交わされた約束
ディミトリオスが飛び降りたなら、それはそれで良かったのかもしれない。自分のことだけを考えるなら、そうだ。彼がいなければ、イリスの生存確率が上がるんだから。後からそう思ったけど、このときはそんな風に思えなかった。
この家族の中で、今時点で一番冷静なのは、わたしだった。だからわたしが、彼を助けなくてはならない。幼い子が自分で飛び降りるという狂気を、放っておけるはずがなかった。
階段を三階まで勢いよく駆け上がると、止血された額から再び血が流れ始める。
この屋敷は主には二階建てで、三階は展望と、雑談のための小さなスペースがあるだけだった。
窓は開放され、風が吹き込む中、ディミトリオスは窓の縁に立ち、今にも下に落ちそうだった。
使用人たちは近寄れない。
彼の周囲には、魔法陣がいくつも漂っていた。
「お嬢様危ないです! 近寄ろうとすると、怪我をしてしまいます!」
使用人はミミズ腫れになった自身の腕を見せた。
手加減をした攻撃魔法。五歳にしてこれほど魔法をコントロールできるなんて、末恐ろしい人間だった。
「おいで、おしゃべりの続きをしよう?」
使用人達がいたけれど、子供らしい姿など忘れて、わたしは彼に呼びかけた。ディミトリオスは泣いている。
「ぼく、いらない子供なんだ」
驚いて返事をした。
「違うわ、いらない子供なんていない」
「ちがわない」
ディミトリオスは頑なだった。暗い瞳は、世間に絶望しているようにも見える。
「いるんだ。いらない子供は、いる」
「いないわよ」
近寄ろうとすると、魔法陣が大きくなる。
「来ないで! いま、飛び降りる勇気をだしているんだから!」
「飛び降りる必要なんてないわ」
さらに彼に寄っていく。魔法により、ピシピシと肌が痛む。細かいガラス片で引っかかれているみたいだった。ディミトリオスは悲しげに首を横に振った。
「ぼくがいたからお母さまは死んだんだ! イリスだって、ぼくのせいでけがをした! ぼくはみんなを不幸にするんだ! ぼくはこの世に生まれてきちゃいけなかったんだ!」
「なにを言うのよ!」
さらに大きく一歩踏み込んだ。額から血が、ぱっと飛び散る。ディミトリオスの目が大きく見開かれた。
ほとんど感情のままに、わたしは叫んだ。
「必要ない人なんていないわ! いらない人なんて存在しない! たとえ世界中から嫌われていたって、どれほど孤独だったって、その人は世界に必要だから、生まれて来たんだわ! 誰だってそうよ!」
それは、前世でずっと抱いていた思いだった。そう思って、親に望まれなかった自分の命を肯定してきた。ディミトリオスの顔が恐怖に引きつる。
「来ないで! よしてよ! 血が出てる!」
それで止めるわたしではない。ディミトリオスの魔法が、わたしの肌に食い込んだ。ゴムで弾かれたように、いくつも赤い筋が出てきた。
「ディミトリオス! あなたはわたしの兄になるのよ! そんなに弱気でどうするの! どうやってテミス家を守るのよ! わたしはあなたに守ってもらいたいわ!」
必死だった。彼に近づくにつれ腫れは広がって、ほんのわずかに血が滲む。
一方で、ディミトリオスの魔法は弱くなっていく。人を傷つけることを、彼はよしとしていないのだ。そのことに、安堵を覚えた。
困惑に表情を強張らせながら、ディミトリオスはわたしだけを、黄金の瞳に映し出す。
「どうして、そんなこと、ぼくに言うの」
彼の瞳の中で揺らめく自分の姿を見ながら、わたしは片手を差し出した。
「だって、わたしたち、家族になるから」
家族がどうやって出来上がるかなんてわたしは知らないけど、彼は確実にわたしの兄になるのだ。
ディミトリオスの手が、わたしに触れることはなかった。その前に、彼はお父さまに抱え上げられていたから。
気付けば魔法陣は消えていて、人が近寄れるようになっていた。
はあ、と安堵のため息を漏らしながら、お父さまはぽつりと言う。
「イリス、すごすぎて近寄れなかったぞ……」
結局、わたしの傷は大したことなくて、魔法を使うより自然治癒の方が傷が綺麗に治るというお医者様の判断で、包帯が巻かれただけだった。
騒動が収まって、わたしに手当がされた後、子供の世話を使用人に託し、お父さまとお母さまは二人きりで部屋に閉じこもってしまった。長い長い話し合いがされているのだろうことは、使用人達の様子で分かる。
どんな会話がされているのか気になったけど話し合いには入れてもらえず、わたしは今日会ったばかりのディミトリオスと、子供部屋にいた。――つまり、わたしの部屋に。
「お二人とも、少しお休みになさってください。起きたら夕ご飯ですよ」という使用人の言葉に甘え、二人してベッドに横になっていたのだ。この子供の体は、ひどく疲れるから。
あれだけの大騒ぎをしたせいか、ディミトリオスも疲れた様子だったけれど、わたしの額に手を伸ばし、そっと触れると、密度の高い黒い睫毛を伏せた。
「ごめんね。いたい?」
「ううん! 全然大丈夫、へっちゃら! 気にしなくていいの。魔法があれだけ使えるんだから、むしろ自慢に思うべきよ」
わたしが言うと、ディミトリオスは小さく笑う。
「……変なの。イリスの方が、ぼくよりもお姉さんみたい」
ああそうだ、と思った。
そうすればいいんだ、と思った。一瞬だけ迷って、結局は言う。
「ねえ、ディミトリオス、秘密、守れる?」
問うと、真剣な顔をして彼は頷いた。それを確認してから、顔を近づけ囁いた。
「お父さまとお母さまには内緒だけど、わたし、本当はあなたよりずっとお姉さんなの。だから――……。
だから、わたしが、あなたのお姉ちゃんになるわ。辛いことや、寂しいことがあったら、なんでもわたしに相談するの。
ねえ、約束できる? あなたはわたしの言うことを、よく聞くの。そうしたら、絶対にわたしがあなたを守るから。ずっと側にいるわ」
それはひらめきだった。
彼をまともな価値観を持つ――つまり皇帝になろうだなんて野望さえ抱かない人間に育てれば、テミス家は不幸から一歩遠ざかる。そうすれば、ディミトリオスは野心のためにアリアを探さない。
イリスが仮に聖女とされて、いずれはアリアが発見されても、最悪な形で地位を追われることはない。ディミトリオスが家族を守れる長男になれば、テミス家も彼自身も、イリスも救われるのだ。
「よく、分からないけど」ディミトリオスは、子供らしい無邪気な笑みを浮かべた。「ぼく、イリスのこと好き。やくそく、するよ」
わたしが小指を差し出すと、ディミトリオスは不思議そうな顔をした。彼の手をとって、小指を重ねる。
「こうして、約束するの」
指切りだった。指が触れ、離される。
わたしたちの約束は交わされた。
わたしが笑うと、彼も笑う。
悪役になる前の、まだかわいい子供だ。この少年の将来は、わたしにかかっているのだから、責任は重い。
まどろみの中で、ディミトリオスがわたしの手を、握ったのが分かった。わたしも小さく握り返す。
冷たい牢屋での出来事を思った。あの時も、ディミトリオスは震えるイリスの手を握ったのだ。
イリスは、どんな思いで彼と話したんだろう。どうしてすべてを許して、受け入れることができたのかな。わたしには無理だろうな――。そんなことを、眠りに落ちる寸前まで、考えていた。




