1-2
――奇跡。
私は今、小さな“奇跡”を目の当たりにした。第一回投票での四票集中。それも、まったく議論を交わさずに行った投票でだ。目の前に座る八人は今、いったいどれほどの確率の壁を越えたというのだろう。
これまで余裕綽々の様相だった傍聴席から、おいおい……と、初めて焦燥の声色が聞こえてきた気がした。この選考会議における、公正委員会にとっての理想。それはきちんとした議論の末に正当な人柱が選任されること。それゆえに公正委員会から私に与えられた使命、それは“選考会議を長引かせ、選考委員の議論を十分に引き出すこと”であった。
もしも私がその意向に応えられなかった場合、果たしてどんな処罰が待っているのかは……。公正委員会だけではない。気が付けば私の顔からも、余裕を気取った鉄仮面が剥がれていた。
「四票……! 会議は終わりだ!」
選考委員の中から歓声が上がった。
今の彼らを占める最も大きな感情は、猜疑心。恐らくまだ自分が置かれている状況、または私から聞かされた話を信用しきれてはいないというのが現状だろう。そして次に大きな感情が、“とにかくこの場から逃げ出してしまいたい”ということ。事の真偽などどうでもいい。疑問も不安も責任も。会議も投票も、すべてを投げだしてこの場から一刻も早く立ち去ってしまいたいと強く願っているはずだ。それが野太い歓喜となって唸りを上げた。「会議は終わりだ!」
私は“ごく個人的な理由からくる苛立ち”を乗せて、右の裏拳で黒板をけたたましく鳴らした。
「静粛に。どうやら、“過半数”と“半数以上”とを混同している阿呆がいるな。過半数の定義は“有権者を二で除した値の整数部分に一を加えて得られた数”……、つまりこの選考会議においては、過半数とは五票以上のことを指す」
心臓の鼓動がおさまらない。そのことを決して悟られまいと、必死に声色を揃えて言葉を紡ぐ。頭の中がまとまらない。視界が揺れる。冷や汗がワイシャツの下を這う。
瞬間、微かに湧きかけた反論の蒸気を私は視線一つで封殺してみせた。選考委員の顔を一つ一つ、真正面から視界の中心に据えてゆく。
「なにか異論があれば、どうぞ」
顎をくっと上げて、今度は見下す目線で彼らに発言を促した。
「なにもなければ会議を進めよう」
――とは言え、だ。
高圧的な態度とは裏腹に、心中穏やかではなかった。今、この場のイニシアチブを握っているのは私ではない。隠そうとも覆いきれない、どこかに漂う弛緩した空気。そう、既に彼らは、この会議の終了を確信しているはずだ。彼らは議論することを放棄している。“誰をイジメるか”などということを馬鹿真面目に論ずるよりも、兎にも角にもこの会議を打ち切ってしまおうとしている。ならば、どうする。票を固め、さっさと人柱を確定してしまえばよい。ならば、どうする。格好の標的がいるではないか。
稲田 正太郎 四票
誰もなにも言わぬ。だが先ほどまでとは明らかに違う、その緩んだ表情が代わりに物語る。
会議は終わりだ。会議は終わりだ。会議は終わりだ。会議は終わりだ!
誰も、そのことを声に出して意思の疎通を図ろうとはしない。以心伝心の心得が舵を切る。
確率の壁を乗り越えたがゆえに得られた、会議終了の必勝法。私は誰かが口を開くのを心の底から望んだが、第一回討論と同じように、誰一人としてその口を開くことはなかった。皆、一様に理解しているのだ。このまま時間が過ぎればこの会議を終えられるということを。ならば、波風立てずに平和裏に。私はその波風を誰かが立ててくれるのを切望した。渇望した。
だがそれでも、あまりにも短い三十分はサラサラと音を立てて過ぎ去ってゆく。阿多福のお面のその奥で、暗く光る瞳が私を睨めているような気がしたのは思い過ごしではないだろう。
頬を伝る冷や汗が教壇に落ちた。




