第六章 魔剣(四)
はじめは分からなかった。今、自分の手に当たった感触が何なのか、ということは。
スライムの溶解液で目をやられていた俺の視界は赤く濁り、意識の方はそんな視界以上に混濁している。
落ち着いて観察することも、冷静な判断をくだすことも不可能な状態で、おぼれた人間がわらをつかむように手に触れた物をつかみ取る。
そのとたん、視界が爆ぜた。
轟音も、衝撃も、何もない。今の今まで俺たち全員を飲み込んでいた巨大な粘液塊が、いきなり無数の水滴となって四散する。
はじけ飛んだ魔物の体液は、時ならぬスコールとなって俺たちに降り注いだが、この雨に粘り気はなく、溶解液の性質も失われていた。
生ある粘液から、死した水へ。
大きさはともかく、死んでからの変化は巨大スライムも他のスライムと同様であるようだった。
唐突といって、これ以上唐突な出来事はない。
スライムの体液で溺死するという最悪の死地から一瞬で生還した俺は、わけもわからずに立ち尽くす。
その直後、こらえきれない嘔吐感をおぼえて口を開いた。
「……ぐ、がはッ! ごほッ!」
咽喉を塞いでいた汚水が咳と一緒に体外に排出される。びちゃりと床に吐き捨てられた液体は、そのまま溶けるように床に染みこんでいった。
そこかしこから似たような声が響いてきたところをみるに、他の面子も俺と似たような状況なのだろう。
むさぼるように空気を吸い込んだ俺は、ここでようやく一つの安心を得て、自分の状態を把握する余裕を取り戻した。
血と涙で滲んだ視界から気づいた事実は二つ。
一つは敵がまだ健在であること。俺たちを飲み込んでいた巨大スライムは確かに消し飛んだが、それは一部の死に過ぎず、いわば本体はまだ健在であった。
そしてもう一つは、自分が握っているのが魔剣の柄であること。剣身はいまだ戦神の亡骸を貫いている。剣に埋め込まれた紅玉が、数十年ぶりの使い手の出現を祝うように、あるいは呪うように、目の前で煌々と輝いていた。
その輝きを恐れるかのように、スライムの本体が再び襲いかかってくる。
この液体の魔物に知性はないはずだが、もしかしたらスライムなりの思考は存在するのかもしれない。
その証拠に、今回、魔物が標的としたのは明らかに俺一人だけであった。
柄を握る手に力を込める。
ためらいはなかったし、ためらう必要も認めなかった。先に誘惑を払いのけた時とは状況が違う。今、俺の前にある選択肢は魔剣を取って戦うか、魔剣を取らずに殺されるかの二つだけ。
選択の余地なしとはこのことだ。従容としてスライムに殺されてやるなんて冗談じゃない。
勢いよく魔剣を壁から、そして戦神の身体から引っこ抜く。
すると、ずしりとした重い手ごたえが柄を通して伝わってきた。同時に、得体の知れない悪寒も伝わってきたが、とりあえず気合で無視してそのままスライムに斬りかかる。
溺死寸前まで追いつめられた後だけに、お世辞にも鋭い一振りとは言えなかったが、それはまったく問題にならなかった。
刀身からこぼれ出る赤光がかすめただけで、スライムが水となって溶けていくからである。火に近づけた氷だってここまで簡単には溶けまい、というくらいのあっけなさ。
「火も魔法も効かない大容量の溶解液」という厄介きわまりない魔物が完全に滅び去るまで、たいした時間はかからなかった。
◆◆
「テオ、テオ。大丈夫? ボクが誰かわかる? あ、この指何本に見えるかな?」
「テオ、記憶ははっきりしていますか? 意識はきちんと保てていますか? 頭の中で知らない人の声が聞こえるとか、そういったことはありませんか?」
巨大スライムを葬り去り、治療が一段落した後に俺を待っていたのは、イズとスーシャ、癒し手二人による質問タイムだった。
もちろん、俺のまわりにいるのは二人だけではない。
ウルクは心配そうに俺の顔を見つめているし、フレアの視線は油断なく俺と魔剣に据えられている。
聖騎士団長であるエロイスは大人しくスーシャの後ろに控えているが、片腕を失うという重傷を負ったにもかかわらず、総身から尋常ならざる剣気を放っている。おかしな素振りを見せたら、問答無用で俺を斬って捨てるつもりに違いなかった。
まあ警戒されるのは当然だわな、と思いながら、俺はイズたちに返答する。
「俺の前にいるのはイズで、イズが立てている指は三本だな。ああ、それと変な声が聞こえるということもないぞ」
魔剣を握ったことによるおかしな影響はないと言明した俺は、あらためて件の魔剣を見直した。
ずっと握っているのもはばかられたので――それこそ魅入られたと判断されかねない――剣は少し離れた床に突き刺してある。
俺はあごに手をあてて観察の視線を注いだ。
「一度握ったら二度と手放せない、みたいなことも覚悟してたんだが、普通に手放せるものなんだな」
「うーん、あまり楽観しない方がいいと思うよ。別の場所に捨ててきたはずなのに、一晩たったら持ち主の手元に戻ってくる呪いの道具の話は聞いたことがあるし」
心配を消せない様子のイズに、俺はからからと笑ってみせる。
「ほう? つまり武器屋なり道具屋なりに売り払っても、一晩たてば戻ってくるわけか。それはいいな」
いくらでも大金を手に入れられる夢のアイテムである。
それを聞いた勇者が目を白黒させる。
ややあって、こちらが意図的に道化た答えを返したことに気づいたらしく、仕方ない人だな、と言いたげに小さく肩をすくめた。その仕草には、俺がいつもどおりであることに対する安堵も含まれていたかもしれない。
「『それを売るなんてとんでもない!』って怒られて、買い取りを拒否されるんじゃないかな?」
「む、それもそうか、残念だ。いやまあ、そもそもこの剣、俺のものになったわけではないし、ここで壊してしまえば売るも何もない――って、どうした、スーシャ?」
言葉の途中、こちらを見るスーシャの顔に暗い影がよぎったのを見て声をかける。
とたん、周囲から驚愕の陽炎が立ちのぼったのは、偉大なるシルル教皇を呼び捨てにする俺の無礼に度肝を抜かれてのことだろう。団長にいたっては眉間にでっかいしわができている。
やべ、と思ったが、今さら言い直すのも不自然なので素知らぬふりを装った。それにこの呼び方はスーシャに対する証明にもなる。俺が先刻までの俺と変わっていないのだ、という。
そんな俺の内心を察したか、スーシャは口元をほころばせたが、満面の笑みというわけにはいかないようだった。少女はその理由もすぐに説明してくれた。
「テオ、そのことなのですが……たぶんもう、壊すことは無理です」
「……ぬ?」
「先ほどまでなら、わたしの全力とシルル様のご加護をもってすれば可能だと考えていました。けれど――」
スーシャの視線が魔剣の方に向けられる。
俺が手を放してからも、紅玉の爛々としたきらめきは一向に衰えることがなかった。その光は、先刻までのそれに比べて明らかに強く、濃い。
魔剣が長い眠りから目を覚ましたのは明らかであり、ついでにいえば、その覚醒が誰によってもたらされたのかも明らかだった。
むぐ、と言葉に詰まっていると、スーシャが慌てたように言い添える。
「あ、テオのせいだって責めているわけではないですよ! テオがいなかったら、わたしたちは今こうして話すこともできなかったんです。テオの判断は正しかった。それは間違いありません!」
それを聞いたイズとウルクも、スーシャに同意するようにうなずいてくれた。俺自身、別に自分の判断を間違っているとは思っていないが、俺の行為が結果として魔剣の活性化につながってしまったことは否定できない事実である。
魔人の心臓が破壊できなければ、廃都の呪いを解くこともできない。
つまり、千人を超える大軍によって実行された今回の大遠征、シルル教団の威信をかけた教皇親征は、ここに失敗に終わったのである。
他の誰でもない、俺のせいで。
それを自覚した瞬間、おもわず顔がひきつってしまったのは仕方ないことだと思う。
だが、幸いというべきだろう、これは俺の早合点であった。
「その点は心配しなくても大丈夫です。魔人がかけた亡国の呪いは、きっともう解けていますから」
焦る俺を安心させるように、スーシャが確信を込めて断言する。
それを聞いて俺はおおいに胸をなでおろしたが、同時に疑念もおぼえていた。
スーシャの言葉自体は喜ばしいものであったし、スーシャが慰めのために偽りを口にするとも思えない。ただ、現実として魔剣は健在であり、目の前で溢れんばかりの魔力をほとばしらせているわけで、これで呪いは解けたと言われても今ひとつ説得力に欠ける。
それに、三十年にわたる呪いが解けたというのなら、もっとそれらしい変化が起きてしかるべきではないか、という気持ちもあった。
と、そんな俺に対して、スーシャは心配そうな顔で一つの問いを向けてきた。
「テオ、そのことで訊ねたいことがあります。あの剣を手に取ったとき、何か感じましたか?」
「何か?」
質問の意図はわからなかったが、答え自体はついさっきのことで忘れようもない。
俺は正直に言った。
「ちょっと悪寒みたいなものを感じたかな」
正確には激しい嘔吐感もおぼえたが、あれはスライムに咽喉を塞がれていたせいだから関係ないだろう。
俺の言葉を聞いたスーシャは、確認するようにもう一度問いを放つ。
「悪寒――それだけ、ですか?」
「ああ。気合で無視したけど、それがどうかしたのか?」
怪訝に思って問い返すと、少女は何かを確信した様子で小さくうなずいてから、おもむろに言葉を続けた。
「魔人の体内から取り出された心臓は、純粋な魔力生成機関として機能する――先刻、わたしはそういいました。いいかえれば、剣自体にコーラルを呪う意思はないということです。剣はあくまで道具であり、以前の持ち手が呪いの触媒として使用したから今日まで触媒として機能し続けてきた、ただそれだけ。では、剣が新しい持ち手を得たら、どうなると思いますか?」
緑の双眸に怖いくらいに真剣な光を湛えて、スーシャは俺と目を合わせる。
問いかけの形はとっていたものの、謎かけをしたいわけではなかったようで、俺が口を開くまでもなく教皇は自分で答えを口にした。
「答えは簡単です。剣は触媒であることを止め、コーラルの天地を覆っていた魔人の呪いは消失する。同時に、呪いを支えていた剣の魔力も元の場所に戻ったのだとわたしは思います。テオが触れる前と触れた後で、あの剣の力に大きな変化が生じた理由もこれで説明がつきますから」
「……ふむ」
魔剣の力が強まったのは「剣が目覚めた」とかいう詩的な理由ではなく、単純に『亡国の呪い』に費やされていた力が戻ってきたため、ということか。
もしかしたら、俺が魔剣に触れるや否やスライムの一部が消し飛んだのも、それの影響だったのかもしれない。
「だから廃都の呪いは解けているはず、ということか」
「はい」
スーシャは力強くうなずく。
三十年の長きにわたってコーラルを蝕んできた魔人の呪いの消失。それは人類史に黄金の文字をもって記されるべき偉業であり、快挙であった。
それを成し遂げたシルル教団とスーシャ・リド教皇の名声は間違いなく大陸全土に轟きわたる。ついでに俺の名声もあがってくれれば、おおいに花嫁令に益するというもので、それ一つとっても今回の遠征に同行した価値はあったといえよう。
問題は眼前の魔剣をどうするのかという一点につきる。
スーシャの言葉が正しければ、現状、魔剣の持ち手は俺ということになる。魔人をぶった斬ることのできる武器はぜひとも欲しかったが、この剣に付随する問題は個人で対処するには大きすぎる。
スーシャが破壊できないというなら、いっそアスティア様のもとに持っていって破壊してもらおうか。
しかし、スーシャ以外のシルル教団関係者がそれを認めるとは思えないし、へたをするとウィンディア王国がシルル教団から「賢者の石」を奪いとった、とかいう話になりかねん。
まだ地上に生還できる目処が立ったわけでもないので、この手の心配をするのは気が早いとは思うが、こんなものを衆目にさらした日にはそれこそ命を狙われかねない。
少なくとも、この場にいる面子の意思は統一しておくべきであった。
「どうしたもんか。まあ、触っただけで持ち手を認識できるなら、俺以外の人間に触ってもらえば済む話ではあるんだが」
そうすれば魔剣の持ち手としての責務は消滅する。
少し無責任な気もするが、俺個人に関していえばこれが最良の解決策だろう――そう思ったのだが、スーシャはきっぱりと首を横に振った。
「それは無理だと思います」
「む。やっぱり丸投げはダメか」
自覚があっただけに、スーシャの言葉が俺を責めているように感じられたのだが、教皇は再度首を横に振って俺の憶測を否定した。
「そうではありません。単純に不可能なんです。『剣自体に意思はない』とわたしは言いましたが、たとえ意思はなくても影響はあります。火で熱した鉄が、たとえ鉄自体に意思はなくとも触れた者を傷つけるように」
魔剣もそれと同じだ、とスーシャは言う。
「テオ、あなたがあの剣を手に取ったとき、あなたは死んでいてもおかしくなかった」
「し、死ぬ?」
「はい。正直にいえば、今こうしてあなたが生きていることに、私は驚きを禁じえません」
「お、おお、そうだった、のか……?」
突然の死の宣告に、何と言えばいいのかわからずにしどろもどろになる。
軽口で返したいところだったが、スーシャの顔は真剣そのもので、とても茶化せる雰囲気ではなかった。
スーシャいわく、俺が剣を手にとったときに剣へ流れ込んだ凄まじい魔力は、教皇が地上で放った雷撃を十度行使してもなお余りあるものだったとか。これにはフレアやウルクといった魔法の使い手たちも同意を示した。
「触れてもいない私たちにさえ影響を与えるものが、持ち手に影響を与えないわけがありません。テオは剣を手にした瞬間、狂死してもおかしくなかった。あなたが感じた悪寒はそういうものだったはずなんです」
魔人の力は強大にして底を知らずといった少女は、ここではじめて表情をやわらげる。
「それを気合一つで退けるような真似は、テオ以外の誰にもできないと思います。少なくとも、わたしはできる気がしません」
だから、俺以外の誰かに魔剣を譲渡することはできないのだ、というのがシルル教皇の示した見解だった。
それを聞いて、それまで黙っていたイズたちが同意だというようにうんうんとうなずく。
「あ、ボクも無理だと思うよ、テオ」
「テオの頼みとあらば、とは思いますが、それでも躊躇してしまいますね」
「私は頼まれたってお断りよ。助けてもらったことには感謝してるけれど、ね」
それぞれに忌憚のない意見を口にする三人。ちらと聖騎士団長を見やると、無言でかぶりを振られてしまった。
仕方なしに視線を魔剣に向ける。
こうして見ているだけでも、はっきりとした力を感じさせる一振りではある。しかし、俺に分かるのはそこまでで、スーシャたちが口にしたような「影響」は感じ取れない。
俺が魔法や魔力に対して鈍感なだけなのかもしれないが、さて、どうしたものか。
考え込む俺の前で、剣は相変わらず赤い輝きを放ち続けていた。
◆◆◆
廃都の中心に位置するコーラルの帝城。高く高く天へと伸びた尖塔の上で、気だるげに眼下の戦いを見下ろしていた魔人ベアトリスは、突如起きた変化に驚愕を禁じえなかった。
「…………うそ」
銀髪の吸血種の視線は己の頭上――廃都の上空に注がれている。
そこにあるのは吸い込まれてしまいそうな青い空と、燦々と降り注ぐ夏の日差し。
それは、長きにわたってコーラルの大地が見ることのかなわなかった光景であった。
「……人間がカミュの守りを食い破ったの?」
ささやくような声音には、信じられぬと言いたげな響きがこもっている。
ここまで作戦は順調に進んでいたのだ。
廃都を光の壁で覆って、シルル教団の遠征部隊を城の内外で分断する。まずは錬度の低い民兵を片付けて物資を焼き払い、しかる後、光壁を解除して城外の魔物群を城の中に突入させる。
目指すところは遠征隊の全滅であり、その作戦はすでに半ば以上達成されていた。
すでに城外の義勇兵団は壊滅しており、ベアトリスは光壁を解除している。城内の遠征軍は城外から押し寄せる魔物相手に懸命に防戦を繰り広げていたが、逃げ場も、拠点とすべき陣地もない状態では、数さえ知れぬ魔物の大群に抗すべくもない。
まして指揮を執るべき三人の重鎮が行方不明である今、系統だった指揮をとれる者は遠征軍に存在せず、死傷者の数は増大の一途をたどっていた。
現在、生き残りの部隊は帝城にほど近い広場で円陣をつくり、かろうじて戦線を維持しているものの、この守りが突破されるのも時間の問題であろう。ベアトリスはそんな風に考えていた。
そこにきての、この異変。
魔人は驚き、人間たちも驚いたに違いないが、より以上に驚いたのはコーラルの魔物たちであった。
魔物の多くは陽光を好まない。くわえて、この地の魔物のほとんどはこれまで陽光そのものを知らなかった。
空が黒以外の色に染まるという天変地異を前にした彼らが平静を保てる道理はなく、逃げようとする者、なお戦いを欲する者、陽光に狂乱して暴れまわる者などが各処でぶつかりあい、戦場はたちまちのうちに混沌に飲み込まれた。
無数の叫喚と苦悶が廃都の内部を埋め尽くしていく。
この時、遠征軍は反撃に出たものの、指揮官を欠いた攻撃は必ずしも効果的なものとはいえず、魔物の被害のほとんどは魔物たちの自滅によるものであった。
ここでベアトリスが動けば力ずくで動揺をおさえることもできたであろうが、魔人の興味はすでに別のところに移っている。眼下の戦いは完全に意識の外に置かれていた。
「あの鬼神が敗れたというのは信じがたいし、剣が新たな持ち手を得たというのは、それ以上に信じられないのだけれど、こうして空が見えている事実は事実。いったい何が起こったのかしら?」
魔人の声が楽しげに弾んでいる。
カミュの強さを知る身としては、廃都の地下で何が起きたのか、興味をかきたてられずにはおれぬ。
すぐにでも様子を見に行きたいところだったし、実際、すぐに行動に移ろうとした。
だが、そんなベアトリスの意図を妨げるように姿を現した者がいる。
それは顔全体を覆う鉄の仮面をかぶった剣士だった。鉄仮面の右半面は砕けており、白い肌と青い目、そして涼やかな金髪が仮面の下からのぞいている。
突然現れた相手を前にしてもベアトリスは警戒の素振りを見せない。それはこの相手が魔人にとって見知った相手だったからである。
相手の砕かれた仮面を見やりながら、銀髪の魔人はゆっくりと口を開いた……




