第二千百五十二話・争いの減った地にて
Side:リリー
今日は学校で授業をする日になるわ。授業内容は主に農業に関して。今では駿河や信濃と甲斐などの領民も学びにくることがある。
私たちが来て以降、増やした作物もあるし、新品種もいろいろと持ち込んだわ。ただ、やはり主食となるものの生産を一番増やしたと言えるかしら。
粟・稗・大豆・など、田んぼを使わない作物も含めて生産量が増えていて備蓄が進んでいる。
一方で、みかんやぶどう、桑の実などの生産も伸びているわ。植林を進めていたこともあって、一部でははげ山を果樹園としたところもある。
あと農業技術の普及も、塩水選や正条植は新領地でも取り入れられている。区画整理と田畑の効率化は相変わらず進展が遅いけど。
尾張だとこの十年で区画整理も進んだわ。農村でも小作人が外に働きに出るようになったことで地主が一方的に優位ではなくなった。
それもあって、農業の効率化が求められるようになり区画整理が行われたのよね。
主要な街道やそこから見える範囲で、昔ながらのまだら模様の田んぼはもう少なくなってきたわ。
尾張の変化は諸国に衝撃を与えた。領国も最初の頃と比べると指導を聞いてくれるようになったし、他国でも真似しているところがあるほど。
「おらの村じゃ、なぜか上手く育たぬことが多くあります。何故でございましょうか?」
一通り授業が終わると質疑応答になる。ただ、私の場合は農業関連の相談がほとんどね。土壌の状態や気候風土など、細かく聞きつつ出来る範囲で助言をする。ただし、いきなり変えるのではなく、きちんと少しずつ試すことを確と命じるわ。
聞いた情報と実際の現地における環境が違うこともないわけじゃないのよね。
難しい相談が多いのは甲斐と信濃かしら。米以外の作物を推奨しているけど、やはり上手く育つと収量が多く味もいい米を植えたいという相談もある。
米価も安定していて、今も毎年備蓄量を増やすことが出来ている。無論、米以外の麦・粟・稗・大豆なども備蓄をしているわ。そういう安心感もあり、甲斐や信濃では作物転換も進みつつある。
本当、これ以上領地を求めないで内需と内政を整えることが、短期的には領民にとって一番いいのも事実なのよね。
争いが減ったことで安心して農業に営む人が増えているから。
Side:季代子
奥羽は八戸にも、桜の季節が到来したわ。あまり多くはないけど、少し離れた寺に一本だけあった。
尾張から来ている者たちが春の花見を懐かしんでいたので、手の空いている者たちを集めて観桜会とすることにした。
尾張と違い領民が集まることはないものの、揺れる桜の枝と春の気候が合わさり、皆も喜んでいる。
「尾張ではすでに散っておる桜が、奥羽では今咲いておるとは……」
「正しくは尾張から北東になるわ。北に行けばいくほど寒い土地になり、春の訪れも遅くなるのよ」
ゆっくりと酒を飲みつつ、日頃の苦労や尾張と奥羽の違いを皆で話す。
一部の人は日本海航路の商人などから畿内や尾張の話を聞いて、その土地の違いや個性などを知っているけど。全体では故郷と自分の周囲以外は知らない人が多いのよね。
「お方様のご本領にいつか行ってみとうございますなぁ」
「ハハハ、ならば誰もが認める功を上げることだ。若い者は選ばれることもある」
奥羽衆と尾張から派遣されている尾張衆、蝦夷から来ている蝦夷衆がこの地にはいる。それぞれの故郷の話をして、私たちの故郷の話もする。
すっかり極楽のような島だと評判になってしまったのよね。
これは浪岡殿が言っていたことだけど、祖先が名を馳せた畿内や京の都に、誰もが憧れのようなものを抱いているそうよ。歴史ある地、豊かな地、栄華を誇る地にあこがれるのはいつの時代も変わらないのかもしれない。
それが僅かなりとも変わりつつある。
あと奥羽の寺社もまた現実を受け止めつつある。高いプライドだけでは生きていけない。意地を張るには相応のリスクがあると気付いたところは交渉が軟化しているわ。
ただ、寺社に関しては、この数年で織田家としての受け止めが変わりつつある。寺社領を放棄する対価として実入りを俸禄とする。この形に疑問が多く出ているわ。
寺社領の統治に関わるコストがそこに入っていないという意見など、統治に関して家中の者たちが学んだことで細かい指摘や献策が増えている。
さらにこの地は人口や生産力と比較して寺社が多すぎる。そのことも問題視している。さっさと従い強訴騒ぎの時も織田家に味方した寺社などは、残そうという意見で一致しているけど、交渉中の寺社に関しては条件が月日を追うごとに厳しくなっているわ。
ゆっくりとだけど、この地は変わりつつある。もしかすると、関東とかより上手くいくこともあるかもね。状況次第では。
Side:久遠一馬
近江から警護衆の報告書が届いた。ちょっと問題があったようなので、ウチの屋敷で菊丸さんと与一郎さんと報告を見ながら相談しているんだけど。菊丸さんは深いため息をこぼした。
「困った者らだ」
追放しろと言わないだけせっかちも改善しつつあり、穏やかになったよね。会った頃との違いをしみじみと感じる。
「近江におるとな。尾張を知る者とそれ以外で、物事の見方から考え方まで違い過ぎて話が合わぬ時がある。警護衆とは別に奉公衆も本来の形に戻すべきだという献策もあるのだ」
だろうね。奉公衆の再建はいろいろ難しいところはあるが、将軍の軍事力がないのは確かにネックではある。普通に総論ではいい献策だと思う。奉公衆の形や規模や組織の形態など、個別には議論の余地があるが。
「検討する価値はございます」
顔を見合わせたエルがその意見を認めると与一郎さんが驚いた。別にオレたちも旧体制を壊したいわけじゃないし、使えるなら再建してもいいと思う。
ただ、旧奉公衆を再集結させるよりは、新しく組織したほうが楽だとは思うが。足利家としては旧奉公衆に声を掛けないわけにいかないだろう。
「この件はジュリアとセレスと以前話したことがあるが、当面は要らぬ。悪い策ではないが、今は警護衆だけでよい。畿内から奉公衆を集めるといいことあるまい?」
問題はそこだね。どこからどの程度集めるのか。畿内を無視して近江以東で集めるほうが編成は楽だが、それでは地域間の対立色が強くなりすぎる。古くから足利家に仕えていた家もある。あまり粗末には出来ない。
とはいえ畿内から集めると家柄や血筋で派閥を作り勝手をする者が増えて、血縁などで畿内の力関係や争いに足利政権が巻き込まれるだろう。
警護衆も実働部隊というより御所や将軍の身辺警護として創設した。そのほうが畿内や周囲に与える影響が少ないからだ。
「どちらかというと、政をする形と体制を整えるほうが先決ではあるんですよね」
批判するつもりはないけど、足利政権は権限と権力が特定の役職に集まり過ぎている。そのくせ人員も少ないことで組織として機能していない。
税の管理と保管だって民間に任せていた現状が良くないので、こちらからの要請でようやく奉行衆で管理する形を整えつつあるのに。
「いずれにしろ今更、兵を揃えたところで軽々に戦が出来るわけでもない。そなたが戦そのものを変えてしまったからな」
うん。それを言われるとなんとも言えなくなる。近代以降を知る身としては、安易な戦争が出来る体制は望ましいとは思えないんだ。
「仕えたいというならば文官として勤めればよい。元奉公衆でも望めば使うように言うてある」
この辺は尾張を参考にしたみたいだね。主に信秀さんの手法を。本人の適性次第ではあるが、家職などと違うところで使ってみるというのは中堅以下でよくやっている。
下級の文官だと文字の読み書きと俗にいう報連相が出来ればいいから、三男以降とか寺社に押し込めていた者とか還俗させて務めるなんてのが多い。
まあ、事実上崩壊していた足利政権の再建だ。この程度の苦労と混乱は予測済みなんだよね。おかげで春たちが目立っちゃったけど。
現状は思ったより悪くない。














