サエイレム防衛戦-フィルの決着 前編
大グラウスを討つため、フィルとパエラ、シャウラはバレアル郊外のヴィラへと乗り込む。
夜が更けたバレアルの港。頭上に月はなく、ただ星の瞬きだけで夜空を占めている。
岸壁に停泊した船の上で、フィル、パエラ、シャウラが出発の支度を整えていた。
フィルは動きやすい兵士姿だが、シャウラは皇帝に謁見した時の衣装を身に着けていた。動きやすいようマントは省いているが、シャウラの豪華な姿を見て、パエラが羨ましそうに口を尖らせた。
「シャウラ、いいなー。あたしも帝都のお供だったら、いい衣装を仕立ててもらえたのに…でも、そんなので戦えるの?」
パエラは、少しからかうようにシャウラに言う。
「あぁ。見た目に騙されるが、ラミア族が得意な隠し武器をたっぷり仕込んでいる」
シャウラは、腕飾りに仕込まれた毒針を抜いて見せた。
「そりゃ凶悪だわ…」
「そうだ、これはあたいよりもパエラが着けておいた方がいいだろう」
シャウラはそう言って、銀糸のネックレスをパエラに差し出す。
「あたしに?」
不思議そうな表情をするパエラに後ろを向かせ、シャウラはネックレスをパエラの首に巻いた。少し照れくさそうに微笑みを浮かべ、パエラはネックレスを触る。
「きれい…」
細い銀糸の束を鎖のように編み込んで作られたネックレスは、暗い中でもほのかに輝いている。
「糸の扱いはパエラの方が巧みだからな。いざとなれば、これで人間の首くらいは落とせる」
「は?」
高価なアクセサリーにうっとりとしていたパエラの手が止まる。
「あぁ、これね」
「フィル様、このネックレスって…?」
「中に極細の鋼線が仕込んであるわ。相手の首とかに巻き付けて力を籠めれば…」
「あー、そうなんだ…」
すっかり感激の失せた様子のパエラに、そのうちパエラにも衣装や装身具を仕立ててあげよう、と思いながらフィルは苦笑する。
「フィル様…お気をつけて」
「フィル、ちゃんと帰ってきてね」
「大丈夫。朝には帰ってくるから。…起きてないで、ちゃんと寝るのよ」
心配そうなリネアとメリシャを軽く抱き寄せ、フィルは笑って言う。
「さて、それじゃ行きましょうか」
『はい』
リネアとメリシャに軽く手を振り、フィルはパエラとシャウラを伴って船を降りた。夜の港は人影もなく、静まり返っている。
3人は黙って頷き合うと、港の暗がりに消えていった。
バレアルの入り江を見下ろす岬の上、その全体を敷地とする大グラウスのヴィラは、漆喰塗りの白い壁にオレンジ色の瓦屋根を載せた小ぎれいな建物であった。正門に続く通路の植え込みに隠れて、屋敷の様子を伺う。幸い、宴などが開かれている様子もなく、ヴィラの中は静まり返っている。
「フィルさま、ちょっと中の様子を見てくるよ」
パエラは身軽に跳び上がると、ヴィラを囲む塀を越えて音もなく闇に消えていった。
「フィル様、警備の者は。正面門に2人、屋敷の入り口に1人、外にいるのはそれだけです。特に警戒を厳重にしている様子はありません」
シャウラがそっと囁いた。明かりの少ない庭はほとんどが闇である。だがラミア族は人間を体温によって『見る』ことができる。どんな闇の中だろうと、生きている限り体温は隠せない。
「やれる?」
「容易い事」
シャウラは、するりと身を起こす。
「できれば殺さないでほしいんだけど。殺すのは大グラウスだけにするつもりだから」
「わかっています。即効性の痺れ毒です。数時間は動けず、声を上げることもできません」
シャウラは、するすると闇の中を移動し、まず門にいる二人に死角から毒針を投げる。1人がまず崩れ落ち、直後にもう1人、シャウラの言葉どおり一瞬の悲鳴すら上がらない。そして、シャウラはするりと敷地に入り込むと生垣の陰から屋敷へと近づき、欠伸混じりに屋敷の玄関に立っていた男にも毒針を突き立てた。
見事なものだ。…フィルも感心する鮮やかさだった。
フィルは堂々と正門を抜けて前庭を進み、屋敷の玄関をくぐる。もちろん見咎める者は誰もいない。玄関ホールの先の短い廊下を抜けると扉があり、扉の向こうは中庭だった。中庭を囲むように列柱が並ぶ回廊が設けられ、回廊に沿って部屋が並んでいる。
回廊は、壁に灯されたオイルランプによって、ほの明るく照らされていた。
「堂々と行きたいところだけど、逃げられたら困るからなぁ…」
フィルは、扉の陰から中庭の様子を眺めながらつぶやく。オーソドックスな造りであれば、主要な部屋はこの中庭の周りに配置されるているはずだ。屋敷の主人、つまり大グラウスの寝室や書斎といった部屋も近くにあるはずだ。
近くの廊下の先から何人かの男達が喋る声が聞こえた。どうやら警備兵の控室か何かがあるらしい。
「騒がれると面倒ね。シャウラ、お願いできる?」
「はい。すぐに終わらせます」
シャウラは、するすると廊下を進み、声が漏れている部屋の前で様子をを伺った。そっと扉を開けて投げナイフを構え、テーブルの上にあったオイルランプめがけて投げる。芯を落とされたランプが消え、部屋の中に闇が満ちる。その瞬間にシャウラは突入した。
部屋にいた護衛兵は5人。手近にいた2人に毒針を突き刺し、テーブルの向かいにいた2人には、マントの裏に仕込んでいた投げナイフが飛んだ。窓から外へ逃げようとした1人には、すかさず追いすがって腰から抜いた短剣を一閃。もちろん短剣の刃には痺れ毒が塗られている。そこまでほんの数秒。人が倒れるわずかな音だけがして、廊下は静かになる。シャウラは部屋の扉を閉め、フィルの元に戻った。
「フィルさまー」
天井からするするとパエラが降りてきた。
「どう?見つかった?」
「うん、目標発見。中庭の右側、手前から3番目の部屋。若い娘に相手させてお酒飲んでる。護衛は部屋の入口に2人。部屋の中にはいないよ」
「ありがとう。完全に油断してるみたいね」
「フィルさま、あいつ殺すの?」
パエラにフィルは頷く。
「パエラも一族の恨みを晴らしたいかもしれないけど、ここはわたしに譲ってくれる?」
「あたしはいいけど……わざわざフィルさまが手を汚さなくても、あたしがさっくりやってあげるよ?」
フィルは小さく首を振る。
「ありがとう。でも、これはわたしの仕事。わたしにやらせて」
フィルは、キィッと扉を開けて回廊に踏み出す。そして、回廊を堂々と大グラウスの部屋に向かった。
すぐに、フィルたちの姿に気付いた護衛兵の一人が踏み出し、腰の剣に手をかける。
「誰だ?!」
「サエイレム総督、フィル・ユリス・エルフォリアだ。ベナトリア総督、グラウス卿に用がある」
低い声でフィルが言うと同時に、シャウラの投げナイフが護衛兵に突き刺さる。そして扉の前に残っていたもう一人にはパエラの投網が被せられ、床に転がされた。
フィルは扉の前に立ち、バンッと一気に扉を開け放つ。部屋の中では、長椅子に寝そべった大グラウスが、酌をする半裸の娘に手を伸ばそうとしていた。
「うるさいぞ!」
扉の大きな音に驚き、大グラウスは不機嫌そうな声を上げる。だが、聞き覚えのある侵入者の声にその顔が引きつった。
「グラウス卿、夜分に失礼します」
フィルは、ゆっくりと部屋の中に進み、明かりの中に姿を現した。
「エ、エルフォリア卿、どうしてここに…?!」
フィルを指さし、信じられないように目を見開く大グラウス。フィルの紅い瞳が冷たく大グラウスを見下ろしている。
フィルは、床に座り込んで震えている酌婦の娘に優しい声で言った。
「あなたは早く立ち去りなさい」
「は、はいっ!」
娘は慌てて床に落ちていた布で胸を隠し、部屋から駆け出していく。シャウラとパエラもそのまま彼女を見逃した。
「さて、わたしがここに来た理由はおわかりでしょう?」
大グラウスは、わなわなと口元を震わせて声を絞り出す。
「き、貴様は帝都で…」
「わたしは帝都で裁判にかけられて、処刑されているはずだと?」
フィルはゆっくりと大クラウスに向かって歩を進める。
「以前、警告したはずです。『次に手を出したら、首が落ちる』と」
「ま、待て!何か誤解しているのではないか?わしは、何もしておらん」
「先日よりベナトリアの属州軍がサエイレムに侵攻しています。それはあなたの命令ではないと?」
フィルは、また一歩、前へ足を踏み出す。
「アラクネの里に鉛の酒器と鉛入りのワインを送って彼女らを蝕んだ挙げ句、その里を軍勢に襲わせたのは?…それをわたしがやった事にするため、もはや気が触れた状態の族長リドリアを帝都に連れ去り、証人に仕立てたのは?」
そして腰の剣を抜き、その切っ先を大グラウスに向けた。
「…暗殺専門の傭兵団を雇い、サエイレムに向かう途中のわたしを殺させようとしたのは?」
「ひぃっ!」
かすれた悲鳴を上げて長椅子から転げ落ち、後ずさる大グラウス。
「ち、違う…あれは息子やルギスが…」
語るに落ちたとはこのことだ。暗殺を得意とする傭兵団との契約、魔獣オルトロスの横流し、アラクネ族への工作、帝都にいる小グラウスや部下がやったというのは嘘ではないかもしれない。だが、それは誰のためか?誰の意向なのか?往生際悪く自分を擁護する男に、フィルはギリッと歯ぎしりした。
「だ、誰か!誰かいないのか?!侵入者だ!」
大グラウスは大声で護衛兵を呼ぶ。しかし、すでに護衛兵は全員動けない。屋敷の使用人たちの中には大グラウスの声を聞いた者もいたが、主人を助けるために駆け付ける者は誰一人いなかった。
次回予定「サエイレム防衛戦-フィルの決着 後編」
追い詰められる大グラウス。
執拗にフィルを狙った理由を問われた彼は、思いもよらないことをフィルに告げる。




