第十章 喰らうモノ(七)
『ガアゥゥアアアアッ! グゴルゥオオオアアア!?』
魔人の口から放たれる苦悶の咆哮。鼓膜が破れるかとおもうほどの大音声がテオの耳朶を激しく震わせる。
魔人に痛撃を与えたことを確信したテオは、剣を逆手に持った体勢のまま、ここを先途と剣を押し込んでいく。
魔剣に腹を貫かれたフッキは、はじめこそなんとかその場に踏みとどまったものの、すぐにこらえきれなくなり、一歩、二歩と後ずさった。
ずぶずぶと魔人の身体にめり込んでいく緋の刀身。
柄にはめこまれた可能石を源として顕現している黒炎が、刀身を伝って身体の内側から魔人を激しく責め立てる。
傷口を魔力の猛火であぶられた姫巫女の口から、たまりかねたように再度の咆哮が轟いた。複数の割れ鐘を同時に乱打したかのごとき叫び声は、もはや人のそれではなく、苦悶する竜の叫喚そのものだ。
と、フッキの身体を覆っていた魔力の黒炎が音もなくかき消えた。
防御障壁の消失は、魔人の重要な器官が傷ついた証拠である。
魔人の心臓、可能石。シルル教皇いわく、無限の魔力の源。
これを破壊すれば魔人は力の源を失う。逆に言えば、可能石を打ち壊さないかぎり、魔人は何度でも復活するということだ。白精樹で勇者に身体を断ち割られ、戦神の槍の直撃をうけた魔人が今なお生きているように。
フッキ相手に同じことを繰り返すわけにはいかない。
障壁が消えた今こそ好機。もう一度魔人の身体に大穴を穿ち、完全に可能石を砕いてやる――テオは決意を固めて身体を翻し、フッキと正面から向かい合った。
すると。
『が、ああ、ごおおあああアアアアッ!!』
意味をなさない怒号を放ちながら、フッキが血走った目でテオを睨みつけてきた。魔人の手の中で偃月刀がひるがえり、テオの胸めがけて切っ先を突き下ろしてくる。
とっさに剣を引き抜こうとしたテオだったが、すでに刀身は根元近くまで突き刺さっており、即座に引き抜くのは困難だった。
ここで得物にこだわれば、代償として身体から刃を生やす羽目になるだろう――それこそ目の前の魔人のように。
そう見て取ったテオは、回避を優先して柄から手を離した。
突き下ろされた刃は空を斬る。
が、フッキの攻撃はそれだけでは終わらなかった。軋るような吠え声をあげながら偃月刀を振り上げ、振り下ろし、テオめがけて立て続けに斬り込んでくる。
風を巻いて宙を裂く斬撃は、とても腹に魔剣を生やした者の攻撃とは思えない。たやすく人を両断できる威力を秘めた剣閃が縦横無尽にひらめき、暴風のごとく荒れ狂う。
恐るべき魔人の猛撃であったが、身体に刺さった魔剣のせいで足運びは定まっておらず、斬撃の鋭さに比して攻撃範囲は狭かった。
魔剣を失って素手になったテオは、慎重に彼我の間合いをはかりながら攻撃をかわしていく。
このとき、テオの脳裏に逃亡という選択肢があらわれた。
傷の影響か、魔人が空間転移をしてくる様子はなく、今ならば九郎を連れて逃げ出すのは難しいことではないと気づいたのである。
しかし、テオはみずからその選択肢を切り捨てた。
可能石を完全に砕かないかぎり、魔人は必ず再生する。ここでフッキを討ち漏らせば元の木阿弥――いや、それよりもはるかに悪かった。
確かに、いま逃げ出せば一時的に命を拾うことはできるだろう。
だが、それだけだ。
フッキが自分を追い詰めたテオたちを放っておくはずはなく、傷が癒えれば確実に再戦を挑んでくる。こちらの切り札を知ったフッキを相手どって、今以上に有利な戦局をつくれるはずがなかった。
敵も見ずに放った一か八かの攻撃が、正確に急所をえぐって致命的一撃となった。
魔人相手にこんな好機は二度と来ない。
こいつはここで討ち果たす。その決意を込めて、テオは三度魔剣の銘を口にした。
「月喰!」
三度目の召喚。魔人の腹を喰い裂いていた魔剣がテオの手元に舞い戻る。
持ち手に忠実な剣を手に、テオは猛然とフッキに斬りかかった。
対するフッキも、真っ赤に充血した双眸に怒気をみなぎらせて迎え撃つ。
「殺!!」
『ジュィヤアアッ!!』
人間と魔人、双方の裂帛の気合が地下の空間を震わせる。
魔剣と偃月刀が正面から激突した瞬間、柄を通してテオの手に強烈きわまりない衝撃が伝わってきた。
フッキの攻撃は技も何もない力任せのものであったが、そこに魔人の剛力と神鋼の鋭利さが加わることで、冴えない斬撃はたちまち必殺の刃と化す。
持っている武器が月喰でなければ、武器ごと腕を両断されていたに違いない。
だが、テオは魔人の剛撃に耐え切った。避けることも、受け流すこともせず、正面から受けとめて弾き返したのである。
渾身の一刀を防がれ、体勢を崩すフッキ。
テオは両の目をカッと見開き、お返しとばかりに続けざまに斬撃を叩きつけた。
右、左、右と見せかけて左。フェイントをからめた三連撃はすべてフッキに防がれてしまったが、月喰の刃には偃月刀を弾き飛ばさんばかりの威力が込められており、攻撃を受けとめたフッキの眉が意外そうに歪んだ。
が、それも一瞬のこと。魔人は口角をつりあげ、すぐさま次撃を繰り出してきた。
テオは気合をあげてその攻撃を受けとめ、押し返し、こちらもさらなる反撃を叩き込む。
耳が焼け焦げるような甲高い金属音。神鋼と神鋼がぶつかりあい、宙空に激しい火花を散らして、ほの暗い地下空間をまばゆく照らし出していく。
交錯する剣撃の残響はいつまでもやまず、伯仲する斬り合いは互角の形勢で推移した。
十合、二十合、三十合。
刀身がぶつかり合う回数が増える都度、洞穴の熱気は高まり、戦う者の心身を激しくあぶっていく。
いつ果てるとも知れない斬撃の応酬。
一閃一閃に命を賭した攻防の連鎖。
終局の予測を許さない激闘に対し、はじめに音をあげるのはテオであるはずだった。
溶岩が流れる洞穴の中は強い熱気が充満しており、ただ立っているだけで消耗を余儀なくされる。そんな場所で、魔人の転移を気にかけながら激しい斬りあいを演じていれば、体力の消耗も去ることながら、集中力の持続がきわめて難しい。
先に偃月刀と魔法でこうむった傷も完治したわけではない。滴る汗が目に入っただけでも致命的な隙を生んでしまうだろう。手汗で剣がすっぽぬける、なんてことも十分に起こり得る。
魔剣を持っていようともテオは人間で、一方、今に至っても汗ひとつ掻いていないフッキは間違いなく人外の化生である。長時間の戦闘がいずれにとって有利であり、いずれにとって不利であるかは言をまたないはずだった。
しかし。
「ガアアアアアアアアッ!!」
雄叫びをあげて斬りかかるテオの顔に疲労の色はかけらもない。両の目は活力に満ちて爛々と輝き、精気を帯びた表情は諦観の対極に位置している。
魔人に向けた剣撃は時を追うごとに速く、鋭くなっていき、偃月刀の猛威をしのいで敵の身体に新たな傷を刻み込む。
今もまた、フッキの頬を魔剣の切っ先がかすめ、白皙の肌に赤い線を浮かび上がらせた。
誰の目にも明らかなほどにテオ・レーベは躍動していた。
天敵たる魔人を前にしても一歩も退くことなく、それどころか自分から踏み出し、押し込み、負傷を強いていく。
その勇猛果敢な戦いぶりからは、魔人を相手どった者が不可避的に感じる畏怖も恐懼も感じられない。今のテオから感じられるのは、絶対に魔人を討ち果たすという激しくも明確な意志のみであり、その意志はどれだけ時間が経とうとも決して翳ることがなかった。
それは異様な光景だった。
人間と魔人が互角に戦う、その異常。
月喰の力をもってすれば、そしてフッキの負傷を考慮すれば、なるほど、一時的に魔人と斬り合うことは可能かもしれない。
だが月喰の力とは、結局のところ、柄にはめ込まれた可能石の力、すなわち魔人の力である。ただの人間が、第五層に匹敵し得る魔力を受けて正気を保っていられるはずがない。
そのはずなのに、テオは厳然としてフッキの前に立ち続けている。
フッキは眼前の人間がベアトリスの眷属であると判断していたが、たとえ魔人の眷属であっても、無限の魔力を引き出せばいずれ必ず精神を喰い尽くされる。
可能石はそれだけの力を秘めており、だからこそ魔人は無敵たりえるのである。
魔人に抗し得るのは魔人のみ。それはフッキにとって千古の鉄則。
では、その鉄則を破らんとする敵とはいったい何者なのか。
繰り返すが、フッキはテオのことをベアトリスの眷属と判断していた。だからこそ月喰の銘と、力を引き出す術を知っているのだろう、と。
魔人を前にしながら畏怖の頚木を免れている理由も、それで説明がつけられる。
だが、ここにきてフッキは自らの判断に疑問を抱き始めていた。
疑問を抱いた理由は単純である。
もし、テオがベアトリスの眷属であるとすれば、あの吸血種の狙いは同族を討ち滅ぼした竜種への復讐であろう。人間を隠れ蓑にして、竜王ジウの腹心であるフッキを滅ぼそうと企んだわけだ。
フッキにとっては忌々しいことに、この企みは奏功した。いかなフッキといえど、今この場に敵対する魔人が現れればただでは済まない。
そう、ただでは済まないのだ。
だから、もしフッキの推測どおりテオが眷属ならば、とうにベアトリスが姿をあらわしていなければおかしいのである。フッキを討つ好機を前にして、逡巡するようなベアトリスではないだろう。
だが、銀髪の魔人は姿を見せない。その気配さえない。
それはつまり、テオがベアトリスの眷属であるという推測が外れていることを意味する。
眼前の敵は眷属でも何でもない、ただの人間。そのただの人間が、魔剣の力をこれ以上ないほどに引き出し、フッキと互角以上に戦っている。
その異様が。
その異常が。
フッキの心に、これまでにない警戒の念を湧き上がらせた。
まずい。この人間はここで仕留めておかないとまずい。
今でも十分に不気味な存在だが、このまま放置しておけば、さらに大きく、さらに脅威になっていくだろう。そんな確信がフッキの胸奥を揺さぶった。
それは魔人フッキが、テオを『敵』として認めた瞬間だった。
なぶるための玩具でもなければ、不快なだけの邪魔者でもない。明確に排除すべき敵として眼前の相手を認識したフッキの口から、猛々しい気合の声がほとばしった。
『ガアアアアアアアッ!!』
ひときわ強烈な斬撃がテオに叩きつけられる。
テオは反射的にその攻撃を受けとめたが、これまでにない猛撃の勢いを完全に殺すことができず、わずかに体勢を崩してしまう。
次の攻撃は、なんとフッキの足だった。衣のすそをひるがえし、あられもないくらいに白い肌をさらしながら、フッキが槍のような中段蹴りを放ってくる。
この攻撃はテオの予測を外したようで、防御の反応が遅れた。魔人のつま先が吸い込まれるようにテオの胸元にもぐりこむ。
つま先は胸の中央ではなく、右肩の付け根を捉えた。急所とは言いがたい箇所だったが、魔人は委細かまわず力の限りテオを蹴り飛ばした。硬いものが砕ける音が小さく響く。
悲鳴をあげる暇さえない。たまらず吹き飛ばされたテオの身体が、鞠のように宙を飛ぶ。
一瞬の後、テオの身体は祭壇の壁面に叩きつけられていた。
「グッ!?」
テオの口から、こらえかねたようにくぐもった声が漏れる。
その手はいまだ魔剣を握り続けていたが、柄を握っているのは左手のみであり、右腕はだらりと力なく垂れ下がっている。
斬られた痛みに耐えることはできても、砕かれた関節を治すことはできない。右肩を砕かれたテオは片腕のみで魔人と対峙しなければならなくなった。
むろん、フッキがこの好機を逃すわけはない。
素早く敵との距離を詰めると、大上段から偃月刀を振り下ろした。背後の岩壁ごと人体を両断する剛武の一撃。
テオはとっさに魔剣を掲げてこれを受けとめたが、これまでは両手で扱っていた武器を、今は片手で扱わねばならない。フッキの剛力に耐えられず、じりじりと上から押し込まれていく。
「ぐ、く……ッ」
押し殺した声をあげながら偃月刀を遠ざけようとするテオ。
フッキはそんなテオを、寒月のごとく冷たく冴え渡った眼差しで見下ろした。その口からしばらくぶりに人語が発される。
「見事、と言うておくぞえ、人間。あの世とやらでシルルに誇るがよい。妾の身体に傷をつけたそちには、その資格があろうよ」
それは第五層の魔人が数百年ぶりに人間を称賛した言葉であったが、むろんのこと、テオはそれを知る由もない。仮に知っていたとしても、たいしてありがたくもなかったであろう。
フッキの声に応じず、無言で魔人の力にあらがい続けるテオ。
先刻までのフッキなら、あくまで屈するまいとするテオの姿を見て、さらに嘲弄の一つ二つ叩きつけたかもしれない。
が、今のフッキは眼前の相手を斬ることのみに注力している。慢心はない。油断はない。傷ついた可能石の疼きさえ今は遠い。
ただただ冷静に敵を仕留めにかかるフッキの姿は、たしかに魔人たるの威に満ちており、負傷したテオが付け込む隙はどこにも見出せない。
全身を押しつぶさんばかりの重圧がテオを押し包んでいく。魔人の両眼が恒星のように輝き、偃月刀の刃がテオの肩口に達した。
少しずつ、しかし確実に己の身体にめり込んでいく凶刃。
並の人間ならば、恐怖なり絶望なりを覚えたに違いない。少なくとも、これまでのフッキの経験ではそうだった。
だが、ここにおいてなお、テオの顔に絶望が浮かぶことはなかった。むしろ、わずかに口角をあげた表情は、絶望とはまったく正反対の感情を表しているように思えてならなかった。
今しも斬り捨てられようとしているのに、どうしてここまで平然としていられるのか。
その疑念がフッキの眉間にしわをつくった、まさにその瞬間だった。
フッキの背後で、軽やかに地を蹴る音がする。
その直後。
斬、と剣風が舞った。
フッキの背が斜めに斬り裂かれる。左肩から右腰にかけて、深々と。
それは、あまりにも完璧な背後からの奇襲だった。
『――――――――ガ?』
フッキの顔がゆっくりと、ゆっくりと後ろを向く。
どこか呆然とした表情は、この魔人が生まれてはじめて浮かべる種類のものだった。
驚愕で染まったフッキの視界に映ったのは、聖剣火輪をふりぬいた斑鳩九郎の姿。
テオを敵と見定めた瞬間から、フッキはテオのみを注視しており、背後から忍び寄る存在にまったく気が付いていなかった。
もっといえば。
そもそも、フッキは事のはじめから九郎に対していかなる注意も払っていなかった。
魔人にとって九郎はエサ――敵対する戦士たちをおびき出すための撒き餌以上の価値を持たない。
フッキの好みは硬く筋張った男の肉であり、歯ごたえのある「それ」を悲鳴と共に噛み砕くのが最高の快楽であって、柔らかい女の肉に興味は薄い。
したがって、エサの役割を終えた九郎に注意を払わなかったのは、フッキにとって当然のことに過ぎなかった。
実際、注意を向ける価値もなかっただろう。
今の九郎は虜囚から解放された直後、しかも魔人の影響下にあるため、常の実力の半分も出せない。聖剣を持っているとはいえ、正面から魔人と対峙すれば、一太刀で斬って捨てられる程度の存在でしかなかった。
それこそ、フッキが何かに気を取られ、隙だらけの背中をさらすような状況に陥らないかぎり、九郎が有効な攻撃を放つことは難しかったはずだ。
テオとフッキの戦いの最中、そんな機会が偶然にも転がり込んできたのは、九郎にとっては稀有の幸運、フッキにとってはありえざる不幸だった――
――本当に?
そも、どうして九郎の手に火輪が握られているのか。
これまでフッキは月喰の存在に気を取られ、火輪のことを放念していたが、テオは祭壇の縁にぶら下がったときに火輪を手放している。当然、火輪は祭壇の壁面近くに落ちたはず。薄暗い地下空間で、黄金色に輝く聖剣を見逃したとは思えない。まして、それを拾う九郎の姿に気づかなかった、というのはいくらなんでもありえない。
であれば結論はひとつ。
火輪は先に落下したテオの手によって、フッキの目に届かず、それでいて祭壇から降りてきた九郎の目につく――そんな場所に放り投げられたのだろう。
月喰という切り札を切ったテオにとって、火輪は不可欠のものではない。
一方、魔人を攻撃する手段を持たない九郎にとって、聖剣は不可欠のものである。
つまるところ、あの時点からテオは九郎の参戦を計算に入れていた、ということだ。運不運など関係ない。九郎の存在は、テオにとって魔剣に代わる切り札だった。そして今、その切り札によって致命的な斬撃を浴びせられたフッキは、結果的に敵の掌の上で踊ってしまったということであり…………
そこまで考えたフッキの身体に鈍い衝撃が走る。続けざまに二度。
一度目は偃月刀を持った両腕が月喰によって断ち切られた衝撃だった。
テオの斬撃は、腰を落とした体勢のまま放った力のないものであったが、月喰は異様なまでの切れ味を発揮して、あっさりと魔人の両腕を断ち切った。
偃月刀を握った両手がどさりと地面に落ちる。
二度目の衝撃は、月喰の切っ先がフッキの胸に刺しこまれた際のものだった。
魔人の両腕を切り落としたテオは、そのまま剣先をひるがえし、己の得物をフッキの胸に突きたてたのである。
硬く冷たいものが身体の中にもぐりこんでくる感覚。つい先刻、味わったばかりの不快きわまりない感覚を、フッキはまたしても味わうことになった。
先の一撃との違いは、貫かれた場所が先刻よりもわずかに上――可能石がある位置だったということ。魔剣の切っ先は、フッキの体内にある赤い石をたやすく貫き、そのまま背中へと抜け出ていく。
直後、身震いするほどの悪寒がフッキを襲う。
その悪寒は、一拍の間をおいて、灼熱の激痛に変じた。
……どこか遠くから、何者かの放った叫喚が聞こえてくる。
みっともないほどに苦痛を訴えるその咆哮が、己自身のものであると気づいたとき、フッキの視界が真っ赤に染まった。
真紅に染まった世界で、魔人はテオと対峙する。望めば唇を触れ合わせることさえ可能な至近距離から相手の両眼を覗き込んだフッキは、そこに無視しえないモノを見出して息をのんだ。
遠い遠い昔、確かに見たことのある光。
とるにたらない人間の身で、フッキさえ手が届かなかった領域に到達した者が宿していた不屈の意志。
それが今、フッキの眼前にある――
「…………不覚。シルルの輩であったか」
かすれた声でそう呟くや、フッキの姿が宙に掻き消えた。
空間転移。戦うためではなく、逃げるために、魔人は残った力を振り絞って宙に溶ける。
ほぼ同時に、テオも力尽きたように地面に倒れ伏した。意識を失う寸前、テオの視界に映ったのは、やせこけた顔で慌てて駆け寄ってくる九郎の姿だった。
◆◆
霊山、翠微宮。
洞穴から空間を渡って自室に戻ったフッキは、力尽きたように床に倒れこみ、口から大量の血を吐きだした。
「が、はァッ! ぐ、ぶ……ッ……ごはァッ!!」
一度だけでなく、二度、三度。
聖剣と魔剣によって、かわるがわる斬りたてられた身体はボロボロであり、体内にある可能石さえ砕かれている。
そんな状態で無理やり空間を渡ったのだ。端的にいって、今のフッキは瀕死の状態だった。
「……ぐ、く……おの、れ……」
人間ごときに、と罵れば、その人間にしてやられた己を卑しめることになる。
フッキは罵詈を飲み下して口を開いた。
「誰ぞあるッ!?」
大声で配下を呼びたてる。フッキが眷属として従えている竜種の数は二十。その大部分は開陽の王宮に差し向けているが、ここ翠微宮にも少数の配下を残しておいた。
だから、すぐにも配下がやってくるとフッキは考えていたのだが、どうしたことか、いつまで経っても眷属が現れる気配がない。
「誰ぞ、おらぬのかえッ!?」
再度の呼びかけにも反応がない。
フッキは苛立たしさと訝しさに顔を歪めたが、幾度目かの吐血が疑問の持続を許さなかった。
吐血が収まった後、フッキは立ち上がろうとしたものの、両腕を失ったせいでただ立つことさえ思うにまかせない。
苛立たしげに舌打ちをこぼしたとき、音をたてて部屋の襖が開かれた。
ようやく配下が駆けつけてきたのだろうと考えたフッキは、叱責をくわえようと顔をあげ――そこに予期せぬ顔を見出して、驚きの声をあげた。
「そち……ユーベルではないかえ」
その言葉どおり、そこに立っていたのは第三層の魔人ユーベルだった。
あいもかわらずオウガの姿に扮したゴブリンの魔人は、口許に嘲笑をたたえて上位者であるフッキを見下ろしている。
「これはこれは、いとたかき第五層様におかれましてはご機嫌うるわしゅう」
丁寧な物言いはいかにもわざとらしく、慇懃無礼という言葉がそのままあてはまる。
フッキは苦痛を上回る不快をおぼえて眉間に深いしわを刻んだ。
「妾の放った、追っ手から……逃げまわるのに、汲々としておった下郎、が……今さら何用じゃ?」
「なあに、俺の無様を大笑いした御身が、人間ごときを相手に手ひどく痛めつけられたと聞きましてね。しかも、こともあろうに可能石を砕かれたとか。真実だとすれば失態も失態、大失態です。一刻もはやく事の真偽を確かめるべく、こうして馳せ参じた次第――く、くく」
言葉の途中、ユーベルの唇が耐えかねたようにぴくぴくと震え、小さな笑いがこぼれおちる。
しばしの間、ユーベルはなんとか笑いを抑えようと努力したが、やがて諦めたように哄笑を発した。
「――くく、く……くあっはっはっは! アッハハハハハァ!! ああ、もうたえらんねえ、限界だ! おもしれえ、面白すぎるぞ、フッキ! あれだけ俺をクソミソにけなしておいて、なんだその様はぁッ!? 『ここまで無様を晒した魔人を見るのは初めてじゃ』? いやいや、さすがの俺も今のてめえにゃ到底およばねえよ! 俺は第三層、お前は第五層! 俺のときは敵に戦神がいたが、お前の敵は人間だけだった! それでこれか!? それでこの様か!! 竜王様が知ったら激怒じゃすまねえぞ、魔人の恥さらしがッ!!」
言うや、ユーベルは倒れたフッキの身体を無造作に蹴り上げた。
軽く、ではない。骨も砕けよとばかりの全力の一撃だ。憔悴しきった今のフッキにこれをかわす術はなく、フッキの身体は襖をつきやぶって、中庭にまで転がっていった。
「…………が……ぐ」
けふ、とフッキの口から少量の血が吐かれ、中庭の白砂を汚す。
と、ここでフッキは、中庭に倒れているのが自分だけではないことに気がついた。
やや離れたところに巫女がうつ伏せになって倒れている。その背には無数の針が突き立っており、白い衣を暗赤色に染めていた。
こうしている今も血は広がり続けており、絶命してから、まださして時が経っていないことがうかがえる。
「…………ユーベル、きさま……ッ」
状況を理解したフッキが、かたわらに歩み寄ってきたユーベルに刺すような視線を向ける。
ユーベルはこれを鼻で笑った。
「あん? 手下のことを気にかけている暇が、てめえにあるのか――よッ!」
最後の言葉と共に、ユーベルは倒れたフッキの身体を力任せに踏みにじった。
「があああああッ!?」
「痛えか? 痛えよな! ほら、もっと叫べ、もっと苦しめ! 偉大なる竜の魔人さまが、ゴブリンごときに足蹴にされてんだぜ。あのとき、俺を笑いものにしたお前ら竜種が、そのゴブリンに一網打尽にされそうになってんだよ! 嫌だろ? 恥だろ? 屈辱だろ? なら、もっともっとわめいてみせろ! 死にたくねえって叫んでみせろ! そうすりゃ俺の気も変わるかもしれねえぜえッ!!」
何度も、何度も、繰り返しユーベルの足が振り下ろされる。これまでの鬱屈を晴らすかのように執拗に。
「キヒヒヒ、キャッハハハハッ!! 思い知ったか、トカゲの分際で俺をバカにしやがって! 報いだ、報いだ、報いなんだよ、この、この、このこのこのコノコノコノコノッ!!!!」
甲高い笑い声をあげながら、ユーベルはフッキをいたぶり続ける。肉を潰し、骨を砕き、臓腑を磨り潰す音が混ざり合って翠微宮に木霊する。
それは蹴りつける回数が百を越えるまで延々とつづいた。
――すべてが終わった後、フッキはもはや声を発することもできず、屠殺されている最中の家畜のような姿で中庭に横たわっていた。顎を砕かれて歪んだ口から、ひゅーひゅーと喘鳴じみた息がこぼれている。
ユーベルはそんなフッキの身体に足をかけて仰向けに転がすと、苦悶するフッキの胸元、両の乳房の中ほどに手を押し当て――
「ぬんッ!!」
そのまま力任せに腕を突き刺した。
フッキの身体がびくりと大きくはねる。一度だけではない。ユーベルの手が体内をかきまわす都度、フッキの身体はびくびくとはねまわった。
ユーベルはその反応を愉しむようにフッキの体内をかきまわしていたが、ほどなくして、その口が三日月の形に開かれる。
「あったぜぇ」
勢いよく手を引き抜くと、傷口から噴水のごとく血がふきあがり、ユーベルの顔に血がはりつく。しかし、ユーベルはそれをまったく気にかけず、手元に視線を向けたまま喜悦で身体を震わせた。
ユーベルの手には、人の拳ほどもある赤い輝石が握られている。
魔人フッキの心臓、第五層の可能石。
もう少し正確にいえば、かつて可能石だったものの破片、というべきかもしれない。ユーベルの手に握られた輝石は大きくひび割れ、いくつものかけらに分かれてしまっているからだ。
輝石に込められた力は、常のそれに比べれば大きく減少している。
だが、それでもなお、ユーベルにとっては魅力的な力に溢れていた。
第三層の魔人はしばしの間、感慨に浸るようにじっとそれを見つめていたが、間もなくすべてを己の口に放り込み、一瞬で飲み下した。
顔についた血を手でぬぐい、その血を味わうように舌でなめとったユーベルは、こらえかねたように甲高い笑い声をあげた。
「く、ひひ、ヒャッハハハハハハハアッ!!! やったぞ、やってやったぞ! 竜の心臓を喰ってやったぞ、第五層の可能石を取り込んでやったぞお!! これで残った竜どもなんぞ敵じゃねえ! あいつら全員始末して、あとはフッキの代わりに俺がエンテルキアに攻め込んでやる。そうすりゃジウ様も文句は言わねえだろうッ」
言いながら、ユーベルは懐から一本の薬瓶を取り出した。
形容しがたい色の液体が込められた瓶のフタをあけたユーベルは、それを倒れたフッキの口許に寄せる。
「そのためにも、もう少し役に立ってもらうぜえ、フッキ様よ」
一気に液体をフッキの口に注ぎ込んだユーベルは、相手の鼻と口を押さえて無理やり液体を嚥下させる。
反応は激烈だった。
「……ゴ、ブォァ! ア……ガ? グ……ギ……グ、ヴォ……ギュヴォアアアアッ!!?」
絶命寸前だったはずのフッキの口から、凄まじい叫喚があがる。のみならず、バッタか何かのようにその場で身体を跳ねさせたフッキは、倒れこんだまま狂ったように全身をかきむしった――いや、月喰によって両腕を断ち切られていたため、かきむしろうとして果たせず、傷口から流れる血で上衣を真っ赤に汚した。
魔剣や聖剣の傷が消し飛ぶほどのおぞましい痛みにフッキは襲われていた。臓腑が焼け付くように熱い。熱で溶かした鉄をそのまま飲み込んだかのような、耐え難い灼熱感。
さらに、無数の針で内臓を滅多刺しにされるような苦痛が、あわせて魔人を責め立てる。
フッキは顎が外れるほどに大きく口を開けると、今しがた飲まされた液体を吐き出そうとしたが、ユーベルは冷笑と共にそれを妨げ、吐き出すことを許さなかった。
「苦しそうだな。竜の鱗も腐らせる重水、疫病で死んだ百の死者を煮溶かして得た油脂、霊鳥の毛、この三つを煮詰めてつくった竜殺しの毒薬だ。お気に召したようで何よりだぜ。これでちったあ気合が入ったろう? 最後に王宮でひと暴れしてからくたばりやがれ」
もがき苦しむフッキを蹴りつけたユーベルは、そう言うとその場から姿を消した。同時に、倒れていたフッキの姿も掻き消える。
無人となり、しんと静まり返った翠微宮に、山頂から吹き降ろす冷たい風が吹きつけてくる。
さやかに揺れる中庭の草木の音が、荒涼とした離宮に寂しく響きわたった。
◆◆◆
――その夜、色濃い騒乱の気配に包まれた開陽の王宮に、突如として一匹の竜が出現する。
これにより都は恐慌に覆われたが、竜は七星剣を持った朱鷺国佐によって討たれ、王宮や市街の混乱は竜の討伐と共に沈静化していった。
明けて翌日、騒乱の気配さめやらぬ開陽の街に、蓬莱王宮から一つの布告が発せられた。
いわく、先夜あらわれた竜は正理の鏡によって正体を暴かれた伏姫であった。
いわく、伏姫は魔人であった。
いわく、魔人は国王である志士果を傀儡として蓬莱の支配を目論んでいた。
列挙される『真相』の数々に国都の住民は動揺を禁じえなかった。
ことに伏姫を信奉していた者たちはおおいに騒ぎ、布告の正当性に疑問を呈する者が続出する。
国佐は彼らに対し、論をもって相対しようとはしなかった。かわりに、開陽市民の前に一人の巫女を引き据えた。
翠微宮で発見された伏姫の親衛隊の生き残り。この瀕死の巫女に正理の鏡を向けたところ、人の三倍はあろうかという巨大な竜に変じたのである。
蓬莱国が魔人によって侵食されていたことは疑いない――この国佐の主張を否定できる者は、もはや誰もいなかった。
国佐は続けて、志士果を筆頭とする昨日までの蓬莱宮廷を痛烈に批判。これに反駁しようとした者は、竜の死骸を前に沈黙を余儀なくされた。
国王志士果は魔人にたばかられていた罪を問われて幽閉され、主だった廷臣は右丞相 大瑠璃淑夜の説得もあり、一時的に国佐が王宮を差配することを受け入れる。
かくて、一夜にして蓬莱の救世主、魔人殺しの英雄となりおおせた朱鷺国佐は、押しも押されもせぬ権力者として蓬莱王宮に君臨することになる。
霊山洞穴を脱したテオと九郎が開陽に戻ってきたとき、大勢はとうの昔に決してしまっていた。




