奴から聖女を奪い取れ
ルシオ・フォルセティ
ルシオ・フォルセティは内心ひやひやしていた。
ディマと皇帝が顔を合わせるのは危険だ、防がなければとそればかりに頭がいった。
狭いクローゼットの中に入り込むと、すぐに部屋の扉が開く。現れたのは、やはりオーランドだった。
上等ではあるものの、正装ではなく旅の服だ。着替えもせずに、イリスのところへとやってきたらしい。
恋人たちの逢瀬を物入れから見守るなど、まるで間男そのものだが、今のところのルシオの最善策はこれしかなかった。
護衛を外で待たせ、オーランドは一人で中へと入って来る。すぐ隣で息を潜めディマと、思わず見比べた。
(こいつら、血縁上は従兄弟に当たるんだよな)
果てしなく尖る危うさがあるディマと柔和な雰囲気を纏うオーランドとではまるで似ていない。
似ているのはむしろオーランドとイリスに思えた。彼ら二人ともリオンテール家の血が混ざっているのだから、遠縁に当たる。
クローゼットの扉の隙間から、オーランドの様子を窺っていた。
彼はイリスの眠るベッドに近づくと、じっと寝顔を見つめる。
ディマはそんな彼を凝視していた。
やがてオーランドは、ベッド脇の椅子に腰掛けた。先程まで、ディマが座っていた場所だった。
「イリス」
オーランドが彼女の名を呼ぶ。親愛と心配が混ざった声色に、皇帝にも温かな人間味のある感情があったのかと意外に思う。
その時、信じられないことが起きた。
「陛下?」
涼やかな、声がした。
ディマの体がびくりと震えた。一ヶ月もの間目覚めなかった彼女が、驚くことに目を覚ましたのだ。
この角度からでは、イリスの顔は見えない。だがオーランドの表情には、明らかな安堵が浮かんでいた。
「イリス。目を、覚したのか。私の呼びかけで?」
声は震えているように思えた。
だが彼女が真っ先に気にしたのは、目の前の婚約者ではなく、自身の兄のことだった。
「ディマは――……。彼は、どこにいるの? ディマを見ました。生きて、いました」
「無事だと聞いた。この街に滞在しているらしい」
この街どころか、すぐ側にいる。ルシオは恐ろしくてディマの顔が見れなかった。
夢の続きを見ているかのような、ぼんやりとしたイリスの声が続く。
「誰かがずっと、話しかけてくれていたような気がするの。誰かがずっと、手を握ってくれていた気がするの……。だからわたし、とても安心して眠っていました。陛下が、お側にいてくださったのですか?」
「ああ。私がずっと側にいたよ」
即座のオーランドの返事に、ルシオは仰天した。これほど堂々と嘘を吐く人間を、自分以外に見たことがない。
(くそったれ! ずっと側にいたのはディマだ!)
だがルシオの衝撃はまだ続いた。オーランドがイリスの前にかがみ込み、キスをしたのだ。
瞬間、ディマの体全体に燃えるような怒りが宿ったのが分かった。今すぐ外に飛び出し、オーランドを殺してしまうかとさえ思った。
(頼むから堪えてくれ、堪えてくれよ!)
ルシオには、ディマの怒りがいかほどかなど想像できない。愛する少女が自分でない者とキスをして髪を撫でられている姿を見て、どんな気持ちを抱くのかなど分からない。そこまで深く人を愛したこともない。
ディマは、感情を抑えることに成功したようだ。彼の両手が握りしめられ、噛んだ唇から血が滲んでいようとも、オーランドは気づかない。
イリスから顔を離した後で、オーランドは言う。
「もう心配はない。私が側にいるから」
イリスは返事をしたようだが、小声で聞き取ることはできなかった。それでもオーランドは満足げに微笑む。
「ああ、だが今はもう少し眠るといい」
イリスは再び、眠ったようだった。
しばらくオーランドは彼女の側に佇み、やがて出て行く。
ほっと息をついたルシオは、ディマに目を向けた。
意外なことにディマは冷静に思えた。怒りを覚えていたのは、むしろルシオの方だった。
「おいディマ、今すぐ聖女を揺り起こして、ずっと側にいたのは自分だと言え! そうしてキスしろ! 奴から聖女を奪い取れよ!」
だが彼は、静かに首を横に振る。
「皇帝が来てイリスが目を覚ましたんだ。……だとしたらそういうことだろ」
つまりディマはこう言いたいらしい。イリスの側にいるべきなのはオーランドだと。ディマは冷静なわけではなかった。打ちのめされているだけだ。
ここに来て、オーランドに向いていたルシオの怒りが、そのままディマへと方向を変えた。
「お前って本当に馬鹿だな!」
言いながら肩を殴る。
「イリスが目を覚ましたのは、この一ヶ月献身的に世話をした奴がいたからだろうがよ!
彼女を処置したクロード・ヴァリのおかげだろうし、彼女の体を拭いて綺麗にしてやった修道女たちのおかけだろうし、そうして時に見舞いに来た俺のおかげだ。だが一番は、手を握って話しかけ、ずっと側にいた奴のおかげだ! ……お前だよ!」
だがディマの表情は晴れないままで、黙り込んでしまった。苛立ちとともにルシオはさらに言う。
「もっと図に乗れよディマ。お前の体に流れる血は極上だ。望めば王位継承権だって――」
「言うな!」
ようやくディマに表情が戻るが、明るいものではなかった。ルシオの口から乾いた笑いが漏れる。
「なぜ隠す?」
「僕にとって誇りじゃないからだ。二度と言うな。いいか、他の人間にもそのことを言ったら、僕はお前を許さない」
ディマに常につき纏う影が、いつにも増して濃くなった。
「暗いお前は色気があって魅力的だよ。だけど今回に限って、俺は嫌いだね」
ふん、と鼻を鳴らして、物入れから出ようとした時だ。機会を失ったことに気がついた。
イリスが目覚めたと伝えられたのだろう。クロードや、他の司祭達が部屋に入って来たのだ。喧嘩まがいの言い合いをした友人と狭い場所にいるのは気詰まりだが、クロードに咎められるのは更に嫌だ。
しかし隠れ続けることはできなかった。部屋に入った瞬間、クロードが眉を顰めこちらを厳しく見たからだ。
「そこの二人、出てきなさい」
第六感が優れている男なのだろう。迷いなくこちらに向かって声をかけて来た。
観念し、ディマと二人、外へと出る。司祭たちが目を丸くしている中、クロードが険しい声を発する。
「陛下が彼女を見舞う間中、そこにいたのか?」
「先にいたのは俺たちだぜ。たまたま二人してクローゼットにいたところに、あいつが入ってきて出てっただけだ」
答えながら部屋を出るべく、ディマを扉へと引っ張っていく。
「待ちなさい。君たちにはしばらく仕事を頼みたい。街の外の領地へ趣き、被害状況を調べてきてくれたまえ」
「司祭が何の権限があって俺達に仕事を命じる?」
反抗心を覚えルシオは言うが、クロードに言い返される。
「ヘルにおいて、私も一部の権限を与えられた。司祭ではなく、一時的に総督補佐だ」
「イリスが目を覚ましたんです。僕は行きません」
ディマもそう言うが、クロードは首を横に振る。
「人手が足りない。体が丈夫で、それに増して精神が健康な、信頼できる者たちが欲しい。彼女が目覚めたのなら、君に憂いはないはずだ。回復を待って、ゆっくりと会えばいい」
この男、人の心がないのか? 血が通ってないのかよ。
そう思いクロードを見るが、存外真剣な表情をしていた。案外彼もディマを心配していて、オーランドから遠ざけたいだけなのかもしれない。
(だとしたら、なんて分かりにくい男なんだ)
心の内で苦笑し、そうして反抗心がわずか薄れるのを感じた。
確かに大聖堂にいつまでも入り浸れば、オーランドと出くわすだろう。いずれ対立が訪れるとしても、少なくとも今は、この凪のような時間を失いたくなかった。続けての争乱は御免だ。
「分かった。前向きに考えとくよ」
そうクロードに返事をすると、もの言いたげなディマを半ば無理矢理部屋の外に押し出した。部屋を出て、ルシオはディマに言う。
「さっきのことだが、俺は言わんぞ――」
ディマの出生の秘密に対してだった。
「――誰にも言わんし、二度と口にも出さないが、心の内ではずっと思うことにした」
「何をだ」
胡散臭そうに、ディマの目が細まった。
「お前こそが、それに相応しい人間だとな」
「何にだ」
再び繰り返されたその問いには、答えなかった。ディマはますます眉間に皺を寄せる。
相応しいのは、イリス・テミスの隣にいるべき人間としてだ。
だが同時に、もう一つ、ルシオは確信していた。
ディミトリオスこそが、ローザリアの上に立つべき人間に、相応しいのだと。




