29. 涙が忘れられないのです
――マリー公爵令嬢を助けてください。
メリルがカードに縫ったメッセージは一文だけだ。ウィリアム王子は護衛からカードを受けとると、トリア語で書かれたメッセージを指でなぞる。
ひゅっと息を吸う音が、ウィリアム王子から漏れた。
綺麗なガラス玉のような瞳が、メリルをじっと見る。
「……君は……」
メリルは微笑した。
「わたしのお客様は貴婦人の方々が多いのです。最近、王族の方々とも縁がございまして、ドレス生地を作らせて頂いております」
ウィリアム王子はメリルを観察するように見た。
(疑われている……マリー様とは最近、お知り合いになったばかりだし……無理もないかも……でも、お願い。信じてっ)
メリルが真摯な思いが通じたのか、ウィリアム王子はメリルと話す時間を作ってくれると約束してくれた。
「あ、ありがとうございますっ!」
歓喜が沸き上がって、つい大きな声がでた。
メリルは我に返り、口元を手でおさえる。
ウィリアム王子は、くすりと笑んだ。
*
メリルと別れた後、ウィリアムの護衛ノアは、小声で話しかけた。
「殿下……先ほどの女性の話を信じるのですか……?」
ウィリアムは立ち止まり、呟くように言う。
「話は聞く。マリー嬢と関係があるなら尚更だ……」
ウィリアムの顔が暗くなる。ウィリアムの耳にもマリー公爵令嬢の裁判のことは入っていた。自国の密偵からの情報で、詳細なことまで分かっている。
ウィリアムがマリー公爵令嬢とかん通を疑われていることも。公開裁判になったことで、筒抜けだった。
それを知ったウィリアムの兄、王太子アルベルトは激昂した。
――ウィリアムが不貞を働いている……だと。馬鹿するのもいい加減にしろ。おのれ……リベラルめ……我が一族を愚弄しておる。
熱血タイプの王太子アルベルトは、人一倍、家族が大好きである。可愛い弟の不貞疑惑をほっとくわけなかった。
しかし、これは密偵が掴んだ裏情報だ。
王家として、表立っては動く気はなかった。
王太子アルベルトはリベラル嫌いになったが。
――リベラルが何か言っても、俺が潰してやる。ウィリアムは今まで通り、堂々としてろ。
カンカンになりながら王太子アルベルトに言われたことを思い出していた。
(兄上はああ、言っていたけど、僕は……)
ウィリアムの脳裏に、儚いマリー公爵令嬢の顔が浮かぶ。はらりと流した綺麗な涙の跡も。
「……彼女が助けてと言えないのなら、理由を知りたいんだ……」
メリルから受け取ったカードのメッセージを指でなぞり、ウィリアムは顔をあげた。
祭典を見終わり、挨拶を済ませたウィリアムはメリルたちと約束した場所に向かう。その場所は、メリルの叔父の染色工場である。
表向きは新しい染色機の視察、ということになった。
メリルの叔父と叔母は顔見知りだ。
挨拶をすませると、メリルとロジェが待っている部屋に通された。
「ウィリアム殿下……来てくださったのですね……」
ウィリアムの顔を見たメリルは感嘆した声をだした。
「約束しましたから……マリー嬢の話を聞かせてください」
メリルは大きくうなずき、マリー公爵令嬢の不利な立場を語った。
聞き終えたウィリアムは、あり得ない事態に言葉を失う。代わりに、護衛のノアが声をだした。
「乙女検査など……そんな悪法をまだやっているのか……かの国は……」
「ノア、失礼だよ」
ウィリアムがたしなめると、ノアは苦虫を潰した顔をして黙った。
メリルたちは何のことだか、さっぱり分からないようだ。
国の違いだろう。
トリア国では、一夫一妻制が徹底されている。愛人をもったら即爵位を失うほど不適切なものである。
その意識が徹底されるまで、純潔が保たれているか確認する乙女検査というものが、トリア国でもあった。
今となっては、古い慣習だ。
女性が精神的苦痛を伴うので、推奨されていない。
マリー公爵令嬢が、その検査をしろと、脅されていると聞いて、ウィリアムの腹は煮えるようだった。
(許せない……)
はっきりとした感情が胸の奥でくすぶり、広がっていく。
ウィリアムが沈黙していると、メリルは嘆願した。
「お願いでございます……殿下……マリー様を助けてください。証言台に立って、マリー様とは何もなかった裁判官に言ってください……」
メリルはくしゃりと顔を歪ませた。
「……マリー様は、殿下との思い出を楽しそうに語られていました。トリア国で学んだ義足・義手の技術を学びたい。……もっと、もっと、学びたいって……」
メリルの瞳が真っ赤に充血していく。
「それは……誰かを幸せにしたいという願いです。……マリー様は、優しい方……です……」
鼻をすすり、メリルは射ぬくようにウィリアムを見る。
「そんな人を追い詰める者たちを、わたしは許せません。どうか、力を貸してください」
メリルは頭を下げた。ロジェも深々と頭を下げる。
メリルの言葉には熱がこもっていた。
(……あぁ、この人も、きれいな涙を流す人だ)
マリー公爵令嬢のことが気になっていたが、メリルのような人がそばにいたのなら、彼女は闇に覆われていないのかもしれない。
(今日、彼女に会えたのは、動けという導きなのかもしれないな……)
ウィリアムは神の采配に感謝をしつつ、メリルに答えた。
「時間をください。マリー嬢の力になりましょう」
その一言にメリルはパッと顔をあげる。
「ありっ……ありがとうございます!」
泣きそうになりながらも、メリルは笑顔になった。
ウィリアムはメリルに一筆したためた手紙を渡すと、すぐ行動に移った。
――手紙をマリー様に届けます
すぐに行動したメリルたちにあてられたのかもしれない。いや、すぐにマリー公爵令嬢の元に駆けつけたい思いが強かったのだ。
ウィリアムは母と兄に先触れをだすと、会えたふたりに対して宣言した。
「私の王位継承権を破棄してください」
突然の宣言に王太子アルベルトは仰天した。
「王位継承権を放棄するなど、何を言っているんだ……」
「前々から考えていたことです。私は政には向いていない。文化や技術の発展の方に関心があるのです」
「それは充分、承知している。だから、内政の特に技術者の発展を任せているんじゃないか」
「そうですね……女王陛下と、王太子殿下には感謝しております。でも、廃嫡してください」
「なぜだ!」
「兄上を始め、下に王子がいます。兄上は成婚され、三人の息子に恵まれていらっしゃいます。私が一人抜けても、トリアは安泰です」
「そんなことを聞いているのではない! 男がいても、お前は一人しかいないだろう! まるで今生の別れのようなことを言うな! さみしいだろう!」
王太子アルベルトはウィリアムの肩を掴む。
「リベラルの令嬢のことを気にしているのか?……まさか、お前――リベラルに行く気か」
「はい」
「ならん! あの国はお前を不貞者扱いしているんだぞ! そんな国に可愛いお前を行かせられるか!」
王太子アルベルトは喚くが、ウィリアムの意志は変わらない。微笑みで兄を威圧する。
静かに見守っていた女帝は、澄んだ声で尋ねた。
「ウィリアム……リベラルに行って、何をするつもりなの? マリー公爵令嬢の裁判の証人に立つの?」
「……女王陛下はお見通しですか」
「ノアから報告を受けています。リベラルの者と会ったそうね」
ウィリアムは護衛のノアをちらりと見る。ノアは元々、女帝が選んだ護衛だ。自分の行動が筒抜けなのは気にならなかった。
「私はマリー嬢を助けたいのです。ひとり、静かに泣く人を……放っておけません。しかし、私が今の立場で行けば、トリアとリベラルの関係が悪くなるでしょう。だから、市民になって行きたいのです」
「なぜだ!」
王太子アルベルトは吠える。
「おまえとマリー公爵令嬢が会ったのは、たった一日じゃないか! 手紙のやり取りはしていたみたいだが、そこまで入れ込む相手ではないだろう……」
ウィリアムは微笑した。
「……自分でも不思議なんです。でも、マリー嬢の微笑みが、涙が忘れられないのです……」
王太子アルベルトの言うとおり、ウィリアムとマリー公爵令嬢が直接、会ったのは、たった一日だけだ。
ガブリエル王太子の代理としてマリー公爵令嬢は熱心に技術者のことを見ていた。自分が好きなものを微笑みながら見つめるマリー公爵令嬢に好感を抱いたものだ。
案内を終えて、マリー公爵令嬢が滞在先に帰るとき、ウィリアムは挨拶として彼女の指先にキスをした。
マリー公爵令嬢はひどく狼狽して、手を引っ込めた。
――無作法を……申し訳ありません……久しぶりに挨拶をされて……驚いてしまい……
そう言って、はらりと涙を流した。慌てて帰る彼女の後ろ姿を呆然と見送った。
後に手紙で、大切な亡き友人が爪先にキスを落としていたので、それ思い出してしまった、と謝罪の言葉と共に綴られていた。
あの涙は、誰かを思って流したもの。
だから、綺麗で、胸に残った。
マリー公爵令嬢のことが忘れられず、のらりくらりと婚約話を避けてしまったぐらいだ。
「マリー嬢がまた泣いているのかと思うと、何を捨てても駆けつけたい気持ちでいます」
ウィリアムは膝を折り、ふたりに頭をさげた。
「女王陛下、王太子殿下。私の王位継承権放棄をお許しください」
「ウィリアム……」
王太子アルベルトが呆然とする中、女帝は「それは、まだ早いわよ」と声をだした。
頭を下げたウィリアムが顔をあげる。
女帝は紙とペンを執務室の机から取り出すと、一筆したため、捺印した。
「アルベルト、あなたも署名しなさい」
王太子は文章を確認すると、迷わず署名した。
女帝は手紙を封蝋すると、ウィリアムに手渡した。
「リベラルへ行きなさい。この手紙を持って」
女帝は愛しそうにウィリアムを見つめた。
「家族を守れず、国を守れるものですか。
――ウィリアム、あなたの後ろには、わたくしと、トリアがいます。不正は正し、堂々と証言していらっしゃい。あなたならできるわ」
母の言葉を受け、ウィリアムは大きくうなずいた。




