第二千百六十話・美濃訪問・その六
Side:斎藤正義
あれから数日、若武衛様らは木曾川流域の検分をされた。武士のみならず、坊主、馬借、地元の民など多くの者から話を聞かれた。
未だかつて、かような主君がおったのであろうか? わしには分からぬことだ。
この日は金山城に戻っており、明日尾張に戻られる。内匠頭殿らは一連の検分に関わることを書状にまとめておられる。
現状の木曾川上流で主な湊は、ここ金山の湊だ。わしとしては代官として勤め、かつての領内が栄えるのは一向に構わぬが、東美濃や木曽のことも考えると今のままではいずれ困ることになる。
故に木曾川の水運について献策した。
「確かに上流に湊と街道がいるなぁ」
「まずは黒瀬でしょう。大納言殿の献策にもあった、ここに湊を整え街道も確かとしたものが必要ですね」
内匠頭殿と大智殿らは地図を広げ、湊と街道をいかにするか考えておられる。見立ては概ねわしと同じだ。そのことに安堵する。
「東美濃、飛騨、木曽、いずれも山ばかりだな」
もっとも若殿の言われた通り、木曾川はこれより先は山ばかりだ。故に今まではあまり重きを置かれておらなんだ。それをいかに見るか。
「それが財となりますよ。山の木々は私たちばかりじゃない。子孫の代まで皆が使えるようにと考えております」
植林か。織田の命で今ではそこかしこで見られるものだ。特に川に近きところなどは根こそぎ木を伐採してしまいなにもない山が珍しゅうない。
内匠頭殿はやはり山だからと捨て置くことはせぬか。
東美濃が織田の地となって以降、材木を畿内へ売ることは織田家の許しがなくば出来ぬようになった。畿内では良質な材木が不足しつつあり、こちらに買い付けに来る者もおったのだがな。
また、植林と間伐に力を入れ、根こそぎ木を伐採することはもうしておらぬ。
東美濃の遠山一党など、織田に従うのを渋ったところもあるが、今では代官として大人しゅうなった。近頃では、最早、畿内とは違うという自負を持つ者まで美濃には増えた。
己の都合がいい名目をでっち上げ、戦ばかりする畿内とは違うとすら豪語する者もおる。
織田は所領も兵を挙げることも一切認めておらぬが、従ってしまえばおかしなことをせぬ限りは安泰なのだ。
畿内に頼らずともよく、官位などなくても奪われぬ。近衛の父上が嘆く通りの国がここにはある。
「大納言殿、こちらの助言を置いていきますので、これを基に山城守殿とよく話し合って献策をお願い致します」
「……某がでございますか?」
つらつらと考えておると、内匠頭殿から予期せぬお言葉があった。
「私たちはここで差配出来ませんしね。もとは大納言殿の献策のはず。最後までお願いします」
わしが献策すれば、わしの功となってしまうが? すでに献策して功として評価は受けた。それでよいと思うておったのだが……。さらなる功とせよと?
「そなたもいろいろと苦労があろう。この辺で名を残しておけ。義父殿と新九郎殿はいいが、子孫が困ることにならぬようにな」
若殿の言葉に思わずハッとする。わしは近衛の父上を持つ、余所者なのだ。義父殿ばかりではなく、若殿や内匠頭殿らも案じてくだされておったのか。
「近衛殿下も案じておられました。大納言殿は血筋も家柄もいい。それが懸念となるのは、誰も望んでいないんですよ」
家柄、血筋、それらは己と一族を守り生きるためのはず。ところが懸念にもなる。世とは難しいものだ。
斯波、織田、久遠からすると、わしなど消してしまったほうが憂いなかろうに。近衛の父上はいいが、子孫というなら織田家としても懸念はあるはず。
「確と承りましてございます」
仏の国か。正直、今の今まで戯言と思うておったが、そう呼ばれる理由が分かった気がする。
日が昇るのは尾張からか、いや、遥か東の海にある久遠の地からか?
いずれにせよ、与えられた温情を働きで返さねばなるまいな。なんとしても。
Side:久遠一馬
木曾川流域の視察も有意義なものだった。
地元の武士、寺社、馬借などからも意見を聞き、オレたちも勉強になったし課題も浮き彫りになった。ただ、大筋では上手くいっていることも分かった。
まず、木曾川における水運を、さらに上流まで届けるべく上流の湊を整えてほしいという要請が多い。正義さんの献策にあった黒瀬湊と黒瀬街道、まずはここの整備を優先したほうがいいね。
現在は金山城近くにある金山湊が木曾川の上流にある湊となっているが、黒瀬はさらに上流になる。
これ凄いところは、金山の代官である正義さんがより上流の湊を提言していることだ。誰だって自分の利権を減らすような献策はしたくない。
史実でもあったことだが、上流に湊が出来ると現在賑わっている金山が廃れると考えて当然なんだ。
まあ、厳密には木曾川の利権は織田家で掌握しているので、正義さんの懐が痛むわけではないが。とはいえ過疎地の代官よりは地域の中心となるところの代官のほうがいいのが当然だろう。
ちなみに、金山城の近隣がそこまで過疎地になるかと言われると、そうでもないと思う。産業振興は常にしているし、信濃や飛騨との流通も促進している。今の織田家の状況だと過疎地にはならないだろう。
それと木曾川、史実では木曽式伐木運材法なんて手法を割と近代まで行っていて、大量に丸太を流していたこともある。あれやると、上流では船による輸送と並行してやれないみたいなんだよね。川の水を堰き止めて、無理やり大量の丸太を下流にながしていたから。
将来的に同じようにする必要があるのか検討が必要だけど、どのみち水運と街道整備はもっと進めないといけない。
史実の日本のように、畿内とか関東に文化経済圏を一極集中させるのもあまり好ましいと思えないしね。
数日の日程を終えて、オレたちは今日、尾張に戻っている。終始案内役として共にいた正義さんとは先ほど分かれた。一昨日あたりから少し疲れが見える時があった。
お偉いさんの接待と視察。まあ気疲れだろうね。ゆっくり休んで、また仕事に励んでほしい。
「若武衛様、いかがでございましたか?」
「よき旅であった。民の暮らしを己が目で見て、領内を整えるべく話を聞く。そなたたちが日頃から励んでおる様子をよう見られたのも良かった」
もうひとり、義信君もまた上洛を除くと旅らしい旅はほぼ経験がないからね。感想を聞いてみたけど、楽しめたみたいだし良かった。
なんでもかんでも自分で見て自分でやる必要はないけどね。知ることと経験することは悪いことじゃない。
エルたちとも話したけど、今後はこういう機会を増やすべきだろうね。
領内の地盤固めと地域間の対立の解消、それには顔を見せるのが一番だ。まあ、帰ってから検討だね。
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永禄五年、三月。斯波義信、織田信長、久遠一馬らが美濃検分を行っている。井ノ口の町を中心にした近隣の様子と、木曾川流域の視察が目的であった。
この検分は、美濃衆のひとり斎藤正義による木曾川水運に関する献策書があったため、木曾川流域の確認をするためだったと、『永禄五年、美濃検分禄』に記されている。
この『永禄五年、美濃検分禄』は、久遠家家臣滝川秀益が報告として提出したものになる。その内容は、のちに太田牛一により『織田統一記』や『久遠家記』に編纂されているが、原本も残されている。
この検分の結果、黒瀬湊と黒瀬街道が整備されることになり、のちに当地では大納言湊、大納言街道と呼ばれるほど栄えることになった。














