟読した。
「貴殿は少し勘違いをしているわよ。上の者には上の者の苦労があるもの。大膳大夫殿がいかに苦しんで織田に従ったか知らないでしょ? 今だから言えるけどね、貴殿と離れようとした三社なんか捨ててしまえばよかったのよ」
夜殿と違い、明け殿は偽ることなく思うことをおっしゃられたな。その言葉に兄上のことがあったことに深く感謝する。兄上からわしへの文には、この件で拗れるならば代官殿と申し合わせてすべて決めよという言葉があった。
兄上もまた代官殿が難儀しておられることを理解しておる。
「どうする? 出来ればこの場で決めてほしいわ。その下命の意味、理解出来ないわけじゃないでしょ? 仁科のためにすでに多くの者が動いているわ。事と次第によっては、また騒動になる」
尾張の内匠頭殿が動かれた。その事実が重い。すでに主立った方々の内諾を得ておろう。
「ご下命、確と承りましてございます。隠居を取りやめ、すぐに尾張へと向かいまする。されど、すでに某に従わぬ一族が多くおります。かの者らはいかが致しましょう?」
その言葉に同席する者らすべてが安堵したのが分かる。ここで意地を張られると仁科どころではない。清洲の信濃に対する心証が悪うなってしまう。
「捨て置いていいわ。帰農なり面倒見ている人が食わせるなり好きにさせればいい。仁科家の家督は貴殿が持っている。継ぐ子たちもいる。よほど愚か者以外はすぐに謝罪にくるわよ」
「重ね重ね、申し訳ございませぬ」
仁科殿の顔からは心情を読み解けぬ。喜んではおるまいが、逆らうほどでもないようだ。
多くを語らぬまま、仁科殿らは下がった。














