建国への一歩
サエイレムへと急ぐフィルの船団。その船の上で、玉藻と妲己がフィルに話したこととは…?
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フィルは、甲板の隅で海を眺めていた。
船首が割った波が白く泡立って後ろへと流れていくが、その速度にもどかしさを感じる。
気は焦るが風の力を借りないと船は進めず、風にはフィルの都合など関係ない。
強大な九尾の力でさえ、この世界そのものをねじ伏せることはできない。一時だけ強い風を呼ぶことはできても、自然の理である季節風までは変えられないのだ。
グラムやエリンたちのことだ。自分が心配しなくても、サエイレムを守ってくれるだろう。
フィルは、じっと海を眺めながら考えていた。軍勢を差し向けたのは、ベナトリア総督である大グラウスでほぼ間違いはない。2万の軍勢が自領を通る街道を進軍していて、それを知らないなどあり得ない。動機は単純、息子である小グラウスと共謀し、アラクネ族に戦争を仕掛けた罪でフィルを弾劾裁判にかけて罷免に追い込み、主がいなくなったサエイレム属州を接収するためだ。
本来であれば他の総督が治める属州に無断で軍を進めることは許されない。ただし、その属州の総督が反逆罪などに問われて罷免された場合には、反乱を鎮圧する名目で軍を送り込み、領地の接収を行うことができる。帝都に侵攻の報告が届いた時点でフィルが罷免されていれば、大グラウスの行動は正当化される、はずだった。
皇帝側の勢力がサエイレムに乗り込んでくる前に既成事実を作ってしまおうと目論んだのだろうが、弾劾裁判の結果を待たずに軍を動かしたことが完全に裏目に出た。侵攻の情報が予想外に早く帝都に届き、皇帝の耳にまで入ってしまった上、フィルの罷免にも失敗。こうなっては、元老院もグラウス親子を擁護するより、切り捨てるだろう。
この事態さえ乗り切ってしまえば、当面、サエイレムに手を出してくる者はいまい。
フィルは、サエイレム総督になって以来のゴタゴタに、ようやく出口が見えてきたような気がしていた。
(のぅ…フィルよ、そなた王になる気はないか?)
不意に、玉藻が言った。
「王?わたしが?」
想像もしていなかった台詞に、フィルは驚いて顔を上げる。
(そうじゃ。現状、グラウス親子は間違いなく罪に問われる。皇帝の耳にまで侵攻の知らせが入った以上、元老院の連中も自分たちの保身が大切。グラウス親子は哀れにも見捨てられる運命じゃ)
「それはそうだと思うけど。…でも、王ってどういうこと?」
(とぼけるでないわ。わざと考えないようにしているじゃろう?…大グラウスがやろうとしたことを、逆にそなたがやれば、ベナトリアはそなたの物になる、ということだ)
フィルは黙り込んだ。玉藻の言う通りだ。グラウス親子の目論見が皇帝にも露見した今、大グラウスの反逆を鎮圧する名目で、サエイレムからベナトリアに侵攻をかける大義名分ができた。ベナトリアを手に入れれば、今はその保護領となっているエルフォリアの旧領、リンドニアもフィルのものになる。
リンドニア、ベナトリア、サエイレム、3つの属州を支配すれば、その範囲は帝国の東部一帯のほぼ全てであり、帝国全土の約2割に達する。その面積、人口、経済力は1つの国として独立しても全くおかしくない規模だ。
(いいんじゃない?妾も賛成するわ。フィルが帝国から独立したら、アラクネ族やケンタウロス族も国に加わってくれるかもね)
妲己までそんなことを言い出した。それを有り得ないと言い切れない自分に、フィルは困惑する。
「どうして、急にそんなこと言うの?」
(良い機会だからじゃ。あの爺が失脚しても、手をこまねいていればベナトリアにはまた元老院の息がかかった総督が送り込まれる。そうなれば、またサエイレムに手を伸ばして来ることもあろう。今ならば大義名分もある。いっそ、自領にしてしまった方が安心ではないか)
フィルは黙り込む。玉藻の言うことは正しい。今なら、それができる。きちんと話せば兄様だって後押ししてくれるだろうし、元老院の力を削ぐことは兄様にとっても良いことだ。帝国から独立するというのはともかく、ベナトリアを手に入れておくメリットは十分にある。しかし……
「…自信ない」
ポツリとフィルは言った。
(は?)
珍しく間抜けな声を上げた玉藻。妲己は声を殺して笑っているのが分かった。
「だから、自信ないの。そんな広い領地を治めるなんて!」
(なんじゃ、弱気じゃな。いつもの意気はどうした?)
「なっ…わたしだってねぇ!…」
思わず声を上げたものの、言葉が続かないフィル。悲しいかな。不安が募る気持ちとは裏腹に、玉藻の言う通りにすべきだと思ってしまう自分がいる。今の状況は滅多にないチャンスだと冷静に告げる感覚が恨めしい。
だが、それだけの広大な領地を、自分は治めきれるのだろうか。サエイレムを統治するだけでも精一杯なのに…
(ちょっと待ちなさい、玉藻。いきなり言えば、フィルだってそういう気持ちにもなるわよ)
妲己がフィルを庇う。
(フィルだって、まだ14の女の子なんだし。今までだって無理してきたんだから)
(麿が入内した歳だって大して変わらぬわ。妲己とて、王に輿入れしたのはそのくらいの歳であろう?)
(それはそうだけど、フィルにそれを言うのはかわいそうじゃない?…妾たちは王を支える立場だったけど、フィルは王として立たなくちゃいけないんだから)
(…ふむ。それはそうじゃが)
玉藻は嘆息し、むすりと黙る。
(フィル、やりたくないなら無理にとは言わないから、機嫌直してよ)
「ごめん。玉藻の言う通りだとわたしも思う。…でも、不安なんだよ」
(まぁ、不安なのもわからないでもないけど、そういう時は妾や玉藻を頼ってくれればいいんじゃない?何度も言うように、妾と玉藻は王を支える立場だった身なんだから)
妲己は、少し悲しそうな声を出す。
(だけど、妾は結局支えきれなくて、国は滅びてしまった。玉藻だって、国は滅びなかったけど、自分は濡れ衣を着せられ、逆賊として討たれてしまった。その結果妾も玉藻も、後の歴史に『傾国の狐』と呼ばれるようになってしまったんだけどね)
フィルは、その気持ちを察し目を伏せた。
(ねぇ、できることなら妾に機会をくれないかしら。今度こそ王を支えて国を栄えさせる。国を傾けるんじゃない。国を建てる手伝いをさせてほしい)
「妲己…」
(妲己よ、それは麿も心残りに思っておるが、全ては麿たちの力不足が招いたこと。フィルには何の関わりもない事じゃ)
(それはわかってるけど…ごめんね、フィル。妾としたことが、女々しい事を言ったわ…忘れてちょうだい…)
フィルは、大きなため息をついて空を仰いだ。狡い、とても狡い、そんなこと言われたら、断れないではないか。
妲己にも玉藻にも、これまで色々助けてもらった。彼女たちがいなければ、自分は九尾の力も知識も満足に扱うことができなかったと思う。そんな恩人を気持ちを無下にできるはずがない。
妲己と玉藻への恩返しだと思えば…苦労するのも仕方ないか…
「わかった。帝国からの独立はともかく、この機会にベナトリアとリンドニアをわたしのものにする。まずはそれでいい?」
フィルは、仕方なさそうに笑った。
(ふふっ、フィルはやっぱりいい子ね。きっとそう言ってくれると思ったわ)
(そうじゃな。全く仕え甲斐のある主じゃ。これは存分に支えてやらねばのぅ…)
妲己と玉藻も笑い合う。
「…え?」
一瞬、ぽかんとしたフィルの頬が赤くなる。
「もしかして、ふたりともグル?」
(なんのことかしら。少なくともフィルに嘘は言ってないわよ)
(そうじゃ。麿は思ったことを正直に告げただけじゃが)
「……」
ぐぬぬと声が漏れそうになるのを我慢して、フィルは拳を握る。二人が目の前にいたら、フィルはきっとものすごく恨めしそうな目で睨んでいただろう。
まんまと乗せられた!…だが、やると決めたら、気持ちがすっきりした。
「妲己、玉藻、わたしを焚きつけたんだから、責任はとってもらうからね」
(もちろん)
(望むところじゃ)
力強く言う妲己と玉藻。フィルは船の手すりに置いていた手を頭の上に上げて大きく背筋を伸ばした。さて、何から手を付けるべきか。フィルの頭の中で作戦会議はもう始まっていた。
その頃。サエイレムを預かるグラムとエリンは、街の防衛準備を進めていた。
フィルが初めてサエイレムに来た時に破壊してしまった西門の前には、門の外に突き出す形で新たに防御陣地を築いて堀と土塁を巡らせた。
軍勢の装備もぬかりない。魔王国との戦争が終わってまだ1年ほど。最前線であったサエイレムには、戦争で使用された武器がまだ大量に残っている。
その最たる物が、多数の大型弩弓だ。元々攻城武器として使われる長射程大威力の弩弓は、巨人族との闘いで恐るべき威力を発揮した。それらはすでに城壁の上や防御陣地に据えられ、敵の矢を防ぐ防盾まで備えられていた。
幸いなことに、サエイレム領内に入った敵軍勢の進軍は遅々としていた。
何か企んでいるのかと、何度もハルピュイアたちに偵察させたものの不審な動きは見られず、単に遠征に不慣れなのが原因らしい。
ハルピュイアたちからの報告を聞いたフラメアは、補給の体制が全くなっていないと、敵の事ながら嘆いていた。
とにかく兵の数をかき集めて軍勢を仕立てたものの、それだけの軍を遠征させることがどれだけ大変か、敵軍は上から下まで全くわかっていなかったようだ。
2万もの兵が動くとなれば日々消費する食料は莫大で、スムーズに補給物資の調達・運搬・配給できる兵站の仕組みを作り上げることは、むしろ直接の戦闘よりも面倒かつ重要だと言っていい。
遠征で補給の不足に苦しんだことがある者でなければ、その大切さはわからない。経験の浅い軍勢は、将も兵も、華々しく戦闘で手柄を挙げることは考えても、食料は誰かが運んできてくれるものと思っている。しかし残念ながら、パンも干し肉も勝手に兵のところまで歩いてきてくれはしないのだ。
ただ、相手が素人だと楽観するわけにもいかない。気がかりなのはパエラがもたらしたアラクネの里の状況である。アラクネの里を襲ったという別働隊に関する情報が乏しい。どうやらアラクネ族の里があるラディーシャ渓谷に潜んでいると思われるが、森に隠れており、軍勢の規模もよくわかっていなかった。
この別働隊が国境沿いに南下し、サエイレムの西側から奇襲してくる可能性がある以上、国境に置いている兵力は引き抜けない。
ケンタウロス族のラロスには、族長ウルドにこのことを伝えてもらうよう依頼したが、その反応はまだ返ってきてはいなかった。
サエイレムの市民たちには、報告が届いたその日のうちに軍勢の接近が知らされていた。しかし、長年の戦争にも耐えたサエイレムの市民達は慌てたりはしなかった。日々の営みは普段通り続けられ、サエイレム港にもいつもどおり船が頻繁に出入りしている。だが、やはりどこかしら緊張した空気が街を包んでいた。
そして、侵攻の知らせが伝わってから10日目。ついに敵軍勢はサエイレムの城壁から見える位置に現れた。
「来たな…」
エリンは、城壁の上に立って軍勢の様子を眺める。味方は、第一軍団の重装歩兵を主力に西門の防御陣地で防備を固めている。
エルフォリア軍の兵力は全体で約1万である。そのうちサエイレムにいる兵力は6千。そのほかは国境警備に3千、フィルとともに帝都に閲兵に出ているのが1千、それが現在のの大まかな状況だった。
2万という敵の数は侮れないが、城塞都市であるサエイレムを盾に戦えば、互角以上の戦いでができるとエリンは踏んでいる。
ただ、さすがにこちらから敵陣に攻め込んで撃退するのは難しい。勝機が無いとは思わないが、こちらもある程度の犠牲は覚悟せねばならない。一人前に戦える兵を育てるには、費用も時間もかかる。こんなつまらない小競り合いで大切な兵を失うのは大きな損失だ。
今回は籠城戦に徹することで、兵も市民も犠牲を出さないことが第一。それがグラムとエリンの一致した見解だった。
「エリン様~」
「…?」
小さく聞こえた自分を呼ぶ声に、エリンと周りを見回した。近くで数人の兵が城壁に据えた大型弩弓の整備をしているが、自分に呼びかけた様子はない。
「エリン様~!」
また聞こえた。後ろ?いや、上からだ。
「イネス!」
エリンは、自分の声が思ったより弾んでいたのに気付いて、少し苦笑する。フィルへの伝令に出したイネスが帰ってきたということは…
ぶわっと風を起こして城壁の上に着地したイネスに、エリンは駆け寄る。
「よく戻ってきたな!フィル様には会えたのか?」
「はい、帝都から一緒に戻ってきました。フィル様の船団は、すでにセイレーンの島のあたりまで来ています」
フィルが近くまで戻ってきていると聞いて、エリンは安堵する。一番心配していたのは、帝都でフィルが罪に問われ、捕らえられる事態だったからだ。
「良かった…帝都では問題はなかったのか?」
「フィル様が裁判に呼び出されましたが、フィル様は皇帝陛下の前で相手の、えと、元老院?を返り討ちにされたそうです。バルケス様がそう仰っていました」
「そうかそうか、さすがはフィル様だ」
エリンは我が事のように嬉しそうに頷いた。
「そうだ。早くこのことをグラム様たちにも知らせなければな。私もすぐに総督府へ戻る。イネスは先に総督府に知らせてくれ。皆、喜ぶだろう」
「はいっ!」
ばさりと羽音を立てて城壁の上から飛び立ち、イネスは総督府の方へと飛んでいった。
「皆、聞いたな。まもなくフィル様と閲兵に出ていた部隊が戻ってくる。他の者達にも伝えるんだ!」
「はっ!わかりました!」
側にいた兵達は、喜色を湛えた表情でそれぞれ散っていく。間違いなく士気は上がるだろう。
エリンは城壁の階段を駆け降りると、愛馬ゼラにまたがって総督府へと向かった。
次回予定「サエイレム防衛戦-その前哨」
とうとうサエイレムに攻め寄せたベナトリアの軍勢。エリンは、フィルは、どう戦う?




