サエイレム防衛戦-その展開
アラクネの里を滅ぼしたベナトリアの別動隊。その前に現れたのは…?
「方陣を組め、盾を構えろ」
指揮官の命令に、兵たちがぞろぞろと動き始める。その動きは決して機敏ではなく、また統率も怪しいものだ。
アラクネの里があるラディーシャ渓谷から南西へ1日。帝国との国境に近い平原に、3千ほどの歩兵の軍勢がいた。ハミルカスからの命令により、エルフォリア第二軍団と思われる騎兵部隊を迎え撃つため、潜んでいた渓谷の森から進軍してきたのである。
彼らの役目は、エルフォリア軍の仕業にみせかけてアラクネの里を襲うこと、そして西側から進軍する本隊と呼応して、サエイレムを東側から包囲することだ。その間に、もしもエルフォリア軍が出てくれば、これを迎撃する。ただ、兵力少ないエルフォリア軍は城塞都市を盾に籠城するだろうと思われたため、本格的な戦闘はあまり想定されていなかった。
「なんだよ、エルフォリアの連中は出てこないんじゃなかったのか」
面倒くさそうに大盾を構えた兵がぼやく。
「相手は1千ほどの騎兵らしい。ま、こっちの兵力はあちらさんの3倍もいるんだ。盾を連ねて槍衾で押し込めば大したことはない」
多少戦闘経験を積んでいそうな体格の良い兵が言った。
やがて、前方の平原に土煙が上がり始める。騎兵の突進である。
「おいでなすったな」
さすがに敵を目の前にして兵たちの動きも揃い始めた。隙間なく大盾を構え、間から長槍を突き出す得意のファランクスで対抗する作戦である。
徐々に近づいてくる相手は、流石に騎馬だけあって速い。個々の輪郭がはっきりし始め…その姿に兵たちは驚愕した。
「エ、エルフォリアの騎兵じゃない!ケンタウロス族の襲撃だ!」
相手が魔族だとわかり、軍勢は瞬く間に恐慌状態に陥った。
魔族は人間に対し容赦しない。捕虜など有り得ない。負ければ皆殺し。そんな噂は聞き飽きるほど聞いた。もちろん、多くの戦場話と同様、大袈裟に伝わるものではあるが、刷り込まれた印象は容易には拭えない。しかも、今、その相手が武器を振りかざして突進してくるのだ。
「ケンタウロスの相手なんかやってられるか!」
一人が崩れれば、それは連鎖する。
帝国の誇るファランクスは、一分の隙も無い統率された動きでこそ真価を発揮する。隙間のない大盾の防御と長槍の列、それが一体となり、動く城壁として機能するからこそ、騎兵の突撃にすら耐えるのだ。
だが、一部が崩れた城壁は脆い。崩れた場所から傷は際限なく広がっていく。
直接の刃を交えること無く、ただ恐怖によってベナトリアの別働隊は崩壊し始めた。それを止められる者は誰もいなかった。
「父上、帝国の軍勢とは脆いものですね」
ケンタウロス族の先鋒の突撃で脆くも崩れていく隊列を見て、ケンタウロス族の次期族長レクスが言った。族長ウルドの長男で、ラロスの兄である。
「あれは寄せ集めの雑魚だ。帝国の軍勢だと思ってはいかん」
ウルドは、渋い表情で応じる。
「先の戦争で戦ったエルフォリア将軍の軍勢は頑強であった。我らの突撃を、重装歩兵の集団が動く城の如く受け止め、足止めされた我らに対して重騎兵の集団が側面から突撃してくる。肝を冷やしたことも一度や二度ではない」
「私はエルフォリアの軍勢と直接戦ったことはありませんが、父上や戦士たちから話は聞いております。しかも、第二軍団の軍団長殿は、単騎でラロスともほぼ互角に戦えるとか」
人間の身で、ケンタウロス族と対等に戦える者はごく少ない。体格の差や筋力、それに馬を操りながら戦うのと自分の身を一つで戦うのでは、反応の違いは歴然だ。それでもその差を埋めてくるとすれば、その技量は敬服に値する。
「そうだな、この争いが片付いたら、お前もサエイレムに連れて行ってやろう。フィル殿にも挨拶しておくといい」
「父上に手紙を寄こした総督殿ですな。まだ年若い娘だと聞きましたが」
「あぁ、だがあの姿に惑わされてはならん。エリン殿も強いが、フィル殿は我と互角に打ち合うぞ。ラロスでは手も足も出ぬ」
「それは聞いていますが、にわかには信じられません。父上を疑う訳ではありませんが、どうしてもその様子が想像できぬのです」
「さもあろう。フィル殿の中には、古の武人の魂が宿っておる。その妲己という武人の技量が凄まじい。我とて実際に目の前にせねば信じられぬことだ。我の鉄槍を一刀で両断されかけた時は、寒気を感じたわ。お前も手合わせしてみればわかる」
楽しそうに笑いながら、ウルドは逃げ散っていく帝国兵たちを鉄槍で薙ぎ払う。切ったり突くのではなく、鉄棒で殴りつけているようなものだ。よほど不運でなければ即死はしまいが、骨を砕かれ、二度と戦うことはできない身体になるだろう。
「しかし、我らが帝国の総督に手を貸すことになるとは思いませんでした」
ウルドの隣で槍を振るいながら、レクスも少し楽しそうに言う。
「手紙には手を貸せとは書かれていなかったが、帝国の軍勢が国境を越えてアラクネ族を襲撃しているとなれば、黙っているわけにはいかぬ。…だが、フィル殿にまんまと利用されておるな」
言いながらもウルドの口調に不快そうな響きはない。
フィルからの手紙には、アラクネの里が帝国の軍勢によって襲われたこと、その軍勢はエルフォリア軍ではないこと、その軍勢がいずれ南下してくるだろうこと、そしてこれを機会にエルフォリア軍はベナトリアに侵攻し、これを制圧するつもりであることが書いてあった。
「利用されてみるのもまた一興だ。フィル殿は我らを利用した分の見返りはきちんと用意してくれる。せいぜい期待させてもらうとしよう」
ウルドは、自慢の鉄槍を振り回しながら、軍勢の最も密集している部分に躍り込んでいった。
サエイレムへの街道を塞ぐように着陣しているベナトリア軍、その最後尾に近い場所で、用を足しに行った兵が慌てて戻ってきた。
「後ろに敵がいるぞ!」
その声に、周りの兵士達は慌てて武器や盾を手に取る。聞いてみれば街道の向こうに、大楯を構えた重装歩兵の隊列を見たという。
そして、ほどなくするとその隊列は彼らにも見える場所に現れた。横一線に街道を埋めつつこちらに向かってくる。
「み、味方の増援じゃないのか?」
そう言った兵の顔も青ざめている。だが、その期待を裏切るかのように、隊列は長弓の射程より少し遠いくらいの距離を置いて停止した。しかし、その隊列の間からは輝く槍の穂先がこちらを向いている。味方ではないのは明白だった。
「は、早く上に、このことを伝えるんだ!」
その場を仕切る小隊長の命令に、伝令役の兵が走り出す。
「くそ、どうしてエルフォリア軍が後ろにいるんだ。サエイレムを守っているはずじゃないのか?」
文句を言ったところで、街道の先に布陣する軍勢は消え去ったりはしない。だが、彼らはそれ以上近づいてこなかった。それはこちらの出方を伺っているのか?
しばらくして、軍団長付きの幕僚の一人が馬に乗ってやってきた。確かに存在する軍勢を目にし、顔を青ざめさせ、慌てて引き返していく。
後ろに敵軍が現れたという情報は、兵たちの口コミでどんどん広がり、徐々に、軍勢の間に不安が蔓延し始めた。
「どういうことだ!」
幕舎の中で、ハミルカスは思わず声を上げた。後方に現れたという敵軍。サエイレムの西門からは誰も出てきていない。夜陰に乗じたとしても、少人数ならともかく軍勢の移動に誰も気付かないはずはない。
「敵は、こちらに槍を向けています。味方ではありません」
後方の軍勢を確認し、慌てて戻ってきた若い幕僚が言う。
「軍団長、もしかすると閲兵のためにエルフォリア卿と帝都に行っていた部隊ではありませんか?…確か、大河ホルムスの河口には、小さいながら船着き場があったはずです。そこに上陸させ、我々の背後を取ろうとしているかと」
そう言った壮年の幕僚は、少し笑みを浮かべた。
「であれば、敵の兵力は1千ほど。恐るるには足りません。こちらの部隊の一部を差し向けるだけで、難なく撃破できるでしょう」
サエイレムの東側に一部の兵力を分けたとは言え、まだこちらには1万5千の兵力がある。しかも障害物のない街道上での野戦、いかに精強なエルフォリア軍と言えど、兵力差ですり潰せるはずだ。
だが、ハミルカスはより眉間の皺を深めた。軍事的な才はともかく、元老院議員まで務めた彼は、時局の分析には長けている。そんな兵力の多寡など今は問題ではない。ハミルカスの懸念は別のところにある。
「少し黙っていろ!」
ハミルカスはそう言って、テーブルに肘をつき、手のひらで額を覆った。
後方に現れた敵が、もし本当にエルフォリア卿が帝都に連れて行った閲兵部隊なのだとしたら、どうして彼らはここに帰ってきている?…エルフォリア卿が失脚したのであれば、その配下である彼らがそのままサエイレムに帰されるはずがない。
となれば、この状況が意味するところは1つ。帝都でエルフォリア卿を罷免に追い込む企みが失敗したということだ。そうなれば、ベナトリアの属州軍が一方的にサエイレムを侵略したことになる。当然、帝国の秩序においてそんなことは許されはしない。反逆の罪に問われるのは我々の方だ。
「冗談ではないぞ…あの、無能親子が…!」
絞り出すように、ハミルカスはグラウス親子を罵った。総督の命令であったとは言え、他領を侵略した軍勢の指揮官が無罪で済むはずがない。出世の箔どころか、このままでは罪人として処刑される可能性もある。
「軍団長…どうなされたのですか?」
こいつらは本当に今の状況のマズさに気付いていないのか、ハミルカスは怒鳴り散らしたいのを我慢し、命令を下した。
「良いか。まず全軍に命令だ。サエイレムにも後方の軍勢にも、一切の攻撃をしてはならぬ。サエイレムの東側に送った部隊にも至急伝令を出し、こちらに戻れと伝えよ。魔王国側にいる別動隊は、直ちにベナトリアに撤退させよ」
別動隊は、エルフォリア第二軍団と思われる敵軍と戦うため、ラディーシャ渓谷を出て南下を始めているはずだ。もしかしたら、すでに戦端が開かれているかも知れない。
現状でも言い訳しようのない状況だが、せめてこれ以上の戦闘は避けなければならない。
「なっ…どういうことですか?!それでは侵攻した意味が…!」
思わず声を上げた先ほどの壮年の幕僚の襟首をつかみ、ハミルカスは声を荒げる。
「まだわからんのか。閲兵部隊が戻ってきたということは、エルフォリア卿は失脚していない!それがどういうことか考えてみろ!…我々は今、どこにいる!」
ただならぬハミルカスの様子とその言葉に、ようやく事態を飲み込んだ幕僚たちの顔も青ざめる。
「後方の軍勢に使者を出せ。本当にエルフォリア卿の閲兵部隊なのか確かめろ。もし閲兵部隊であるなら、我が軍は直ちにベナトリアに引き返す」
疲れ切った表情で、ハミルカスは長椅子に腰を落とした。
次回予定「サエイレム防衛線-それぞれの行動」
船団から離れて北上するフィルの船、そしていずこかへ出撃した第二軍団、それぞれの行動とは?




