ティフォンふたたび
神話が語る「無常の実」が何なのか…?
わからないまま、フィルたちは再びティフォンのもとへ。
「…玉藻様、もう一つ、いいですか?」
リネアは続けて玉藻に訊いた。
「申してみよ」
「フィル様の前に九尾の意識だった方は、もう残っておられないのですよね?その方はどうなったのですか?」
「フィルの前の意識は、すでに九尾と同化し、自我を失っておる」
「九尾と同化…?」
フィルが不思議そうに繰り返した。
「そうじゃ。最初に九尾が言うたであろう?『お前が摩耗し己の価値を見失ったとき、お前は我と完全に同化して溶けていく』と。…忘れたのか?」
呆れたように言う玉藻から、フィルはそっと目を逸らす。半ば忘れていたが、そういえば聞いたような気もする。
玉藻はコホンと咳払いして、質問したリネアの方に目を向ける。
「フィルの中に宿る『九尾』とは、大妖狐としての力、そしてこれまでに蓄えた膨大な知識や経験の集まりじゃ。一応九尾自身にも自我のようなものは残っておるが、当代の意識、つまりフィルの自我が強いうちは表に出てくることはない。だが、九尾が言うた『摩耗』、つまり当代の意識が自らの生に関心を無くすと、九尾の本能に溶けていき、やがて自我を失って完全に飲み込まれ、同化するのじゃ。先代の意識もそうして消えた」
「では、玉藻様と妲己様は、どうして消えずに残っておられるのですか?」
「麿と妲己は、生への執着が強過ぎるのじゃろう。己の死に様が無念で堪らず、死にたくない、最後の最後まで足掻いてやると思っておるからのぅ…だから、なかなか摩耗せず、次代に九尾を譲っても自我が消えなかった…いや、消えることができなかったというべきかの。だからこうして九尾の中に異物として残っておる」
(妾まで一緒にしないでくれるかしら…まぁ、全然違うとは言い切れないけど)
フィルの中で妲己がぼそりとつぶやく。
「それって、何か意味があるんじゃないの?」
フィルが訊いた。
「あぁ。麿と妲己は、九尾の中に居候する代わりに、九尾の代替わりを手伝っておる。宿主である九尾が滅ぶようなことになれば、当然我らも消えてしまうから、持ちつ持たれつというやつじゃ」
「代替わりを手伝う?」
「…本来であれば、当代の意識が完全に九尾と同化してしまう前に次代に相応しい者を見定め、自らの意思でその者を食うことにより、代替わりが果たされる。だが、歴代の意識の中には、摩耗が早すぎて、次代を取り込まぬまま自我を失ってしまう者もおってな。そういう時は、我らが一時的に表に出て代わりを務める。…上手く代替わりを繋いでいくための備えというわけじゃ。ちなみに、フィルの先代の意識も、次代を取り込まぬうちに溶けてしもうた。だから麿と妲己が、次代としてフィルに白羽の矢を立て、取り込んだのじゃ。都合よく死にそうになっておったしの」
「都合良く、ねぇ……」
口を尖らせながらも、なるほど、とフィルは納得する。フィルが取り込まれた時、九尾と一緒にいたのは妲己と玉藻。先代の姿がなかったのは、そういうことなのか。
「なるほど…これまでに九尾様の意識となった方々は、必ずしもフィル様や妲己様、玉藻様のようなお強い方ばかりではない、ということですね?…それは、次代にふさわしい者を正しく見極められなかったということでしょうか?」
「そうじゃ。九尾の力を受け継いだとて、全知全能になるわけではないからの。一見、相応しく見える者でも、その中身が伴っていないこともあるのじゃ。しかし、代替わりのために他者を食うてしまえば、否が応でもその者に意識を明け渡すことになる。やり直しはきかん。ある意味、賭けじゃな」
リネアは眉を寄せて何やら考えていたが、しばらくして視線を床に落とした。
話が終わったところで、フィルはリネア、メリシャ、パエラを背に乗せて王宮を出た。向かう先はティフォンのところだ。
パドキアに暮らすアルゴスたちの避難準備が整うまでには、まだ数日かかる。北に帰ってくれるよう説得するか、それが無理なら少しでも足止めする必要があった。
走ること数時間。パドキアの北、荒涼とした高原の中にティフォンの姿を見つけた。竜本来の姿には戻らず、まだ竜人の姿をとっていたが、先日フィルたちと戦った場所からは、少しパドキアに近づいている。
だが、虚ろな表情でゆっくりと南へ歩く姿は、その気になれば国をも滅ぼせる最強の竜種だとはとても思えなかった。だが、その力が失われたわけではないし、こうして南へと向かっているのはやはりフィルを求めているのだろう。
フィルは注意深く様子を伺いながら、少し離れた場所に着地し、背に乗せていたリネア、メリシャ、パエラを降ろした。九尾の姿はそのままにして、リネアたちを守るようにティフォンと向き合う。
「あれが、ティフォンなの?竜って聞いてたけど…、人みたいに見えるよ?」
パエラが、ちょいちょいとリネアの袖を引っ張りながら尋ねる。
「はい。あれは竜が変じた姿です。竜の姿に戻れば、フィル様の数倍の大きさになりますよ」
「そ、そんなに大きいんだ…」
リネアの答えに、パエラの頬が引きつる。この前は『みんなで戦えば』なんて言ってしまったが、そんな大きさの竜が相手では、万の軍勢で戦ってもダメかもしれない。
「リネアちゃん、怖くないの?」
「怖いですけど、話ができる相手です。…なので、いきなり襲い掛かってくことはないと思います」
リネアは、自分達の前に立つフィルを見上げ、そしてその先にいるティフォンに目を向けた。
「みんなはここにいて。わたしが話をしてくる」
ティフォンから目を離すことなく、フィルが言った。
「パエラ、リネアとメリシャをお願い。…ここで戦うつもりはないけど、もし何かあったら、二人を連れて逃げて」
「フィルさまはどうするの?」
「適当に戦ってパエラたちが逃げる時間を稼ぐ…大丈夫。必ず後を追うから、安心して」
フィルは落ち着いた声で言った。もう一人で犠牲になるつもりはない。リネアと約束したのだから、必ず生き延びる。
「…わかった。でも、必ずだよ」
「わかってる。必ず後を追うから」
フィルはもう一度繰り返した。
「フィル様、お気をつけて」
顔を上げて見つめるリネアに頷きを返し、フィルはゆっくりとティフォンに近づいて行った。
フィルを見送ったリネアは、パエラに背負われているメリシャに顔を向けた。
「メリシャ、お願いがあります」
「ん?メリシャに?」
「はい。『見て』もらえませんか?」
「え…?」
リネアの言葉に、メリシャはぽかんと口を開ける。聞いていたパエラも信じられないものを見るようにリネアを凝視した。
これまでリネアは、そんなことを一度も言ったことはなかった。フィルと同じく、メリシャには未来を『見』ないよう言っていたのに。まさかリネアが『見て』ほしいと言い出すなど、思いもしなかった。
「ど、どうしたの?!リネア、もしかして、フィルが危ないの?!」
慌てて言うメリシャの頭を、リネアは優しく撫でる。
「ごめんなさい。誤解させてしまいましたね。フィル様はきっと大丈夫です」
安心させるように微笑んだリネアは、だがすぐに表情を曇らせた。
「メリシャに『見て』ほしいのは私のことです。…私はこれから、ひとつ賭けをしようと思います。その賭けに勝ち目があるか、教えてください」
「どういうこと?リネアちゃん、何をするつもり?フィルさまはそれを知っているの?」
「メリシャ、パエラちゃん、聞いて下さい」
リネアは、決意を示すように自分の胸の前で重ねた拳をぎゅっと握り、自分が考えていることを語り始めた。
「ティフォン、聞こえる?」
「お前か。我を滅ぼす方法でも見つかったのか?」
声をかけたフィルに、ティフォンはゆらりと顔を向けた。
「いいえ。今のわたしでは無理。だから、このまま北へ帰ってくれないか、頼みに来たの」
「帰れと?…我にまだ虚しく生き続けよというのか?」
「ごめんなさい。でも、いつか力をつけて、あなたを滅ぼせるようになる。それまで待ってほしい」
ティフォンは気だるそうに身体を捻り、フィルに向き直る。
「…」
しばらくの間、じっとフィルを見つめた後、ティフォンはおもむろに言った。
「待てぬ」
瞬間、大きく開いたティフォンの口から炎が放たれた。跳び退いて避けたフィルは、ティフォンに呼びかける。
「お願い!退いて!」
「待てぬと言った!これ以上、我は生きていたくないのだ。そなたの本気を出して我を討て。逃げるのなら、我はどこまででもそなたを追い、その途上の全てを消し去ってやる!」
ティフォンは、ゆっくりとフィルに近づいてくる。
「…っ!」
フィルは大量の狐火をまとい、ティフォンに突撃した。
「いいぞ!それでいい!」
口角を吊り上げ、両腕を広げて待ち受けるティフォンに、フィルは正面からぶつかった。鋭い牙が並ぶ口を広げ、ティフォンの喉笛を喰いちぎりにかかる。
ガリッと嫌な音がして、フィルはティフォンの首を咥えこみ顎に渾身の力を込める。同時に狐火がティフォンの全身を包み、火柱となった。
だが、何も感じていないかのように、拳を固めたティフォンは、フィルの腹を殴りつける。
「まだ温い。もっと力を出して見せよ!」
「ぐはっ!」
内臓を吐き出しそうな衝撃とともに九尾の体が弾き飛ばされ、地面に打ち付けられた。激痛に身をよじりながらも、フィルはすぐに立ち上がり、ティフォンに向き直る。
ティフォンの姿は、傷一つ負っていないように見えた。
やはり今のわたしでは歯が立たないのか…フィルは腹の痛みに顔をしかめつつ、奥歯を噛みしめた。
次回予定「リネアの賭け」
メリシャに未来を『見る』ことを頼んだリネア。
メリシャを信じて、リネアは大きな賭けに出る。




