初めての喧嘩
一人でティフォンの囮となる決意をしたフィル。
しかし、それを悟ったリネアは、初めてフィルに反抗します。
リネアの目は、フィルをじっと睨んでいた。
「リネア…」
「フィル様、まさかお一人でティフォンのところに行かれるつもりではありませんよね?」
リネアには珍しい、責めるような口調だった。
「……」
フィルは黙って俯く。どう言えばリネアは分かってくれるんだろうか。
「リネア、わたしはリネアたちを守りたいの。メリシャもパエラも、イネスもミュリスも、それにサエイレムにいるみんなも。…散々考えたけど、他に方法がないの。だから、わかって。お願い…」
自分でも狡い言い方だとは思った。でも、リネア以外の命もかかっていると言えば、優しいリネアは我慢してくれると思った。
「…フィル様…!」
リネアはフィルに近づくと、フィルの両肩に手を掛け、強く掴んだ。指先が肩に食い込むほどに。
「リネア…ちょっと、痛い…」
戸惑うフィルに、リネアは声を上げた。
「フィル様、どうしてそんなことを仰るのですか?みんなを助けるために、黙ってフィル様を見送れと仰るんですか?私が、フィル様の仰ることなら何でも聞くと思っているんですか?!」
リネアがこんなに怒りを剥き出しにしてフィルに接したことがあっただろうか。フィルは驚いて顔を上げ、リネアを見つめる。
「嫌です。絶対にフィル様を行かせません。そのためにメリシャやパエラちゃんが死んでしまうとしても、サエイレムが滅びるとしても、私はフィル様を行かせませんから!」
メリシャたちが死んでもかまわない、そうともとれるリネアの言葉に、フィルも言い返した。
「リネア、どうしてそんなこと言うの!たった1人と、他のみんな全員と、比べられるわけないじゃない。リネアはそんなことがわからない娘じゃないはずだよ!」
「わかりません!全然、わかりません。私にとって、その1人は『たった1人』ではないんです。どうしてフィル様は、みんなの命の前に、ご自分の命を大事にしてくれないんですか!私は他の誰よりもフィル様が大事なんです。フィル様さえ生きていてくれたら、それでいいんです!」
「今夜のリネアはおかしいよ!」
「おかしいのはフィル様です!」
互いにだんだん声が大きくなる。不意にパンッと高い音がした。思わずリネアの頬を叩いてしまったことに気が付いて、フィルは信じられないように自分の手を見る。だが、次の瞬間、フィルの頬にも鋭い痛みが走る。リネアに叩き返されたのだと気付くまでに、数瞬かかった。
「フィル様のわからず屋!」
リネアはそのままフィルを押し倒し、馬乗りになった。
「リネアこそ!どうしてわかってくれないの?!…リネアは、誰よりもわたしのことをわかってくれると思ったのに!」
「そんなこと…わかりたくありません!フィル様こそ、私の気持ちをわかって下さらないじゃないですか!」
覆い被さるリネアを押し退けようと、フィルはもがく。
「どう考えても、わたしがティフォンをどこかに連れて行くのが一番良いんだよ。そうしないと、サエイレムだって安全じゃない。わたしはリネアたちに幸せに暮らしていって欲しいんだよ!」
「それじゃ、フィル様だけが幸せになれないじゃないですか!私はそんなこと望んでいません。全てをフィル様に押しつけて、私は幸せになんかなりたくありません!」
「じゃぁ、どうすれぱいいって言うの?!いい方法があるなら教えてよ!」
「…っ!そんなの、わかりません。本当に他に方法がなかったとしても、私は絶対にフィル様を行かせませんから!」
「それじゃ何の解決にもならないじゃない!リネア、少し落ち着いて!」
「なんと言われても私の気持ちは変わりません!フィル様を離しません!」
全く噛み合わない。どうしてこんなことになったのだろう。
これでもうお別れになってしまうのに、最後の最後でリネアと喧嘩しちゃうなんて…フィルは悲しくなってきた。
「リネア、もう止めようよ。わたしはリネアと喧嘩なんかしたくないよ…最後くらい…笑って見送ってよ」
フィルはそう言って身体を力を抜く。リネアも、ピタリと動きを止めた。
「フィル様……フィル様ぁ…そんなこと言わないで下さい…最後だなんて、嫌です。笑って見送るなんて、できるわけないじゃないですか…」
フィルの頬に温かい雫がポタポタと垂れる。
「嫌です。フィル様がいなくなるなんて、嫌なんです…お願いですから、行かないで下さい。ずっと側にいると、誓ったじゃないですか」
「…リネア…」
リネアはフィルの身体にすがりつき、声を上げて泣き始める。
「私を…置いていかないで……私を…ひとりに…しないでください…」
子供のように泣きじゃくりながら、リネアはフィルの服を握りしめていた。
「私にはフィル様が一番なんです!メリシャやパエラちゃんがいてくれても、フィル様がいなくなったら、独りぼっちと同じなんです!」
これまで、フィルが戦いに赴く時に、こんな気持ちになったことはなかった。それはフィルが九尾の力を持っているから。何があっても大丈夫。必ず帰ってきてくれると信じていたから。
でも、今回は違う。ティフォンには九尾の力も通用しない。
バルコニーで手すりを握り締めて泣くフィルの様子を見て、リネアは直感した。フィルは1人で行くつもりだ。自分を囮にして、ティフォンをどこか遠くへ連れて行くつもりなのだと。
フィルがいなくなる。二度と帰ってこない。
そう思ったリネアが感じたのは、気が狂いそうな恐怖だった。
ここでフィルを行かせたら、大好きな笑顔も、優しい温もりも、永遠に失ってしまう。そんなの絶対に嫌だ。フィルにどう思われようと、絶対に離すまい。だから、初めてフィルに食ってかかった。
「…フィル様がいなくなるなんて…そんなの、耐えられません…私はフィル様のお側でないと、生きられません…」
「リネア…」
だんだん掠れるように声が小さくなっていくリネアの頬に、フィルはそっと手を添えた。
「フィル様…」
ひとしきり泣いたリネアは、くすんくすんとしゃくりあげながらゆっくりと体を起こした。フィルの上に馬乗りになったまま、涙に濡れた瞳でフィルを見つめる。
「どうしても行くと仰るんですか?」
答えに詰まったフィルの目の前で、リネアは懐からナイフを取り出した。フィルと出会ったときに持っていた、あのナイフだ。
「それなら…私は、フィル様に助けて頂いた命、フィル様にお返しします」
ナイフを抜き、その切っ先を自分の胸に当てる。
「そんなのダメだよ!」
リネアの自害宣言にフィルは慌てた。必死に手を伸ばし、ナイフを掴んで引き寄せる。
「離して下さい。フィル様」
「ダメ!リネアが死ぬなんて、許さない!」
フィルがリネアの手からナイフを奪い取ると、リネアは震える手で自分の身体を抱き締めた。
「どうしてですか?フィル様がいなくなるのは良くて、私がいなくなるのはダメなんですか?…フィル様、あんまりです…残酷すぎます」
「だって…それは…」
フィルは口ごもる。自分がいなくなって、残された者の、リネアの気持ちはどうなる?…もしも、リネアと逆の立場だったら、自分はそれに耐えられるのか?…みんなを助けるためだと英雄ぶってみても、リネアを残して行って、本当に後悔しないのか?
…昨日、たった一時、リネアが攫われただけで、自分はどれほど取り乱した?ティフォンのところへ行けば、おそらくリネアと会うことは二度とない。
自分は何百年と生きられる。いつかティフォンを倒せる時が来るかもしれない。けれど、その時にリネアはもういない。とっくに一生を終えているだろう。
本当に…これで最後になる…改めて想像したら、息苦しくなるほど胸が締め付けられた。
どんなに辛いことをリネアに押しつけようとしていたか。…嫌だ。リネアにそんな辛い思いをさせたくない。
二度とリネアと会えなくなっても本当にいいのか。…嫌だ。リネアともう会えないなんて耐えられない。
「ごめんなさい…」
ポツリと謝罪がフィルの口をつき、止まっていた涙が溢れた。
「リネア、わたし、ひどいこと言ったよね。…リネアがどんな辛いか、わたしだってそんなの耐えられそうにないよ。本当に、ごめんなさい…」
「フィル様、私こそひどいことを言ってしまいました。……でも、フィル様、お願いですから考え直してください。他に良い方法があるかどうかはわかりません。けれど、どうか1人で行くなんて悲しいこと言わないでください…」
リネアはフィルの上から退き、テラスの床にぺたりと座り込む。
フィルは身を起こし、リネアと向かい合った。そして、リネアをぎゅっと抱き締め、涙で濡れた頬をリネアに擦り付ける。
「1人で行くなんて、もう言わない。わたしもリネアと離れたくない…絶対、離れたくないよ…」
「フィル様、私はずっとお側にいます。どこにも行きません。フィル様から離れません…フィル様がティフォンのところに行くのなら、私も連れて行ってください」
リネアもフィルの背に腕を回し、力を込める。身体を寄せ合いながら、フィルとリネアは静かに泣いた。
「あのね……思い付いたんだけど、もしも…どうしても良い方法が見つからなかったら、リネアを食べていい?…リネアに九尾の意識を譲って、わたしは妲己たちと一緒に中に残る。ひとつになれば、何があっても、ずっとリネアと一緒にいられるから。…その方法なら、許してくれる?」
小さく笑ったフィルに、リネアは恥ずかしそうに頬を染めて頷く。
「…味見、なさいますか…?」
「うん…」
ゆっくりと二つの影が倒れ込み、一つに重なった。
次回予定「無常の実」
リネアの必死の訴えに、囮になることを思い直したフィル。
ティフォンの脅威に対するためのヒント、それは神話の中にあった…?




