サエイレム防衛戦-それぞれの行動
閲兵部隊の帰還に戦意を喪失したベナトリア軍。それに対し、サエイレム側はどう動くのか。
イネスは海の上を飛びながら下を眺めていた。
やがてその視界に北へ向かって航行する一隻の船の姿が入ってくる。イネスは、ぱっと喜色を浮かべて船めがけて降下していった。
「フィル様~!」
声に気が付いて上を見上げたフィルが手を振っている。船尾の甲板に立つフィルの側に、イネスは降り立った。
「ご苦労様。もしかして、伝令の追跡もイネスがやってくれたの?…サエイレムに手紙を届けてもらったばかりなのに…」
「はい。ケンタウロス族への使いにはミュリスが行ってくれたし、他の仲間も敵軍の偵察で忙しいみたいだったので…大丈夫です。それほど遠くまで行ったわけじゃないので」
フィルはその言葉に少し表情を引き締める。
「そう、やっぱりそれほど遠くない場所にいるのね?」
「はい。敵軍の伝令は、ここから北、領境に近いバレアルという港街に入りました」
穏やかな入り江に面したバレアルは、帝国貴族たちの保養地として知られている。帝都からは少し遠いが、海路で来ることもできるため『ヴィラ』と呼ばれる貴族の別荘が幾つかあったはずである。
「伝令は街のどこに入ったかわかる?」
「はい、街の北端の岬にある貴族の別荘です」
「やっぱりね」
バレアルに大グラウスのヴィラがあるのは知っていた。もしかすると、本人は領都イスリースから動いていないかもしれないとも考えていたが、やはり近くまで来ていたようだ。
軍勢がサエイレムを制圧したら、すぐに乗り込んでくるつもりだったのかもしれない。
「イネス、あなたはしばらくこの船で待機。わたしの用事が終わったら、また飛んでもらうことになるから、ゆっくり休んでて」
「はい。フィル様は、これから…?」
イネスの問いにフィルは、まるで近所に散歩に行くかのような口調で言った。
「うん、ちょっと大グラウスを殺しに行ってくるよ」
「エルフォリアの第二軍団?!」
馬から引きずり降ろされたベナトリア属州軍の伝令兵は、信じられない様子で立派な鎧に身を固めた騎兵の姿を見上げた。
ここはサエイレムの北に広がる森の端、ルブエルズ山脈の山麓である。
魔王国側にいる別動隊へ、ハミルカスの撤退命令を伝えるため、休まず馬を飛ばしていた伝令兵は、その途中で行軍中の騎兵の集団に遭遇、逃げる間もなく囲まれ、取り押さえられたのである。
「どうしてこんな場所にいるんだ…」
前の報告を信じるならば、第二軍団は別動隊と戦闘に入っているはずだ。もし別動隊が負けたのだとしても、それからこんな場所まで移動できるはずがない。速すぎる。
「もう伝令は必要ないぞ。今頃、お前たちの別動隊は崩壊している。命令を伝えるまでもなく散り散りで逃げ出しているはずだ」
騎兵の一人が言う。
「なんでそんなことが…あんたたちが別動隊を破ったのか?」
「いや、我々よりも、もっと相手が悪かったな」
困惑している伝令を前に、騎兵たちは笑い合う。
別働隊に襲いかかっているのは、ケンタウロス族の戦士達だ。自分達だって、できればケンタウロス族とは戦いたくない。戦争中は散々苦しめられたが、その分、味方に付けられるのであれば何とも頼もしい。それも、フィルがケンタウロス族からの信頼を得ているが故だ。
「俺は、どうなるんだ?」
伝令兵は、不安そうに騎兵たちを見上げる。
別働隊が負けたのなら、自分の持っている情報に価値はない。しかも自分を捕らえたエルフォリア第二軍団は、どう見ても隠密行動中だ。口封じのために殺され、森に捨てられても不思議ではない。
だが、哀れな伝令兵の命はここで終わりではなかった。
「我々はこれからベナトリアに進軍する。おまえは…そうだな、そのまま故郷に帰るといい。…おい、離してやれ」
上官らしい男の言葉で、伝令兵を取り押さえていた騎兵が手を放す。
「いいのか…?」
伝令兵は思わず尋ねていた。武器は取り上げられたままだが、あっさりと解放されたことが不思議でならない。
「あぁ。ベナトリアはもうすぐ我らが主、フィル・ユリス・エルフォリア様の領地になる。そうなればお前も領民の一人だ、無闇に殺すわけにはいかん」
「ベナトリアの…総督が代わるのか?」
「すぐにわかる。…お前も無事に故郷に帰れよ。せっかく助けたのに、故郷に着く前に行き倒れられたのでは、目も当てられん」
行軍を再開し、目の前を通り過ぎていく第二軍団の姿を見送りながら、伝令兵は戸惑いの表情を浮かべていた。
「よし、街道を空けよ!」
バルケスの指示で、街道を塞ぐように布陣していた重装歩兵隊が、街道の片側に寄った。
空いた街道を通り過ぎていくのは、サエイレムに押し寄せていたベナトリア軍だ。一応の隊列は組んでいるが、その動きはどことなく緩慢だった。
「我々もサエイレムに戻るぞ!」
街道を引き返していくベナトリア軍とすれ違うように、バルケスたちもサエイレムの方向に進み始める。そして、長い列を作るベナトリア軍とその半ばほどまですれ違った頃、馬上のバルケスに声をかける者がいた。
「エルフォリアの軍団長殿とお見受けする」
「いかにも」
頷いたバルケスの側に馬を進めてきたのは、ハミルカスだった。
「私はベナトリア属州軍を預かる軍団長、ハミルカス・ガリウス・デシマス。我が軍に道を空けて頂き、感謝する」
「エルフォリア軍第一軍団長バルケス・マキシマスです。我が主、サエイレム総督より、貴軍が撤退するならば無用な戦闘は避けよとの命令でしたので、それに従ったまで」
「そうか…こちらの反応は見通されていたのだな。総督閣下がおられるなら、ぜひお目にかかり、お詫び申し上げたいのだが」
「総督はここにはおられません」
「…では、どちらに?」
「それはお答えできないが、…この度の侵攻について総督は大変お怒りで、サエイレムに手を出した者にはその報いを受けさせるとの仰せでした」
ハミルカスの顔色が悪くなる。サエイレム侵攻の責任を問われるとすれば、それは軍団長たる自分ではないか。
黙り込むハミルカスに、バルケスは静かな口調で告げる。
「デシマス殿、老婆心ながら申し上げます。もし我が主の心証を良くしたければ、配下の軍団をよくまとめ、この度の戦のために徴兵した領民たちを、皆無事に故郷へと帰すことです。我が主は領民を大切にされる方ですから」
「しかし、サエイレム侵攻の責任は…」
「それは侵攻の命令を下した者、属州の長たるベナトリア総督が負うべきかと。ベナトリアのグラウス卿は、今回の侵攻のみならず、帝都で我が主を罠にかけようとし、…それ以前にも我が主を暗殺しようとした疑いがあります。我が主がグラウス卿を許すことは決してないでしょう」
「…エルフォリア卿を暗殺…まさかそんなことまで…」
驚きつつも、サエイレム総督の怒りの矛先はどうやらグラウス親子に向いているらしいと知り、ハミルカスは内心ホッとする。
「わかった。マキシマス殿、ご忠告感謝する。兵にこれ以上の犠牲は出さぬ」
「…では、我々はサエイレムへの帰還を急いでおりますので、これにて」
ハミルカスに一礼して、バルケスは馬を進める。しばらく進んだところで、離れていくハミルカスの後ろ姿をちらりと振り返った。
あのハミルカスという男、軍事の才はともかく、いたずらに戦闘を拡大しなかったことや情勢を判断して即座に撤退を決めたことなど、あながち無能ではないらしい。こちらに負い目も感じているようだし、家柄も良さそうだ。使い様によっては役に立つかもしれない。バルケスはふと笑みを浮かべた。
サエイレム周辺での組織的な戦闘は、実質的にこの時点で終了した。
そもそも、この戦の勝敗はこの場での戦闘ではなく、帝都でフィルを失脚させられるかどうかにかかっていたのだ。それが失敗した以上、もはや勝ち目はない。
サエイレムを包囲しようとしていたベナトリア属州軍主力は、すでにサエイレムを離れてベナトリア領に向けて撤退中。
そして、魔族領側の別動隊はケンタウロス族に蹂躙されてほぼ壊滅し、一部の生き残りはルブエルズ山脈を越える裏街道目指して逃げる途中である。
エルフォリア軍は、ベナトリア軍の撤退と入れ替わりに、バルケスたち閲兵部隊がサエイレムに入城。
そして、先日密かにサエイレムを出撃した第二軍団は、まもなくサエイレムとベナトリアの領境付近に到着する。そこで一旦待機し、フィルの命令があり次第、ベナトリア領内に進駐する手はずである。
「エリン、サエイレムをよく守ってくれた」
「サエイレムを守ったのはフィル様では?…備えはしましたが、結局、初戦で大型弩弓を撃ち込んだくらいで、戦いらしい戦いはしておりません。もちろんこちらの被害は皆無です」
帰って来た閲兵部隊を出迎えたエリンは、バルケスと言葉を交わす。
「ベナトリアによる侵攻の知らせを、帝都までいち早く届けてくれたおかげで、フィル様も動けたのだ。サエイレムの皆には感謝している」
バルケスは、そう言ってエリンの肩を軽く叩く。
「…フィル様は、やはりお一人でベナトリアへ向かわれたのですか?」
「あぁ、ご自身で決着をつけるおつもりらしい。まぁ、お一人と言っても…」
そう言ってバルケスは、くくっと笑った。
「…?」
「すまん。…フィル様は、リネア嬢とメリシャに先にサエイレムに帰るように言われたのだが、2人とも絶対に離れないと言い張り、フィル様の両手を掴んで離さなかったのだ。…結局、困り果てたフィル様が折れたがな」
「リネアまでそんなことをするとは……いや、フィル様の決意を察したのなら、あの娘はどうあってもフィル様の側に居ようとするでしょうね」
その様子を想像して、エリンもフッと笑った。
そして、エリンはバルケスに向き直り、表情を引き締め、姿勢を正す。
「バルケス様、留守の間お預かりしていた第一軍団の指揮権をお返しします。私は、これより第二軍団長として、領境に先行させた我が部隊に合流します」
「承知した。…ベナトリアとリンドニアの接収は任せたぞ。大グラウスの取り巻きどもが事態を掴むより早く、領都を掌握しなければならん。頼むぞ」
「はっ!」
門の近くに繋いでいた愛馬ゼラに跨がり、エリンは単騎でサエイレムを出発した。
そして、その日の夕焼けに海原が染まる頃、フィルたちの船は、普通の交易船を装ってベナトリア領バレアル港に入港した。
次回予定「サエイレム防衛戦-フィルの決着 前編」
いよいよ大詰めです。大グラウスのもとへ自ら乗り込んだフィルは…?




