第二千百六十三話・ひとつの決断と……
Side:仁科盛康
恨むべきは弱き己か? それとも武田に味方した愚かな父上か? いずれでも構わぬか。己を恨んだとしても誰ぞを恨んだとしても、なにも変わらぬ。
神仏に祈るはずの三社が無能を晒しておるしか出来ぬ現状では、神仏に祈ったところでようなるはずもない。
寺社など頼りにならぬと、他ならぬ三社が教えてくれた。
わしはこの日、小笠原民部大輔殿のもとを訪れておる。臣従したのは大膳大夫殿だが、あの男は年始も信濃に戻ることはない。所用はすべて弟の民部大輔殿にと文が届いたきりだ。所領も持たぬ今の世で国人など要らぬと言わんばかりだからな。
「何用か?」
ここも同じか。仁科もわしも顔も見たくないと言わんばかりの者らが居並ぶ。
「某は倅らを連れて仏門に入ろうと思うております。お許しを頂きたく参上仕りました」
小笠原家の者らが少しどよめいた。
「三社にか? それとも祈願寺か菩提寺か?」
「信濃を出ようと思うております。高野山かいずこかまだ決めておりませぬが」
民部大輔殿は可もなく不可もなく。わしを疎むこともないが、助ける気もあまりない。理解はする。小笠原をあそこまで追い詰めたのは父上にも責はあった。いかな理由があったとしても、城を奪うほどのことに手を貸すべきではなかったのだ。
「仁科はいかがする?」
「尾張の殿と民部大輔様でお決め下されて構いませぬ。ただ、残る一族の者はどうかお許し願いたく伏して申し上げまする」
もう恥を晒すことに耐えられぬ。一族郎党ですら離れた。守ってやる義理もないが、捨てると言えばわしは信濃一の愚か者と称されよう。それだけは我慢ならぬ。
「相分かった。ただし、隠居はしばし待て。代官殿と尾張の兄上に申し上げてからだ」
「はっ、良しなにお願いいたしまする」
斯波も織田も小笠原も、皆滅んでしまえばいい。そう、罵りたくなる心情をぐっと抑える。
織田はすべてを奪うが、家を潰すことはあまりしておらぬ。仁科の家は残ろう。それでわしの務めは果たせるはず。
あとは知らぬ。もううんざりだ。
Side:ヒルザ
松尾城内の畑の世話をしていると、民部大輔殿がやって来た。その様子から、あまりいい報告じゃないみたいね。
「仁科が隠居、子らを連れて信濃を離れたいと申しております。高野山あたりで仏門に入ると……」
神宮と熊野の動きにより現状維持となったものの、我慢が出来なかったか。名を落とし大恥を晒したこと、一族郎党がもうバラバラになっていることで嫌気が差したのでしょうね。
「うーん、好きにしていいとも思うけど。助けたほうがいいかしらね」
実は今、ウルザが妊娠して、表向きには妊娠の兆候があるとのことで仕事を休んでいて、信濃では私が代官をひとりで勤めている。ちょっと大変なので、もうすぐイザベラが助っ人に到着してくれることになっているんだけど。来る前に厄介事が起きちゃったわね。
「大膳大夫殿の許しが得られたら、旧領の代官から他の役目に変えましょう。信濃の外にして俸禄は同じくらいにするから。小笠原家としてもそれなら構わないわよね?」
どっちでもいいのよね。助けても助けなくても。ただ、追放するほどかと言われると悩む。三社が現状維持なだけに彼らだけ罰になるような形はまずいわ。
「はっ、お気遣いありがとうございまする。そのほうがよいかと。このままでは誰のためにもなりませぬ」
「せっかく信濃が一致結束したのに乱したくないわ。愚かだったと思うけど。恨みは神宮と熊野に被ってもらいましょう」
とりあえず大膳大夫殿のいる清洲勤務にして、人手不足のところにでも努めてもらうべきね。あまりいい印象もないけど、そういう人も珍しくないから。
暴走しなかったことに対する温情。そんなところね。
Side:久遠一馬
評定衆の皆さんが渋い顔をしている。装甲大八車の御所配備も賛成しない人が多い。
思えば当然なんだよなぁ。管領が好き勝手に争い、流浪している期間が長い将軍。京の都では政所の伊勢が将軍の意向もなにも関係なく動いている。
機密もなにもあったものじゃない。それが現状だ。
「奉行衆から外に漏れておるのだろう? 内々の話が」
「はい、漏れていますね」
不機嫌そうな信光さん、ウチのやることは基本的に後押ししてくれるが、この件に関しては反対している。
全部が全部ではないが、部分的な内情が漏れてしまうんだ。中には真実もあり、ただの噂で偽りの情報も混じったりと支離滅裂な形で。
十年余りの間、ウチが教えた知識や技術を守り通した尾張と比較すると信じるのは無理だというのもうなずける。
「鉄砲と焙烙玉でよかろう。上様も求めておらぬのだ」
「それより信濃代官はいかがする? 夜殿と明け殿は戻したほうがよかろう。子を産むなら尾張がいい」
あーあ、そのまま話が移ってしまった。この件は駄目だな。ウチでごり押しするほどのことじゃないし。
話しが変わった領国代官の件。実はウルザが妊娠したことで交代を検討しているが、信濃からは待ってくれという報告が届いているんだ。
武士も寺社も歴史ある名門が多く、そのうえ山国で盆地ごとに生活圏が離れているので一体感があまりない。仁科騒動でやっとまとまりかけているのが現状だからなぁ。
「信濃衆が乱れる懸念がございます。申し訳ないがわしや弟では無理なれば」
小笠原長時さん、元信濃守護として代官候補なんだけど、本人はもう戻りたくないって公言しているんだ。こういうことをはっきりと言えるようになったのは織田家としてはいいことだけど、肝心の代官をどうするかが決まらないんだよな。
「仁科めが余計なことをせねば、今年の年始にでも戻せたのだがな」
「信濃だけ変えるから駄目なのではないのか? 他も変えてしまえばいかがだ?」
長時さんの意見に他の評定衆も意見を述べる。正直、代官交代の実例がないことで目立ってしまうんだよなぁ。
「ウルザのことなら大丈夫です。ヒルザは医師ですし、イザベラがふたりを助けるために信濃に向かいました」
変な時に交代すると目立つんだよなぁ。交代させるにしても、一定以下の役職で人事異動がすでに行われている年始がいいだろう。
「そろそろ変えるための形は考えねばならぬ時ではある。山城守殿のこともあるしな」
オレの言葉に皆さん悩むが、信康さんはこの議論を続けるべきだと主張した。代官交代、すでに道三さんが願い出て止めた過去があるからなぁ。
「夜殿は代理を送ったならばよかろう。織田家としても文官を増やす。いずれ変えるのは構わぬと思うが、産休でそのまま退くのはようあるまい。戻るのはもとの役職であるべきだ」
それとこの件の大きな議論点は、筆頭家老の佐久間さんが言った現職復帰だ。
この時代の皆さん、地位や役職へのこだわりがあり面目を重んじるのは変わらない。女であっても役職を得たならば、出産での役職変更には反対意見が多い。
あくまでも男と対等な条件での役職変更にするべきだというのが、評定衆の大勢の意見だ。
まあ、エルたちへの配慮だろうけど。この十年でいろいろと教えて指導したからね。みんなで産後に戻る場所を守ってくれたんだ。
その形を変えたくないという意見は根強い。
うーん。今日の評定も少し長引きそうだなぁ。














