幕間 イズ・シーディア⑤
「おや、シーディアじゃないですか」
「んえ?」
中央教会の廊下を歩いている最中、不意に横合いから声をかけられたイズは、思わず妙な声をあげてしまう。
いきなり声をかけられて――つまり、まったく気配を感じることができず――驚いたというのもあるが、それ以上に相手の声に聞き覚えがあったのである。
振り返ったイズの視界にうつったのは、快活な笑みを浮かべる白髪紅眼の若者の姿だった。
年の頃はイズよりもわずかに上、二十歳を過ぎたあたりだろう。
明るい声に明るい表情。端正な顔立ちは特徴的な外見とあいまって、見る者に強い印象を与える。
イズにとってはよく見知った相手だった。かつて勇者の座をめぐって競い合った相手を忘れるはずもない。
それはすなわち、この青年がイズによって勇者となる望みを断ち切られた人物だということを意味している。
であれば、こちらに向けられた好意的な態度はすべて内心を覆い隠す仮面に過ぎない――かと思えば、決してそんなことはなかった。
その証拠に青年がイズを見る目に暗い影はまったくない。
イズは驚きをこめて相手の名を呼んだ。
「ジ、ジークフリート卿?」
「はい、ジークフリートです。久しぶりですね、シーディア」
そういうと、ジークフリートはイズのもとまで歩み寄り、笑顔で右手を差し出してきた。
利き手を他者にあずけることを忌避する剣士は多いが、ジークフリートはそのあたりをまったく気にしない。それだけイズのことを信頼しているといえるのだが、実のところ、ジークフリートは誰が相手であっても基本的に同じ態度をとる。
他者に対しては警戒よりも信頼をもってあたる人の好さのあらわれであり、同時に、利き手をあずけても不覚をとることはない、という自信のあらわれでもあった。
ジークフリート・ローレンシア。
近い将来、聖騎士に任じられることを確実視されている気鋭の教会騎士である。
突然のジークフリートの登場に戸惑いつつ、イズは自分も右手を差し出す。
ジークフリートは嬉しそうに、貴婦人の手をとるような優しさでその手をつかみとった。
「セラでの魔人退治の話は聖都まで届いていますよ。むろん廃都の解放についても。かつて、ブレイブハートの座をめぐって鎬をけずった卿の活躍を耳にするにつけ、自分も負けてはいられぬと奮い立ったものです。こうして互いに生きて再会することができた幸運、女神に感謝しなければなりませんね」
ジークフリートがにこりと微笑むと、窓から差し込む陽光を反射して、白い前歯がきらりと光った――ような気がした。
「そ、そうですねー」
あははーと笑いながらイズがうなずいた。若干、表情と声がひきつっているあたりが、眼前の青年に対するイズの評価を物語っている。
別段、勇者の座をめぐって競い合った時期に深刻なトラブルがあったわけではない。ジークフリートの人の好さが見せかけではないことも承知している。
その上で、イズはこの青年のことが苦手だった。
品行方正、清廉潔白を地で行くジークフリート。
たとえば教皇であるスーシャもこの点は同様だったが、ジークフリートにはスーシャが持っているある種の隙――こっそり神殿を抜け出したり甘味に目がなかったり――がまったくない。
ここでいう「隙」は、別の表現を用いれば人間らしさ、ないしは親しみやすさを意味している。
端的にいえば、公私ともにあまりに完璧すぎて近寄りがたいのである。
イズ自身、他者から似たような目で見られることはあるが、自分のそれとジークフリートのそれは大きく異なるとイズは思っている。
イズのそれが努力の産物なら、ジークフリートのそれは生来の気質であり、例えて言うなら鍍金と純金だ。
貧者のために財を割くこと、弱者のために剣をとることを当然の義務と考え、他者の幸せを己のそれに重ね合わせる廉潔の士。
たとえそれが見ず知らずの他人であっても迷うことなく命をかけられる、それが城塞騎士ジークフリート・ローレンシアという人物だった。
城塞騎士という名称は、以前ジークフリートが砂漠の小国で起きた魔物発生事件において、攻め寄せる魔物を単騎で撃退し、王都を防衛した功績に由来している。
その一剣は一城に匹敵すると認められたゆえの称号であり、人としても騎士としても非の打ち所がない。
もちろん、それは彼の大いなる美点なのだが、前述したようにその完全無欠っぷりが他者に対してプレッシャーを与えてしまうことも事実だった。
ジークフリートのそばにいると、完全ならざる己の欠点が浮き彫りにされてしまうような気がして、なんともいたたまれない気分にさせられてしまう。そのあたりが、イズがジークフリートに苦手意識を覚える理由であった。
さらにいえば、イズがジークフリートの近くにいると、この青年に好意を抱く女性たちから、それはそれはきつい眼差しを向けられてしまうため、これもイズがジークフリートを苦手とする理由の一つだったりする。
突きつめれば、どちらの理由もジークフリートの意思は関わっていないので、それを理由として苦手意識をおぼえるのは申し訳ないと思うのだが、こればっかりはどうにもならない。
イズはそんなことを考えつつ、相手に問いを向けた。
「あの、ジークフリート卿はどうしてベルリーズに? たしか、聖都守備の任に就いているはずでは」
「ええ、そのとおりです。そのために先の親征に加わることができず、歯がゆい思いをしました。聖都を守る重要性は重々承知していますが、有事の際は何かと不自由なものですね」
無念そうに言った後、ジークフリートは自身がここにいる理由を説明した。
「それで、どうしてここにいるのかという質問についてですが、聖下から招集されたのですよ。他の銀十字軍の仲間と共に」
「くる、せ……?」
聞き覚えのない名称にイズが首をかしげると、ジークフリートは唇の端に笑みをひらめかせた。
「クルセイダーズ。聖都守備を任とする私の所属部隊の名前――と、今のところはそう記憶しておいてください」
ジークフリートの言葉はいかにも意味ありげであり、裏面に何かあるのは明白だったが、イズは強いて問いただそうとはしなかった。ジークフリート相手にそれをしても無駄であることは知っている。
この青年、柔らかい物腰とは裏腹に、言うべきでないと判断したことについては頑として口を開かない。たとえ相手が上位者であってもだ。
イズはこれまでに何度かそういう場面を目撃したことがあり、その一つが、ジークフリートが自ら勇者候補の座を辞退したときであった。
「急に呼び止めてしまってすみませんでした。私はこれから聖下のもとに挨拶にうかがいます」
「あ、はい。聖下ならバルビウス大司教やエロイス団長と一緒に執務室に――って、ジークフリート卿はここに来るのは初めてですよね。場所、わかりますか? わからないようなら案内しますけど」
イズの申し出を聞いたジークフリートは感謝するように一礼したが、申し出自体は謝絶した。
「お気遣いはありがたく頂戴します。ですが、執務室の場所は知っていますので、案内の方は結構ですよ。私がこの教会を訪れるのは初めてではありませんから」
以前、修行のために大陸各地を行脚していた際、ベルリーズに寄ったこともあるのだとジークフリートは語った。
イズとしても親切の押し売りをする気はなかったので、そうですかとうなずいて引き下がる。
そうして二人が別々の方向に歩き出し、イズが最初の角を曲がろうとしたときだった。
いきなり目の前を小さな人影に遮られ――つまり、またしても気配が読めず――イズは驚きの声をあげそうになる。
そんなイズを「しっ」と口に人差し指をたてて制したのは、間違いなく今代のシルル教皇スーシャ・リドその人であった。
◆◆
それから数刻後、イズの姿はベルリーズと蓬莱を結ぶ街道上にあった。
状況が状況なので歩きではなく馬に乗っている。久々の出番とあってイズの愛馬はえらく張り切っており、飛ぶように街道を駆けていた。
張り切りすぎるあまり、明らかに途中でバテるペースだったので、ときおりイズは手綱を引き、逸る愛馬を制さねばならなかった。
その都度、まだいけますとばかりに鼻息を荒げる愛馬の上機嫌ぶりを見て、イズは鞍上で笑みを浮かべたが、その表情は長続きしなかった。
「テオのことだから、大丈夫だとは思うけど……」
イズはそういって眉を曇らせる。
これまでたびたびテオと行動を共にしてきたイズは、あの青年が国境警備の兵に捕殺されたとは露ほども思っていない。それでも、友人が厄介な事態に巻き込まれたことは間違いない。無事でいてほしい、と心から願っていた。
同時に、テオをそんな窮状に追いやってしまった責任が自分にあることを思い、イズは深いため息を吐く。
「あー……鈍いにもほどがあるでしょう、ボク」
イズはつい先刻まで、テオが蓬莱に向かった理由に自分のことが含まれていることなどまったく気づいていなかった。だから、スーシャの口からそれを聞いたときは思わず絶句してしまった。それくらい予想外の出来事だったのである。
バルビウス大司教は、スーシャのあずかり知らないところでイズをダシにし、テオに蓬莱行きを承諾させた。そのことを今日までスーシャが黙っていたのは、イズに余計なことを考えさせないためである。このことを知ったら、イズがじっとしていられるわけがない、とスーシャは考えたのだ。
その判断はたぶん間違っていない、とイズも思う。もしこのことをあらかじめ聞いていたら、今日までベルリーズでじっとしていられたとは思えない。
だから、スーシャに対して「どうして教えてくれなかったのか」などと言ったりはしなかった。ただ、自分自身に対して「どうして気づかなかったのか」とは思ってしまう。
まさかテオが自分のためにそこまでしてくれるとは思わなかった。
結局のところ、これに尽きる。
休憩のために川辺で馬から下りたイズは、ばしゃばしゃと音をたてて河水で顔を洗う。そして、見事に晴れ渡った空を見上げた。
「ああ、もう! テオがボクみたいな無骨者のことを思いやってくれる人だっていうのは、わかっていたはずのにッ」
なんで気づかなかったのかなあ、と顔をおさえてうめく。
テオに気遣われたのは今回がはじめてではない。
セラの樹海でアスティア神と共闘したイズが教団内部で責められることがないように、アスティア神を通じてウィンディア王に働きかけてくれたのはつい先日のことだ。
その甲斐あって、ウィンディアの王都で新たな教会が建てられることになったとの報告も受けている。
そこまでしてもらっておきながら、今度の一件でテオが己を気遣ってくれたことに気づいていなかったというのは、さすがにひどい。スーシャが口を閉ざしていれば、今なお気づかないままだったろう。もっとひどい。
そう思って、両の頬をバチンと強めに叩いた。
「恩知らずとはこのことだよ、ほんと。このことをきちんと謝るためにも、ぜったいにテオたちを見つけ出さないと」
聖下のためにもね、と内心で付け加える。
脳裏に蘇るのは、自分に向かって頭を下げるスーシャの姿。教皇という立場上、決して口には出せなかったスーシャの想いを、イズは正確に汲み取っていた。
ただし、イズが汲み取っているのはテオに関することだけであり、スーシャが頭を下げた理由の一つに自分自身も含まれていることには思い至っていない。
スーシャはイズの体調を気遣って蓬莱行きの候補者から外した。それなのに、状況が変ずるや、たちまちイズに対して危険な潜入任務を命じた。
幼い教皇はこのことに忸怩たる思いを抱いており、イズに申し訳ないと思っているのだが、当のイズはこれに関してまったくといっていいほど気にしておらず、だからこそスーシャの抱く罪悪感に気づかなかったのである。
むしろイズの方こそ、ベルリーズに残ったスーシャの身を案じていた。
もちろんベルリーズには蓬莱兵も野獣も魔物も出没しないが、教団内部におけるスーシャの立場が決して安泰なものではないことを、今のイズは知っている。
「聖賢会議、か」
中央教会の一室でスーシャから聞いた話を思い起こし、イズは小さく呟く。
ジークフリートが口にした銀十字軍という組織が聖賢会議の直属戦力であることも、そのときに教えられていた。
『城塞騎士はわたしに招集されたと言っていましたが、わたしは聖都に使いを出してはいません。おそらく大司教がやったことでしょう。その目的は聖人を魔剣の持ち手とするためだと思います』
魔剣を得るため、囚人を用いた実験をおこなったことについては大司教自身が認めているという。その結果、七人が狂死したことも。
大司教はその結果をうけてジークフリートたちを聖都から呼び寄せることを決断したのだろう。囚人がダメでも聖人ならば、というわけだ。
無謀な試みだ、とスーシャははっきりと断じた。
聖人に任じられた者たちは、皆がスーシャと同様に聖賢会議の系譜に連なる者たちである。実力、資質は折り紙つきであり、可能石の無限の魔力に対し、囚人が十秒間耐えられるとすれば、聖人たちはきっと百秒間耐えられる。銀十字軍の筆頭であるジークフリートならば千秒以上耐えることもできるかもしれない。
だが、結局のところ、それだけなのだ。
人間である以上、いずれ限界はおとずれる。無限に対して有限で挑んだところで勝機など見出しようがなく、囚人であれ、聖人であれ、最終的には魔剣に精神を喰い尽くされて命を失うことになるだろう。
見方をかえれば、それは現在の持ち手であるテオがどれだけとんでもないかの証左につながるのだが、ともあれ、スーシャは大司教の試みを絶対に止めるつもりだった。
ただ、わざわざ聖都の守りを崩してまでジークフリートたちを呼び寄せた大司教が、教皇のいうことにはいそうですかとうなずくとは思えない。おそらく聖賢会議の決定を言い立てて実験を強行しようとするだろう。
このとき、スーシャがあくまで大司教の行動を阻もうとすれば、事態は抜き差しならないものになってしまう。
ただでさえ多事多端の折だ。ここで教皇と大司教の対立が発生しようものなら、シルル教団は大混乱に陥ってしまうだろう。
そうなる前に蓬莱へ向かうべし、というのがスーシャの命令だった。一度混乱が発生すれば、勇者であるイズは自由な行動がとれなくなる。そうなる前にイズを蓬莱へ、というのがスーシャの考えであり、イズはいくらか迷った末、この命令をつつしんで了承した。
そうして手早く準備をととのえて街道を騎行しているというのが、イズがここに至る顛末である。
イズが発った後のベルリーズでは教皇と大司教の対立が発生しているかもしれない。
イズは聖賢会議という組織についてほとんど何も知らないが、スーシャを指して「聖賢会議五百年の歴史が生んだ最高傑作」と評する組織に好意的な感情を抱けるはずがなかった。
くわえて、五百年といえば、シルリス大陸共通の暦である解放暦の二倍近い年月である。女神シルルが生まれるよりはるか以前から存在し、シルル教団の母体となった組織。こんなに怪しげな集団はそうそうないだろう。
スーシャはそんな集団に属し、なおかつその集団の目的に反することをしようとしている。これでどうして心配せずにいられるものか。
イズはそう思うのだが、かといって、ここで馬首を返せばテオたちを助けることができず、スーシャの思いを踏みにじることになる。
「こうなったら一刻も早くテオたちと合流して、一刻も早くベルリーズに戻るしかないね」
それが今できる最善のことだろう。そう決意したイズは、再び鞍にまたがった。
騎手の気合を感じ取ったのか、イズの愛馬はこれまでにも増して鼻息あらく街道を蹴って突き進む。馬蹄を轟かせて疾駆する騎影にわずかに遅れて、街道の上を砂塵が舞った。




