第二千百三十三話・動き出す一年
Side:吉岡直光
警護衆に任じられたことで、昨年の師走には京の都の染物業を家の者に任せ、主立った者と近江に移り住んだ。京の都を引き払ってもよかったのだが、馴染みの者もおり当面残すことにした。
近江は観音寺城下に屋敷を与えられ、そこで新年を迎えた。一言で言えば、京の都より暮らしは楽になったな。尾張ほどではないが、諸国の品が手に入りやすく値もそこまで高くない。
そんな松の内も残り数日となったこの日、上様から呼び出しがあり、御前に参上した。ただ、そこには僅かな近習のみしかおらず、上様に至っては鍛練をするようなお姿だ。
これは一体……。
「松の内だというのに呼び出してすまぬ。少し手合わせをしてほしくてな」
すまぬというお言葉に驚き戸惑う。公の場でないとはいえ、左様なお言葉は過ぎたるもの。
「はっ、某でよければ!」
指南役に任じられなかったことで、わしの武芸にあまり興味がないのかと思うたが違うのであろうか?
広間は南蛮暖炉があり暖かいというのに、あまりのことに背筋が冷たくなる。
「あれこれと学んだ故、亜流だがな。主に鹿島新當流と陰流、久遠流を使うておる」
すぐに支度をしてお相手を仕るが、立ち居振る舞いが油断ならぬほどの腕前だと分かる。使う流派は俗にいう尾張流か。尾張者が使うのが主にその三流派であることから、武芸大会の場ではそう呼ばれることがあるのだ。
「本気で相手をしてくれ。叩きのめしても構わぬ」
これは異な仰せだ。とはいえ、それを見越して近習が数名しかおらぬのか。
「上様を叩きのめすなど……、と言いたきところでございますが。それほど力量に大きな差がないとお見受け致しまする」
世辞と受け取られるとご機嫌を損ねるお方だ。されど、上様はわしの言葉に僅かに笑みを浮かべたあと、本気になるように表情が変わられた。
……くる!
遠慮なく打ち込んでこられた上様に驚いたかもしれぬ。思うた以上だ。近習や塚原殿の門弟くらいしかお相手がおらぬと思うたが……。
いかん、守勢に回れば足を掬われる。叩きのめすどころでないわ。本気で掛からねば危うい。
こちらも本気で打ち込むが、上様はわしの攻めを読まれたように動かれた。読まれるほど御見せしたことなどないはずだが……。
上様が御臨席なされた武芸大会の場くらいであろう。本気で戦った姿を御見せしたのは。あの時にここまで知られたのか?
分からぬ。分からぬが考えておる余裕などないわ。
「ふむ、やはりそなたは強いな」
なんとか勝てた。武芸大会にて尾張流と手合わせしておらねば危うかったかもしれぬ。下手に近寄ると久遠流があると思うと間合いも詰められぬ故、難儀したわ。
武芸大会ならば本選に勝ち上がれるくらいの腕前はある。病と聞いていたが、これほどの武芸を磨いていたとは。
そのまま幾度か手合わせをする。癖や力量が分かるとなんとか勝てるが、気を抜くと敗れそうになるくらいにはお強い。
「よき手合わせであった。大儀であったな」
「はっ!」
「警護衆の役目もあろうが、今年の武芸大会も楽しみにしておるぞ。しっかり鍛練を積み励め」
「……ははっ!」
そのまま上様は下がられた。
それはよいのだが……、わしは昨年の武芸大会を最後にするつもりだったのだが? 警護衆を務める者が敗れるわけにはいくまい?
今のお言葉は……。
「実は、吉岡殿が武芸大会を諦めたとの話が上様のお耳に入った。ここだけの話、上様は武芸大会がお好きでございます。吉岡殿が出ておられたことも喜んでおられました」
戸惑うわしを見た細川殿に思わぬことを教えられ、ただただ驚くしかない。
「それ故、役目を理由に出ぬというのは無用ということでございます」
騙す? ありえぬな。上様は左様なお方ではない。細川殿とて、上様の信がもっとも厚いひとりだ。わし如きを騙してなんの得がある。
「確と承り申した」
正直、戸惑うておるところも多いが、上様が面目や意地などで動いておられぬのはわしにも分かる。
変わられたな。上様は。すべては塚原殿のおかげか?
「あまり難しゅう考えずともよいと思いまする。北畠家の愛洲殿などと同じとお考えになられて結構故」
ああ、なるほど。あの御仁は確かに今も北畠家家臣であったな。
出ても良いと言われると出たくなる。一番になりたいのだ。一度くらいはな。これは楽しみが増えたわ。
Side:久遠一馬
織田家では仕事始めとなったが、オレはまだ休暇を取っている。妻たちが松の内は残っていることもあり、申し訳ないが休ませてもらっているんだ。
代行は資清さんと湊屋さんたちになる。みんな頼りになるから、通常の役目ならばオレたちが休めるんだよね。
さて、年末年始に関しては特に大きな動きはなかった。ただ、南伊勢では慶光院に初詣の人が集まっていて話題になっているそうだ。
一緒にいる妻たちとその話になった。
「清順殿だからでしょうね。信濃でも評判は悪くなかったわ。むしろ同行した神宮の者たちのほうがあまり信を得られてなかった」
割と厳しい対応をしたと言っていたウルザの言葉にも、彼女に対する信頼が感じられる。同じくヒルザもまた彼女を認めている様子だ。
「ウルザと私に対してもちゃんと向き合ってくれていた。女の身で紫衣を頂いたことからも、相応に苦労をしたんだと思うわ」
まあ、そうだろうね。それもあって湊屋さんに頼んで慶光院に年末に寄進してもらった。
あくまでも湊屋さん個人としての寄進という形にしたが、実際のところは斯波家、織田家、久遠家の評価だと言ってもいい。一連の動きから、彼女を潰したくないと義統さんすら気にしていた。
神仏と寺社と宗教関係者の分離、この時代だと予想以上に世の中に与える影響が大きいなぁ。
「余所のことだけじゃないわ。あんまり私たちが信を集めすぎるのも困るのよね」
清順さんの件はまあいいと前置きをしたうえで、オレたちの現状に懸念を示したのは季代子だ。
「そりゃ、帝も神仏も信じられない。自力で力を保たないと生きていけないのに、織田領だと公儀を信じて生きていけるものね。申し訳ないけど、格が違い過ぎるわ」
仕方ない。春はそう言いつつ苦笑いを浮かべた。近江に滞在していたことで、オレたちの中では一番中央政治に近い。
みんなも報告として情勢は共有しているものの、五感で感じる空気や様子などはその場にいた春たちが一番理解しているんだろう。
言い方がいい適切じゃないだろうが、血筋と権威で世の中を支配している時代だ。何度か言っているが、支配層と被支配層では同じ人間と思ってはいけないほど住む世界が違う。
厄介なのは、なにがあろうとも支配層は自分たちが世の中の上に立つつもりだということだ。やり方や形は違うが、信を受ける体制もノウハウも欲しがるのはほぼ同じ。自分たちの血筋と権威を壊さないように。
別に批判するつもりはない。これは、いつの時代も形を変えつつ残っていたものだ。人が社会という形で生きる以上の文明を築かない限りは変わらないだろう。
オレたちだって自分たちを守る力は手放せない。そういう意味では根っこはあまり変わらない。ただ……。
「覚悟はしているよ」
理想は軟着陸だろう。それは変わらない。ただ、もうみんな争う覚悟はしている。義統さんも信秀さんも家中の皆さんも。
当然、オレも。
文化伝統は残したい。ただ、文化伝統の維持のために特定の人たちだけ特別扱いして、無条件に既得権を残してやるのは悪手だろう。
いつの時代も本当の弱者が救われるなんてことはないんだ。相対的にマシかどうかということはあるが。
今年は、新しい世の中への転換期に差し掛かるかもしれない。
近江御所の御殿は、ほぼ完成している。装飾や内装に他の建屋はまだ建築中だけどね。一帯に造る町の土地造成や詰城の普請は続いているし、支城も早期に普請が始まるだろう。
畿内の古い既得権を持つ者たちですら、まだ実感も理解も及んでいないが、近江御所は世の中の中心が変わることを意味する。鎌倉のように政治だけではない。経済流通ですら近江より東に主導権が移るんだ。
そんな最中で、今年は史実にあった関東を中心に大規模な飢饉が起こる。正直、歴史の資料だけでは被害想定が難しい。
織田家としては数年ほどならば飢えないようにする備蓄と体制を整えているが、関東は北条の直轄領以外はあまり期待出来ない。
義輝さんの政権が史実以上に安定する中、飢饉がどこまでどう影響するのか。実際のところ起こってみないと分からないこともある。
ウチではすでに、関東や畿内への大規模派兵も密かに検討している。仮に泥沼になることになっても、北条や三好が助けを求めたら動かないといけない。
まあ、そうならないようにするつもりだけどね。
全員揃っているうちに、妻たちとはよく話をして意思統一をしておこう。オーバーテクノロジーで通信も出来るけどね。顔を見て話す重要性は意外と変わらないんだ。














