第二章 金髪のゴブリン(五)
シルリス大陸の西北部を覆う緑の海。幾万とも、幾十万とも知れぬ無数の木々が大海のごとく連なる大森林、セラの樹海。
そこは森の妖精たるエルフが住まう妖精郷であった。
長命なエルフ族は老いとは無縁で、例外なく整った容姿を持って生まれてくる。肉体的な頑強さこそ人間に劣るものの、その不利を補って余りある敏捷さを持ち、森の中を豹のように俊敏に駆けまわる天性の狩人。また、古代語に関する知識、適正に秀でており、一族の多くが優れた魔法の使い手でもある。
美しく、強き妖精たち。
エルフたちは十の氏族に分かれて樹海で暮らし、各氏族の長の合議によって王を選出する。
エルフ王の座所は樹海の最奥に位置する聖域、白精樹アル・シオン。
枝の上に家が建つほどの巨大な樹木は、一年を通して雪をかぶったかのように白く輝いている。
エルフ王の宮殿は、世界樹とも称されるこの白精樹の洞の中につくられていた。
ウルク――ウルクファルク・ラ・セラサスは、この白精樹を守る防人の一人であった。さらにいえば、最も新しい防人でもある。
聖地の守護者たるこの役目は、エルフの中でも特に優れた者しか就けない名誉あるもの。自らが防人に任じられたと知ったとき、ウルクは感激のあまりしばらく声も出なかった。
防人となった者は、王の御前で己が身命を賭して聖域を守るという誓いを立てる。
ウルクは、ともすれば笑みこぼれてしまいそうになる顔の表情を懸命に引き締めながら、王の前で膝を折った。
わずか五日後、セラの樹海に数千をかぞえる魔物の大軍が押し寄せてくるなど、このときは想像さえしていなかった。
◆◆
「ウゥゥリィィィィイイッ!!」
「サワセ! サワセェェェッ!!」
数さえ知れぬゴブリンの鬨の声が樹海にこだまし、敵意に満ちたオークの咆哮が鼓膜を焼く。
ただでさえ醜悪な顔を、殺意と敵意でさらに醜くゆがめた魔の尖兵が、木々で編まれた防柵に向かって殺到してくる。
途端、数十の矢が柵の内側から一斉に放たれた。
外れようもない至近からの斉射を受け、先頭に立っていた魔物たちは、ある者は目を射抜かれ、ある者は喉を貫かれて、バタバタと地面に倒れ伏していく。
エルフ兵の間から歓声が湧き起こったが、それは数秒ともたずに更なる喚声によってかき消されてしまう。
倒れた同族の屍を乗り越えて、新たな鬼族の一群が咆哮をあげて襲いかかってきたのである。
再び放たれる矢の雨。倒れる敵。そして、その後ろから現れる新たな集団。それは今しがたの攻防の焼き直し。
地面を埋める屍の山と、訓練された軍隊のように犠牲を覚悟で突撃を敢行してくる悪鬼たちを見て、防衛の任についたエルフ兵の顔に焦燥が浮かんだ。
「王よ! 魔軍の攻勢、止まりませぬッ! ひたすら白精樹を目指して攻め寄せて参ります。防戦にあたっている防人の長より、結界内部への後退を許可していただきたいとの使者が……!」
「許可する。急ぎ、長へ伝えよ」
「はい!」
幾重にも築かれた外周部の防衛線を放棄する決定を下したエルフ王。この世界に誕生して二百年の歳月を閲しながら、いまだ壮年の面影を保つその顔に深い苦悩が刻まれる。
セラの樹海には一つの結界が張られている。
白精樹と各氏族の集落を基点とした攻性結界。
始祖たちによって張られたこの対魔結界は強力で、力の弱い魔物であれば一歩踏み込んだだけで絶命する。おそらく、今攻め寄せているゴブリンの大半はこの結界で息絶えるだろう。
敵を結界内部に引きずり込み、数を減らすのが防人の長の狙いである。生き残った魔物も、結界の影響で大きく力をそぎ落とされるので、防戦は格段に楽になる。
ただし、敵を結界内に引き込む以上、ここから先の戦いは北の集落を巻き込んだものとならざるをえない。これはエルフの戦士たちにとって屈辱的な決断であった。
むろん、もっとも屈辱を覚えているのはエルフ王自身である。
だが、誇りのために戦士たちの命を無為に散らすわけにはいかぬ。
北から魔軍侵攻の第一報が届けられるや、すぐに北方の集落に避難を命じておいたことも、王の判断の一助となっていた。
防人からの急使が前線へ取って返した後、エルフ王はあごに手をあてて考えに沈んだ。
これまでも北――ガルカムウ山脈の魔物が樹海に侵入してきたことはあった。
だが、その侵入は大抵が二、三百の数であり、始祖の結界に頼るまでもなく、外周部で戦士たちが蹴散らしている。
ところが、今回は敵の規模が尋常ではなかった。
総数は千をはるかに超えており、二千、へたをすると三千に届くかもしれない。しかも、今攻めてきているのが敵の全軍であるという保障はどこにもない。
さらに、この敵軍は驚くほどに統制がとれており、犠牲を惜しまぬ猛攻をしかけてくる。少しでも不利な戦いからはすぐに逃げ出すはずのゴブリンが、そしてそんなゴブリンをエサ程度にしか認識していないオークが、である。
「――やはり、魔人がおるか」
敵軍の背後に、看過し得ない強大な指揮官の存在を感知した王は、確信を込めて魔人の存在を断定する。そして、自身を守る防人を引き連れて立ち上がった。
結界内に敵を引きずり込むのは、いわばエルフにとって最後の手段だ。絶対にこれ以上の浸透を許すわけにはいかず、そのためにも苦戦している前線を支える援軍を送らねばならない。
兵という兵がみな防戦にあたっている今、援軍となりえる戦力は王自身と直属の防人のみ。エルフの長として、この状況でとるべき行動は一つしかない。
こうして、エルフ王みずからが前線に赴こうとしたときだった。
それは突然にやってきた。
ガズンッッッ!! という巨大な衝撃音が樹海の木々を震わせる。
直後、不可視の手で直接に脳を揺さぶられるような、凄まじい振動が結界内にいたすべてのエルフを襲った。
「ああああッ!?」
「ぐが、お、おおおおおおッ!!」
まったく予期せぬ攻撃を前に、王を守る精鋭もたまらず膝をつく。
衝撃がおさまった後も視界が激しく揺れて、敵の攻撃に備えるどころか立ち上がることさえできなかった。
「なん、だ……ッ!?」
王の口からも苦悶と疑問が溶け合った声があがる。ただ、苦痛に顔を歪めながらも、膝をついていないのは流石というべきだったろう。
王の疑問に応じるように、白精樹が悲鳴のような軋みをあげて枝葉を震わせる。わずかにおくれて、洞の内側にいる者たちに対し、全身を押しつぶすような重圧がのしかかった。
「ぬぅッ!?」
前触れなく両肩に人身大の鉄塊を乗せられたようなものだ。初撃を耐えたエルフ王もたまらず膝をついた。
エルフ王は奥歯を噛み締めながら、素早く周囲に視線を送る。
目に映るのは同族ばかり、敵の姿は見えない。それでも敵がいることは疑いない。
その事実にエルフ王は全身が軋むほどの脅威を覚える。
ここはエルフの聖域たる白精樹の最奥、王の御座。ここまで忍び込めるような魔物がいるはずはなく、たとえ魔人だとて誰にも見つからずに侵入することは不可能だと、そう考えられていた。
空間跳躍は魔人を魔人たらしめる脅威の一つだが、始祖の結界が展開している以上、魔人といえどもこの場にやってくることはできない、と。
だが、実際にエルフ王たちは外敵の攻撃を受けている。
その意味するところは明白だった。
そのとき、一人のエルフが入り口から這うように姿をあらわし、悲鳴まじりの報告を行った。
「王、空をごらんください! 結界が……!」
それを聞いた者たちが、一斉に洞の隙間から空を見上げる。
白精樹はセラの樹海で最も巨大な樹木、最も空に近い場所。ゆえに、この場にいたエルフたちは、誰よりもはっきりと見ることができた。
空に無数の亀裂が走っていく、その様を。
エルフの領域を守る始祖の結界が、今まさに砕け散ろうとしていた。
「ば、バカな! 魔物ごときが、始祖さまの結界を破るなど!?」
「し、信じられない……」
物に動じないエルフたちも、眼前の光景に動揺を禁じえない。
かつて神々と共に魔人に立ち向かったエルフの始祖が、魔力と技術の粋を凝らして築き上げた結界である。セラ全域に点在する神木を基点とする結界、これを破るためには、それこそセラの樹海そのものをひっくり返す力が必要となる。
そんな力を持つ者はこの世界に存在しないはずだった。
事実、過去の大侵攻においてもセラの結界は破られなかった。つまり、魔人さえ始祖の結界には手出しできないということ。エルフたちはそう信じて疑っていなかった。
だが、今。
エルフたちの眼前で、結界は崩れ去ろうとしていた……否。
たった今、崩れ去った。
同時に。
「ヒャッハハハハアッ!! ユーベル様の登場だぞ、妖精どもォ!」
鼓膜を針で突かれるような、敵意に満ちた哄笑が白精樹に響きわたる。
粗野で乱暴な、エルフのものではありえない声。
それなのに、身震いしてしまうほどの力感にあふれた声。
それはエルフ王の真後ろ――ウルクのすぐ近くから聞こえてきた。
歪む空間。現れる黒影。
「くッ?!」
とっさにその場から逃れようとするエルフ王。ウルクも慌てて短剣を振るおうとした。
しかし――
「おせえッ!!」
いずれの行動も、すでに遅すぎた。
現れた人影はためらうことなく王に向けて右手をかざす。
膨れ上がる魔力。やめて、とウルクが口にする暇もなかった。
「死にやがれ!!」
その言葉と共に、二十を超える魔力の針が次々に王の身体に突き刺さっていく。
すべては一瞬の出来事だった。
声もなく床に倒れ伏す王の姿が、まぎれもない現実のものであると悟った時、周囲のエルフの口から、絶叫がわきあがる。
そして。
「わめいている暇があんのか、お前たちに?」
その絶叫を押しつぶすように、更なる蹂躙を欲する魔人の嘲笑が響き渡った……
◆◆◆
夢寐にも忘れ得ない光景がウルクに覚醒を強いた。
「ぐぅッ!?」
跳ね起きたウルクのかたわらに、寝具がわりに羽織っていた外套がぽとりと落ちる。
荒い息を吐きながら、ウルクはほとんど無意識に自分の両手を確認していた。そして、獣のごとき体毛の生えた黒い我が手を見て、失意と落胆のため息を吐く。
すべてが夢であれば、などという甘い希望はとうに捨てたつもりだったが、それでも起きぬけに自分の手を確認してしまうクセはなかなか抜けない。
次にウルクが目を向けたのは、妙な縁で連れとなった人間だった。
テオと名乗った青年は少し離れた場所ですやすやと寝入っている。警戒心のかけらもない寝顔。ゴブリンに変じているウルクがすぐ近くで寝ているというのに、なんとも豪胆なことだ。色を失っていたウルクの唇が微笑の形をとる。
これまでウルクは大多数の同族と同様、人間という異種族に良い感情を抱いていなかった。むしろ敵意を抱いていたといっていい。
なにしろ、南の蓬莱国は公然とエルフの打倒を掲げており、定期的に樹海を焼き払おうと攻め寄せてくるのだ。エルフにしてみれば、ガルカムウの魔物たちと何ら変わらない。そんな人間に良い感情を抱けるはずがなかった。
人間の言葉や文字は父から学んでいたが、これとて知らないよりは知っておいた方が良いという消極的な考えにもとづくもので、さして熱心に学んでいたわけではない。
――その人間と、こうして行動を共にすることになるとは思ってもみませんでした。
少し落ち着きを取り戻したウルクは小さくため息を吐き、あらためてテオを見やる。
はじめこそ、やむをえずに行動を共にすると決めた相手であるが、ここ数日の間にウルクの警戒心は大きな変容をとげている。
人間と一緒にいることに確かな安堵を感じている自分に、ウルクはとうに気づいていた。
しかし、それも仕方がないと思う。魔物によって故郷を蹂躙され、魔人の恐怖をこれでもかと味わわされたばかりなのだ。そうして、忌むべきゴブリンに姿をかえられ、どことも知れない異郷をたった一人でさまよい、さらにはおぞましいオークに命と貞操を付けねらわれていた。
そんな状況でこちらに敵意を抱かない相手に出会ったのだ。心を許してしまうのは、もはや必然だとさえ思う。
ウルクの脳裏に白精樹での戦いがよみがえる。
あのとき、ウルクが殺されなかったのは魔人の気まぐれによるものだ。妖精族に憎悪を抱くあの魔人は、防人たちに呪詛をあたえた上で強制転移を行った。
目覚めたとき、ウルクは一人しかおらず、他の仲間は見当たらなかった。おそらく皆が別々の場所に飛ばされたのだろう。
むろん、気まぐれといっても慈悲のたぐいではない。むしろユーベルと名乗った魔人の行動は、慈悲とは対極に位置している。
エルフを魔法も弓も使えない最下級の魔物にした上で、どことも知れない場所に放り捨てる。これは手法を変えたなぶり殺しに等しい。
いかにエルフが魔法に秀でているとはいえ、始祖の結界を破ったユーベルの魔力総量を考えれば、単独で呪詛を解くのはほぼ不可能であろう。
ウルクはこうして何とか生きのびているが、すでに命を落とした者もいるはずだ。もしかしたら、自ら命を絶った者さえいるかもしれない。
誇り高いエルフにとって、魔人によって妖魔の生を強制される今の状況は悪夢そのもの、ウルクとて何度も自決を考えている。
その選択肢を選ばなかったのは、ひとえに生来の負けん気の強さによる。
魔人の思い通りになってたまるものですか、という意地がウルクの生の活力となった。
――もっとも、何度もくじけそうになりましたけれども。
再びため息がこぼれる。
最初に目覚めた土地は瘴気に満ち満ちて、木も草も異様な変異をとげていた。いつまでたっても夜が明けず、あの領域を抜けるまでは魔界に落とされたのだと本気で信じかけていたほどだ。
かててくわえて、おぞましいオークたちに付けねらわれるという悲運。寝込みを襲われたことも一度や二度ではなく、こうして思い出すだけで背筋が凍る。もし、あのオークたちに捕まっていたら、双剣を自分の喉につきたてることになっていただろう。
その日々を思えば、害意のない相手との道のりは涙が出るほど温かい。
繰り返しになってしまうが、少しばかり心を許してしまうのは当然だった。
――そう、当然です。だからして、悪夢に怯えて夜中に泣き出した挙句、手を握って慰めてもらったのは決して恥ずかしいことではありません。ありませんったらありません。
ウルクはそう自分に言い聞かせた。我ながら説得力は微塵もなかったけれども。
あの時のことを思い出すだけで頬がかぁっと熱くなる。たぶん今だけは、自分の顔は黒よりも赤が目立っているだろう。ウルクはそう思い、闇の中でひとり照れた。
ともあれ、ウルクはテオを信じると決めた。
率直にいって、疑念のすべてがなくなったわけではなかったが、少なくともこちらを騙し打ちにしようとか、捕らえて見世物にしようとか、そういった狙いがないのは確かだと思える。
テオの実力は出会ったときに我が身で確かめている。その気になれば、ウルクを討つ、あるいは捕らえる機会は今日まで幾らもあったのに、そのことごとくを見過ごしてきた人間を疑う理由はない。
ウルクはそのように結論したのだが、あるいはそういったものはすべて建前に過ぎないのかもしれない、とも思う。
たぶん、自分は単純にテオを信じたいだけなのだ。
疑うという行為は、ただそれだけで心身をすり減らす。体力的にも、精神的にも余裕のない今のウルクは、疑うという行為に耐えられず、ただ信じたかった。
目の前の人間は良い人なのだ、と。
首から下げている『お守り』をぎゅっと掴む。
それは葉の形をした銀の鍵で、テオが泉で拾い、後でウルクに返してくれたものである。あのとき、ウルクがオークに追われながらも危険を承知で引き返したのは、この鍵を落としたことに気づいたからだった。
これはウルクが防人に任じられたときに父から渡されたもので、決して手放してはならないと繰り返し言われていた。間違っても魔の者の手に渡してはならぬ、とも。
もしかしたら、父にはなにがしかの予感があったのだろうか。
ウルクの脳裏に父――エルフ王の姿が思い浮かぶ。魔人に討たれ、床に倒れ伏した姿。
ギリ、と奥歯が鳴る。
この鍵が何なのか、詳しいことをウルクは知らない。もしかすると、これを持って魔に侵略された森に帰るのは危険なことなのかもしれない。
しかし、だからといって、あてもなく人間世界を放浪するなど耐えられるものではない。
両の手で銀の鍵を包み込みながら、ウルクは嗚咽をこらえてうつむいた。




