19.恋人らしいことをしたい
モニークはボネ夫人の援助を受けて、お店を再び始めることになった。ボネ夫人以外にも、モニークを支援したいという人は現れている。
都市の一等地に、店を出すのは、それだけで莫大な資金が必要だ。
メリルはほっと安堵の息を吐き出し、一足先に、ロジェと家に帰ることにした。
帰路をゆく乗り合い馬車に揺られている中、メリルもロジェも無言だった。
メリルはロジェを意識してしまい顔が見れずにいた。
ロジェはロジェで、ちょっと見ただけで、ぐりんと顔をそむけるメリルににやけていた。
メリルの耳は赤くなっていて、恥ずかしがっているのが手にとるようにわかったからだ。
意識されている、というだけで浮かれてしまう。
一方、ロジェが近くにいるだけで、メリルは居心地が悪く、そわそわしていた。
(うっ……沈黙が重い……っ)
息苦しくて、鼓動は早まるばかりで、手汗まで出てきた。これからずっと、こんな調子なのだろうか。
(耐えられそうにないわ……)
ちらりと横目でロジェを見ると、彼はメリルをみていなかった。
馬車の窓の景色を見ていて、瞳には厳しさがある。辺りを警戒しているみたいだ。
しばらく見ていると、ロジェがこちらを見た。
鋭かった視線が、ふにゃんと蕩け、口元には笑みが浮かびだす。
「ん? どうした?」
声が甘かった。
口の中でほどけるショコラみたいな余韻を残す声だった。
何気ない会話のはずなのに、もうそれだけでロジェが自分のことを好きだということが、ハッキリ分かってしまった。
(……本当にロジェはわたしのこと……)
嬉しいか、嬉しくないかと問われたら、嬉しいの方に天秤が傾く。
メリルはロジェから視線をそらし、ぽつりと呟くように言った。
「……ロジェって、いつから……その……わたしのことを気にしていたの……?」
振り返るとそんな素振りがあったような。なかったような気がする。
ロジェが聞いたら、月夜に向かって吼えそうな感想をメリルは彼に抱えていた。
ロジェは急にしおらしくなったメリルに動揺していた。余裕の笑みは、あっけなく崩れ去り、頬に熱が帯びる。
「……いつからって……そりゃあ、最初から?」
「え? 最初?」
「だから、出会ったときだよ。ほら、カフェでメリルはデッサンを描いていただろ? その頃からだ」
メリルは絶句した。
「嘘っ! だって、あのとき、ナンパしたんでしょ?! 誰でもよかったんじゃないの?!」
メリルの言葉に、ロジェはカチンときた。
「……誰でもって……そんなわけあるかッ! メリルが綺麗だと思ったからナンパしたんだよ!」
「えっ……嘘……」
「嘘じゃない。俺は言っただろ? 『君のような美しい人に出会えるなんて、今日は人生最良の日だ。』って!」
「それって、軟派男の常套句じゃない!」
「はぁああ? なんだよ、それ。そんなにナンパされていたのか?」
「……ロジェが初めてだけど……」
「そうか、そうか。安心した。で、なんで、常套句だと思ったんだ?」
「……ロジェみたいな顔の綺麗な人が、わたしのことを口説くなんて、信じられなかったんだもの……」
メリルが本音をこぼすと、ロジェは照れて、むすっとした顔になった。大きなため息を吐き出して、呟くように言う。
「メリルを好きになった時なんて、覚えてねえよ。気づいたら、好きになっていたんだ」
その言葉はメリルの中に、すとんと落ちた。
(……気がついたら、好きになっていた……? それで、いいの?)
ポカンとしたまま、メリルはロジェを見る。ロジェはふいっとそっぽを向いた。
そのまま二人は無言で馬車に乗っていた。
(えっ……無言?! 返事は?! ちょっと! ちょっと、ちょっと! 続きを聞かせてよ!?)
息を殺して聞き耳を立てていた馬車の乗客、御者は、ハラハラした。
*
馬車の中を無言で過ごし、メリルは家に戻ると、針子やガストンたちに誕生会の成功を伝えた。
「きっと、また生地の受注がくるわ。忙しくなるわよ」
「「「ふぉおおおおお! きたあぁぁあ!」」」
メリルの一言に針子たちは大興奮だ。ガストンは赤い鼻をすすって、うんうんと頷いていた。
「みんな、お疲れ様。今日は、たくさん休んでね。はい、お土産」
メリルはボネ夫人の誕生会でふるまわれたワインをみんなに配った。
「「「高級ワイン! きたあぁぁあ!」」」
「こりゃ、上等な酒ですなあ」
「美味しいわよ。家で飲んでね」
「「「はーーーい!!!」」」
メリルは他の従業員に労いの言葉をかけながら、ワインを配る。
すべてを終えると、家に戻った。
賑やかだった空気がいっぺんして、落ち着いたものになる。
メリルは小さく息をついて、ぽつりと呟いた。
「なんだか、家が久しぶりね……」
「ん? あぁ……ここ二ヶ月、工場に行ってて戻ってこれなかったからな。うわっ、キッチンにホコリがたまっている」
ロジェはぶつぶつ言いながら、戸棚を開いて掃除道具をだす。
「わたしも、やるわ」
メリルも手伝い、ふたりで無言で掃除をした。
「ロジェ、雑巾、絞るわ。汚れたのかして」
「はい。あ、茶でも飲むか。それともコーヒーにする?」
「んー、コーヒーかな」
「コーヒーか。豆、豆、豆っと」
ロジェが用意している間に、メリルは外に出て、近くのから水を汲み、桶に入れる。桶の中で、雑巾を洗い終わると、ロジェがテーブルの上でコーヒー豆を挽いていた。コーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。
「いい香りね……」
「そうだなあ。コーヒー豆を挽く音って、なんかいいよな」
「そうね……」
メリルはコップやポットを用意しながら、ロジェを覗き見た。
ロジェはご機嫌で豆を挽いている。
その光景は、見慣れたもので、しっくり馴染むもの。空気のように当たり前のことだった。
(あぁ、そうなのね……)
ポットでお湯が沸き、フィルターのかけられたカップにコーヒー豆がいれられる。カップにお湯を注ぐと、ほろ苦い香りが立ち上った。
メリルは目の前の光景を見て、納得した。
(いつ、好きになったとか、どうでもいい。それよりも大事なのは――)
「ほい。コーヒーできたぞ」
ロジェがカップを渡してくれる。それを受けとりながら、メリルは微笑んだ。
「ありがとう。ロジェ。わたしも、ロジェが好きよ」
「あー、はいはい。友達としての、好きだろ?」
ロジェは苦笑いしながら、カップに口をつける。
メリルは唇を尖らせた。
「恋の好きに決まっているでしょ」
「ぶっっ!! ――うおっ! あっち!」
ロジェは思いもよらない返事に、コーヒーを吹いた。激熱のコーヒーを口に含みすぎて、舌を火傷する。
メリルは淡々とコーヒーを飲んだ。
「コーヒー、美味しいわね」
「美味しいじゃねえ! い、今のどういうことだ!」
「え? 言った通りよ?」
なにか?みたいな顔をされて、ロジェは絶句する。
(これは……新手の詐欺か……?)
信じられなくてロジェはまじまじとメリルを見た。こういうところは、この二人、そっくりである。
「メリルが、俺を、好き?」
「そうよ」
「えっ……嘘」
「嘘じゃないわよ」
「いやいや、待て待て。俺はまだ信じねえぞ」
「なんでよ」
ひどい言いぐさにメリルが顔をしかめる。
ロジェは開き直った。
「メリルが俺を好きだと言うなら、証拠がほしい」
「な、なによ。証拠って……」
メリルがたじろぐと、ロジェはキリリと表情をひきしめる。
「キス、させろ」
「なっ……!」
メリルは顔を真っ赤にして、椅子から立ち上がった。
「キスって……!」
「濃厚なキスさせろって言うより、ましだろ?」
腕組みをしてふんぞり返るロジェに、メリルは目を据わらせた。
「……開き直らないでよ」
「俺は恋人らしいことをしたいんだ。わかれって」
ぶすっとしたロジェの顔には照れが見えた。
「メリルが俺を好きなんて、そんなこと言われたら……浮かれるだろ?」
その一言に、メリルは口を引き結んだ。
(そんなこと言われたら、断れないじゃない……)
メリルはテーブルから身を乗り出して、ロジェに顔を近づけた。
目をぱちぱちとまばたきするロジェの唇に軽いキスをする。
メリルが遠ざかると、ロジェはあんぐりと口を開いた。
メリルはむすっとしながらも、席に戻る。
カップを手で持って、ロジェを見ずに言う。
「……濃厚なのは、……また今度ね……」
その一言、メリルの態度を見て、ロジェは衝撃を受けて目を点にした。
「あ、……はい……期待……して、ます……」
「…………そう」
「…………うん……」
ふたりは無言でコーヒーを飲み続けた。
砂糖は入っていないはずのに、ふたりが飲んだコーヒーはやたらと甘かった。
その日から、メリルとロジェは友人ではなく、恋人となったのだった。




