第二千百四十六話・菊丸の旅
Side:菊丸
御所造営もあって、菊丸に戻るのが二月も半ばになってしまった。謀叛や勝手をさせぬ政とは難しきことよ。
顔を知る者は限られておるが、それでも観音寺城下は油断出来ぬ。慎重にしつつあえて他の旅人と同じように夜明けと共に出立した。
顔も隠してはおらぬ。常に堂々とするべしとは師から教えを受けたことだ。ジュリアなどは、隠そうとすると見たくなるのが人だと笑うておったがな。
いかほど歩いたであろうか。ふと前を歩く者らの西国訛りがある話し声が聞こえてきた。
「随分と人が多いなぁ」
「そりゃそうでございますよ。近江と尾張の間は大きな街道だと賊すら近頃見かけませぬから。近頃じゃ女子供が尾張の祭り見物に行くくらいなほどで」
「噂の花火か!?」
「ええ、あとは武芸大会や海祭りなんてのもございます。珍しい品や久遠様の船も見られますから」
用心のために案内役の者を付けておる西国の商人らのようだ。大店ではなかろうが、それなりの身代であろうな。どこぞのお抱えといったところか。
「京の都も行きたかったのだがなぁ。関税が高過ぎて行けなんだ。尾張に行くか、京の都に行くか。いずれかと言われると尾張に行きたい」
一昔前ならば京の都に上っておった者らが、京の都に入らぬまま近江に来て尾張まで足を運ぶ者が増えたからな。
五山の僧らは左様な世になりつつあることを憂いておるとか。されど、税を取るなとは誰も言えず、自ら税を取らぬとも言えぬ。
まあ、この件は今に始まったことではないが。
商人など目先が利く者は、昔から堺や石山などの栄えておる町に集まっておったのだ。それが畿内の外に移っただけ。もう少し言えば、越前の一乗谷なども昔は羨んでおったのだ。
「我らも昼飯に致しましょうか」
午の刻となり、立ち寄った村で昼餉にする。同じように観音寺城下を出た者らも大半がここで休息するようだ。他の者は一日二食だが、この村では午の刻には握り飯を売っておることから休息をして小腹を満たす者が多いのだ。
共におるのは与一郎とすっかり馴染みとなった兄弟子らだ。
「おお、美味そうだな」
与一郎が皆に飯を配ると兄弟子らは驚いた。今朝、出がけに冬が寄越してくれたものだ。久遠家では弁当と呼ぶ。
塩むすびと、久遠料理である玉子焼きや鶏のから揚げがある。
村の者が売っている汁物を頼み、休息する場にと空けておる寺の軒先で飯を食う。
ああ、美味い。オレは将軍となるべく育ち、そして諸国を歩いた。されど、久遠家の飯以上のものには未だ出会えておらぬ。一馬は世にはもっと未知未見のものがあると言う。料理もまたオレの知らぬものがあるのであろうな。
城内などで食うより塩がよく利いた握り飯は、米の味がよう引き立っておる。旅をする時は、塩と水は多めに取るようにケティが言うておったことを思い出す。
見渡すと旅の者と村の者の賑やかな声が聞こえる。
近江も東に行くと乱世と思えぬようになりつつあるな。六角家や寺社の手前あまり公にしておらぬらしいが、ここらは仏の弾正忠に祈る者も増えておると聞き及ぶ。
村の寺社は承知しておろうが、そこに触れることはまずない。端の寺社になると、坊主や神人が仏の弾正忠を信じておるということすら珍しくなくなりつつあるからな。
当の本人が聞けば困った顔をしようが。
争わずに穏やかな暮らしを得た者らは、好き好んで畿内と争いたくないと願う。当然のことなのであろうな。
Side:久遠一馬
今日は学校の子たちを連れて工業村に来ている。不定期に実施している社会見学だ。
学校で学んでいる職人たちが案内をしてくれていて、見学ルートは文化祭で公開している一般公開ルートプラス、一部の作業を近くで見られるものらしい。
「うわぁ」
「鉄が赤いね」
「熱した鉄は赤くなるんだ。そうすることで柔らかくなり、いろんなものが作れる」
興味津々な子供たちだけど、実は学校で学ぶ大人も大勢同行している。この社会見学、始めたのはオレで、最初は清洲城とかに行っていた。
もちろん、今でも清洲城への見学は年に二回ほどあるが、大人も参加したいという意見が結構多かったことで今では老若男女問わず参加する行事になっている。
アーシャたちが示した教育理念のひとつに生涯学習があるから、それもあるんだろうけど、学ぶ意欲や好奇心は大人も負けず劣らずある。
「昔は品質のいい鉄なんてなかなか手に入らなくてなぁ」
「ああ、そんなこともあったな」
目の前の光景を素直に学ぶ子供たちと、過去や自身の経験を踏まえて学ぶ大人。この違いも見ていると興味深いものがある。こういう大人の何気ない意見で新しいことが始まるなんてことも何度かあったしね。
ちなみに鉄は今でも貴重だ。需要と供給が釣り合っていない。主に他国の需要のせいで。
尾張でも鉄を作っているが、こだわりある刀剣を打つ鍛冶職人なんかは、他国のたたら製鉄で造った鉄を欲しがるので、尾張でも他国の鉄を今も購入している。
化学全般が得意な妻のライラの進言もあって、割と初期から一定量の鉄は買っていたんだよね。一部は研究目的としてウチで買い取りシルバーンに送っているし、ライラの指導で工業村でも鉄の違いや製法の研究は続いているんだ。
こういう地道な調査研究体制が、十年で軌道に乗ったのは嬉しい誤算だった。与えられた知識や技術を使うだけでなく、失敗を含めて試行錯誤をする体制がある。
まあ、尾張でも工業村や船大工衆など限られた人たちだけになるけどね。
工業村の場合、分業での量産体制があることで、量産での評価と至高の逸品としての評価は別にしてあるくらいだ。
誰もが羨む名刀名槍に量産品は一対一では叶わないが、暴論を言うならどんな名刀だって何度も真剣で打ち合えば欠けたりすることはある。まして切れないようなものを切ると尚更ね。
量産出来ない逸品の価値は変わらないが、一方で一般兵が使う武器にそこまでの品質が必要かといえば、否と言うべきだろう。
費用対効果を考えたうえでの量産品の品質も向上していて、尾張産の量産品の品質はすでに他国で出回る数打ちの刀剣と比較にならないくらいに高い。
度量の統一とか、苦労したからなぁ。
ちなみに身分がない子供では職人になりたいという子たちも多い。学校に通う職人たちと交流があるからね。割といい暮らしをしていて、他国と違い身分も安定しているからだろう。
職人衆も満更じゃないみたいで、すでに学校を卒業した子たちを受け入れて指導して頑張っているんだ。
いろいろ手のかかることが多いけど、工業村はほんと手がかからないんだよね。
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