34. 苦痛のない世界 side 王太子
胸くそ注意な王太子視点。
ポワソン宰相のくぼんだ目を見ながら、ガブリエル王太子は声を失っていた。
「今、なんて……」
「ですから、裁判は殿下の敗訴となります。殿下はこの離宮で生涯、お過ごしください」
ガブリエル王太子の口の端が、ひきつった。
「外に出ることも、子を儲けることも、許されません。カーラはお側に置いてよいですが、それだけです。彼女には避妊薬を常に服用して頂きます」
ポワソン宰相は低く呟くような声を出す。
「……ああ、それとも殿下が、下半身の手術を受けますか? 生死をさ迷いますが、死にはしません」
ポワソン宰相は、自分を指差した。
「私も体験しましたが、この通り、生きていますよ」
淡々と提案されて、ガブリエル王太子は震え上がった。
「……僕が負けた?……なぜ? ヤニスはどこにいった? ヤニスの言うとおりにすれば、勝てると……」
「ヤニス枢機卿は逮捕されました。まだ判決は公開されていませんが、殿下は実質、負けです」
「嘘だっ!!!」
ガブリエル王太子は悲鳴のような声をあげた。
「僕は、僕は僕は王になる人間だ。……なんでも手に入れられると母上が言っていたんだ……」
震えるガブリエル王太子は亡き母を探して、周囲を見渡した。その様子を見て、ポワソン宰相は重いため息をついた。
ガブリエル王太子は、亡きドロテ王妃に過剰なまでに愛されていた。幼いガブリエル王太子にとって、母が全てともいえた。
シャルル兄王子は優しかったが、忙しく、父は見向きもしない。一番、接している家族に心を許すのは、本能だろう。
母はガブリエル王太子に「あなたが一番素晴らしい。あなたこそ王になる人だ」と言い続けた。そして、王太子が嫌がる者は、処刑という形で排除しつづけた。
王妃は他の女に心を移す王の態度を嘆いていた。
「陛下のお心はわたくしにはない。ガブリエル……あぁ、ガブリエル……あなたはわたくしを捨てないで……」
自分にすがりつく母を守らなければと思った。
それでも、王妃が生きているうちは、ガブリエル王太子も末っ子らしく甘えん坊だが、普通の子供だった。
それが壊れたのは、ルイーズ姫が産まれてからだ。妊娠中は、母は隔離され会えずじまい。
寂しさを募らせていた八歳のガブリエル王太子に、訃報が舞い込む。
ルイーズ姫を出産後、王妃は儚くなった。翌年には、シャルル兄王子も亡くなり、マリー公爵令嬢との婚約が始まった。
家族の死を受け止められずに、ガブリエル王太子は心を壊した。
自分に残されたのは、兄をひきずり笑わなくなった亡霊のようなマリー公爵令嬢と、王妃亡き後も放蕩を繰り返す父。そして、王太子という地位のみだ。
立太すると、媚を売る貴族や枢機卿であふれだし、ガブリエル王太子の世界は、残酷なほどに華やかになった。
王太子というだけで、誰も何も言わない。
誰もが褒め称える苦痛のない世界。
優しい世界は、ガブリエル王太子には心地よく、あっさり享受した。
マリー公爵令嬢には会いたくなかった。
彼女といると、現実を思い出す。
辛気臭い顔は見たくないと、マリー公爵令嬢の存在を無視しつづけた。
そして、外遊旅行でカーラに出会う。
カーラの癖っ毛は母に似ていた。厚ぼったい唇も。たれた目元も。照れたような微笑みも。
彼女は貧乏なのが嫌で、自分を連れて行ってほしいと願った。
「ガブリエル様、お願いでございます……私を側に置いてください」
その姿はまるで、母のよう。
吸い寄せられるようにその体を抱けば、ぬくもりが体に染み渡った。
豊満な胸に顔をうずめたら、もう後戻りはできない。
水を求める魚のように、ガブリエル王太子は、カーラに溺れた。
カーラと体を重ねても、マリー公爵令嬢への罪悪感はなかった。マリー公爵令嬢は兄の婚約者だ。亡くなっていたとしても関係ない。
――マリーはシャルル兄様のものだ。
そう考えるとマリー公爵令嬢との婚約がとても歪なものに見えてきた。
――僕は妻になる人を泣かせたくない。愛し、愛されて、添い遂げるんだ。
使命感に付き動かされて、ガブリエル王太子は婚約破棄を言い出した。
裁判という大事になってもヤニス枢機卿が「あなたが王だ」というから平気だと信じていた。
ただ、キュキュロン夫人がこちら側に付いたのは辟易した。
――父上だけではなく僕も食い物にするつもりか。悪女め……
ガブリエル王太子は、母を泣かす公妾が嫌いだった。
自分が裁判に勝って、キュキュロン夫人がすり寄ってきても、手腕には乗らないと心に決めていた。
何も心配することは、なかったのだ。
王太子という立場さえあれば、すべては思い通り。楽な方に逃げても、許される。
苦痛のない世界が、この先も続くものだと思っていた。
それを目の前の禿げ頭は否定する。
とうてい受け入れられない。
ガブリエル王太子は瞠目し、ポワソン宰相を睨んだ。
「……ポワソン……お前……ルイーズを立太子するつもりだな……」
「お答えできません」
「とぼけるな! ルイーズが父とあの悪女の子だって知っているんだぞ! だから、お前は! 自分の地位を確立しようとルイーズに傾倒しているんだ!」
「……それはございません。ルイーズ王女殿下は、陛下と妃殿下のお子です」
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
ガブリエル王太子は聞き分けがない子供のように同じ言葉を繰り返した。
「母上が亡くなる前に、あの悪女が来たんだ! 父上が母上と子を儲けるなどあり得ない! なぜ、ルイーズはあんなに年が離れているんだ!」
ポワソン宰相は禿げた頭をなでた。
「……キュキュロン夫人の子供ではないことは確かです。彼女は子供の頃の病気で、子が生せる体ではありません。医師に診断されています」
だからこそ、キュキュロン夫人は嫉妬に狂う王妃の側に近づけたのだ。子が生せぬというだけで、王妃はひどく安心していた。
「そんな……嘘を……」
「嘘ではございません。キュキュロン夫人は王妃付きの侍女でございました。妃殿下が亡き後、寵妃の座におさまりましたが、妃殿下の遺言だったのです」
「えっ……」
「次の寵妃はあなたがいい。あなたなら、子供を作れない……と、妃殿下は言われていたのですよ」
ひゅっと息を吸いこむガブリエル王太子を見ながら、ポワソン宰相は続ける。
「陛下が気まぐれで、妃殿下の寝所にお通りになり、妃殿下は逢瀬を喜んでおられました。懐妊された時も、嬉しそうで……ですが、陛下の性豪さはおさまることなく、妃殿下は心を病みました」
――あの人はわたくしを愛さない……期待したわたくしが愚かだった……
王妃ドロテは、狂おしいほど国王を愛してしまっていた。裏切りに傷つき、立ち上がる気力もなくなり臥せる日々だった。
キュキュロン夫人は、そんな王妃に寄り添った。
本音を言えば、か弱く、喚くばかりの王妃が、面倒だった。でも、見捨てることもできなかった。最後はもう意地で、ドロテ王妃を見送った。
「……殿下は陛下と妃殿下は愛し合われていなかったと思われていたようですが、少なくとも妃殿下は違う。悲しいくらい、陛下を愛しておられました」
ポワソン宰相はガブリエル王太子をまっすぐ見つめた。
「その証拠に、若い頃の陛下に、そっくりなあなたを溺愛していました」
ガブリエル王太子が耳をふさいだ。これ以上、聞いたら現実に捕らわれる。
守りたいと思った母は、嫌いな父の面影を自分に見ていた。
自分自身を愛することは、一度もなかった。
「もう、いい! やめろ!!!」
錯乱して叫ぶガブリエル王太子を、ポワソン宰相は憐憫の目で見ていた。
(陛下が性に狂っていなければ……いや、この方も同じか。この方も、大切にすべき相手を蔑ろにし、他の女性に溺れた)
これは悲劇なのだろうか。
それとも喜劇か。
それは後世の歴史家が決めればよいだろう。
ポワソン宰相は小さく息をはいて、部屋を後にした。
「カーラ……どこにいる……カーラ……」
ポワソン宰相がいなくなった後、ガブリエル王太子はカーラを探した。
控えの部屋にいたカーラはひょこんと顔を出す。それにほっとして、柔らかい体を抱きしめた。
「……カーラ……君を妻にする……君は未来の王妃だ……」
虚ろな眼差しのまま言うガブリエルに、カーラは微笑んだ。
「……私、王妃様にならなくてもいいです。ガブリエル様がいれば」
ガブリエルがひゅっと息を吸い込む。
「……なぜ……? 君は王妃になりたいと言ったじゃないか……?」
「はい。言いました。ガブリエル様が、私を王妃にしたそうだったので」
悪びれもなく言うカーラに、ガブリエルは目を泳がせる。カーラはガブリエルを抱きしめた。
「ガブリエル様、大好きです。弱くて、情けないあなたのことが、たまらなく好きですよ」
カーラの声はガブリエルの耳に甘く響いた。現実は遠くなり、苦痛のない世界が広がる。
「……これであなたは、私にすがるしかなくなりましたね……」
満足そうな声は、甘く痺れるようなもので。
呆然とするガブリエル王太子をカーラはうっとりとした笑顔で見つめていた。
次はマリーのその後です。




