フィルの兄様
フィルを前に、突然笑い出した皇帝の思いとは…?
急に愉快そうに笑い始めた皇帝の様子を、フィルは呆気に取られて見上げる。
リネアとメリシャはひたすらに頭を下げたままだ。
「リネア、メリシャ、そなたたちも顔を上げよ。余によく顔を見せてくれないか」
ひとしきり笑い、皇帝は言った。フィルは半分後ろを振り返って二人に頷く。リネアとメリシャは、恐る恐る顔を上げた。
「驚かせてすまぬ…だが、嬉しかったのだ、許せ」
皇帝は玉座から立ち上がり、段を降りる。そしてフィルの前まで来ると、不意にその頭を撫でた。まるで子供をあやすように。
思いもよらない行動に驚いて見上げるフィル。だが、皇帝の言葉に更に驚くことになる。
「久しぶりだね。フィー。本当に綺麗になった…驚いたよ」
その時のフィルの顔は、見たことがないくらい動揺していたと、フィルは後でリネアから聞いた。
それはそうだろう。フィルのことを『フィー』と呼ぶ人物は、この世にたった二人だけ。その一人、父ははすでに亡くなっている。
もう一人は、10年前に別れたまま、どこにいるかもわからなかった、幼い自分を可愛がってくれた、兄のような男の子…。
「…まさか、ユーリお兄ちゃん、なの…?」
呆然と呟くフィルに、皇帝は微笑む。
「…良かった。忘れられているかと思っていた」
「皇帝陛下が、ユーリお兄ちゃん?どうして…?」
嬉しさ、驚き、疑念、…色々な感情が心の中で混ざり合い、フィルは上手く言葉が出てこない。
「皇帝陛下の御名は、ユーリアス・アエリウス・アルスティウス様じゃ。事情があって、10年前…11歳までエルフォリア将軍の屋敷に預けられておった」
ティベリオも上段から降りてきて、補足する。
「フィー?」
自分を見上げたまま硬直しているフィルに、皇帝は首をかしげる。
「ごめんなさい。ユーリお兄ちゃん、驚きすぎて、どうしていいかわからない…」
フィルは、小さく首を横に振る。完全に心の許容量を超えていた。気持ちの整理がつかず、どう接して良いかわからない。もちろん会えたのは嬉しい。しかし離れていた時間が長すぎて、自分の記憶の中の男の子と目の前の皇帝の姿が重ならず、戸惑いもまた大きかった。
子供の頃に可愛がってくれた兄のような存在で…でも相手は皇帝陛下なのだから、昔のように接する訳にはいかなくて…いっぱいいっぱいのフィルの頭に、皇帝はポンと手を置く。
「いいよ。僕はフィーが元気でいる姿を見られただけで十分だ」
穏やかに笑う皇帝の表情には少し寂しさが浮かんでいた。
「…フィル様、皇帝陛下にも甘えて良いんだと思いますよ」
ポツリ、とリネアがフィルに言った。本当は嬉しいくせに、身分や立場を気にして微妙に距離をとってしまうフィルと皇帝を見ていられず、つい口に出てしまった。
以前、フィルは『リネアにだけは甘えさせて』と言った。それはリネア以外にフィルには甘えられる相手がいないということ。サエイレムでは、フィルは街の主として一人で立っていなくてはならない。
毅然として物事を進めるフィルは格好良いと思うけれど、その実、辛い思いを抱え込んだり、悩んだりしている姿を垣間見る度に心配になってしまう。
詳しい事情は知らないが、皇帝とフィルはとても親しい間柄のようだ。フィルの『特別』が自分だけでなくなってしまうのにはチクリと胸が痛むけれど、フィルが甘えることのできる人が増えるなら、その方がいいと思った。
「…リネア?」
「申し訳ありません!…私、差し出がましいことを」
振り返ったフィルに、リネアは慌てて顔を伏せる。
「ううん。ありがとう…そうだね。リネア…」
フィルは、大きく息を吐いて立ち上がると、大きく腕を広げて皇帝に抱きついた。
「フィー?!」
「ユーリお兄ちゃん!よかった…元気でいてくれてよかった…急に居なくなって、どこにいるかもわからなくて、すごく悲しかったんだから!」
ぎゅーっと腕に力を込め、フィルは思いを吐き出す。
「どうして、もっと早く教えてくれなかったの?父様が亡くなって、わたし、独りぼっちになって…いろんな人から虐められて…それなのに…!」
「ごめんな…僕にもっと力があれば、フィーを守ることができたのに…」
皇帝は謝る。アルヴィンが亡くなり、フィルが辛い立場に追い込まれているのは知っていた。しかし、戦争の後処理をめぐって元老院と激しく対立していた中で、もし皇帝に近しい間柄だと知られたら、それこそフィルに何が起こるかわからない。敵である元老院だけではない、皇帝側に付く者たちですら、自分が有利に立ち回るためにフィルを利用しようとするかもしれない。
できるのは、前例を無視してでも総督に任命し、本国から遠く、エルフォリアの軍団がいるサエイレムに逃がすことだけだった。
その途中でまさか襲撃されるとは思わなかったが…。ティベリオから襲撃があったことを聞いた時は血の気が引く思いだった。
「でも、サエイレムに行かせてくれてありがとう……色々あったけど、今、わたしは幸せだと思う。だから、許してあげる」
フィルはそっと身体を離し、恥ずかしそうに笑った。
「そうか…」
フィルが『幸せだ』と言ってくれるのは素直に良かったと思う。だが、そこに自分はいない。10年も放っておいて、今さらと言われれば返す言葉もないものの、やはり自分にも頼って欲しいと思ってしまう。
「ユーリお兄ちゃん…って呼ぶのは、さすがに子供みたいで恥ずかしいので、その…今後は兄様ってお呼びしてもいいでしょうか?」
フィルは少し言葉遣いを改め、上目遣いに皇帝を見つめる。
「あぁ、もちろん。僕は今でもフィーの兄のつもりだよ…」
「ありがとうございます。兄様、せっかくまた会えたんです。これからもよろしくお願いします。兄様が見守っていてくれると思うと、わたしも心強いです」
フィルは深く頭を下げると、皇帝に笑顔を向けた。
「…陛下、良かったですな」
にやにやと笑いながらティベリオが皇帝の肩に手をかける。
「ティベリオ、からかわないでくれ」
「ティベリオ様、何かあったのですか?」
「陛下はな…つい先ほどまで、フィル殿に忘れられていたらどうしよう、恨まれていたらどうしよう、とそれはそれはご心配だったのだ」
「ティベリオ!」
フィルの手前、怒ることもできず、皇帝はティベリオを睨む。
「兄様、ご心配なく。フィーは兄様をちゃんと憶えています。恨んでもいません」
「フィー、それはだな、なんと言うか…」
しどろもどろになる皇帝の手を取り、フィルはリネアとメリシャに引き合わせた。
「それと…兄様に改めて二人を紹介したいです。…リネア、メリシャ、立ってくれる?」
「はい…」
リネアとメリシャは、おずおずと立ち上がる。
「兄様、リネアは襲撃を受けて死にかけたわたしを助けてくれました。メリシャは持って生まれた能力のせいで故郷にいられなくなり、わたしが引き取りました。ふたりとも、わたしの大切な家族です。兄様もそう思って下さると嬉しいです」
フィルは、嬉々として紹介する。遠慮がちに頭を下げるリネアとメリシャに、皇帝も微笑んだ。
「もちろんだとも。先ほどは疑うような事を言ってすまない。…フィーが家族だと言うなら、僕にとっても妹のようなものだ。特にリネア、フィーの命を救ってくれた事に感謝する。…あと、先程の一言も助かった。このとおり礼を言う」
頭を下げる皇帝に、リネアは腰を抜かさんばかりに慌てる。魔族の、しかも平民の自分が帝国の皇帝陛下に頭を下げられるだけでも有り得ないのに、陛下の妹のようなものってどういうことですか?!
「あ、あの、そんな私は…」
あわあわしているリネアをよそに、メリシャは皇帝をじっと見上げた。
「お兄ちゃんはメリシャのお兄ちゃんになってくれるの?」
「あぁ、なってもいいかな?」
腰を落として、皇帝はメリシャの顔を見つめ返す。
「うん」
にこっと笑うメリシャのローブの表面で、アルゴスの目が一斉に皇帝に視線を向けた。
「フィルはね、これから戦わなくちゃいけないの。でもお兄ちゃんがフィルの味方になってくれたら、大丈夫だから」
「それは、どういう…?」
皇帝が聞き返そうとした時、ホールの入り口が騒がしくなった。
「陛下はエルフォリア総督と謁見中です。誰であろうと通せません!」
スケビオの声がした。するするとシャウラがこちらにやってきて、フィルに囁く。
「フィル様、元老院議員だと名乗る者が、皇帝陛下へ議長の書簡を持参したと…」
しばらくすると、カークリスが丸められた書簡を持ってやってきた。
「陛下、元老院議長からの書簡だと…陛下に目通りを求められましたが、書簡のみ取り次ぐということで追い返しました」
「うむ、それでいい。…しかし、一体何事だ?」
皇帝は受け取った書簡を開く。ざっと目を通した途端、その表情が険しくなった。
「フィーに対して弾劾裁判を開くだと…!」
弾劾裁判とは、元老院議員や属州総督、将軍など通常の裁判に服さない帝国高官に対する訴追の仕組みである。皇帝または元老院議長の要請で開廷され、判決は4人の陪審員と皇帝の評決により決まる。陪審員は現在、元老院議長マルクス・ボルキウスと議員フリウス・ビルス、皇帝血縁のティベリオ、そして帝都の統治を行う執政官のネリウス・コルクルムが務めている。
「罪状は何と?」
「皇帝の許可も得ず、独断で魔王国領へ侵攻し、アラクネ族を滅ぼしたとある」
苦い表情でティベリオに書簡を渡す皇帝を、フィルは、黙って見つめている。
「フィー、この告発は虚偽だ。そうだな?」
皇帝は、真面目な表情でフィルに同意を求めた。
「もちろんです。わたしはそんなことを命じてはいません」
フィルは皇帝に、アラクネ族に関するこれまでのことを説明した。
聞き終わった皇帝とティベリオは顔をしかめる。裁判を開くと言い出したからには、元老院側には何かフィルを有罪に導く材料があるはずだ。それがでっちあげであったとしても、フィルが実際にアラクネ族に関わっているのなら、その行為を逆手に取られた可能性はある。
「フィー、裁判は明朝開かれる。何か無罪を証明できる材料はあるか?」
「…サエイレムには保護しているアラクネ族の者たちがいます。彼女たちなら証言してくれるでしょうが、帝都に連れてくるには時間がかかります」
「そうか…完全に不意を突かれたな…」
「兄様、わたしは宿舎に戻って、軍団長のバルケスとも相談してみます」
フィルは、難しい表情を浮かべる皇帝に微笑んだ。
「わかった。僕の方でもできる限り擁護する。フィーを罷免になどさせるつもりはない」
「ありがとうございます。兄様、頼りにしています」
フィルは、皇帝とティベリオに小さく頭を下げ、リネアたちを伴ってホールを出て行った。
「陛下、フィル殿に言わなくても良かったのですか?…フィル殿は、陛下の異父妹だと。それを明らかにすれば、元老院も陛下との決定的な対立は避けようとするのでは…?」
宮殿の廊下を歩きながら、ティベリオは難しい表情で皇帝に問う。
「いや、それではフィーが帝室の血を引いていると誤解する者が現れかねん。そうなればフィーの立場はもっと難しくなる…僕はフィーの『兄様』でいいんだ」
皇帝は、意外にすっきりした表情を浮かべてティベリオに答えた。
次回予定「空からの使者」
弾劾裁判を乗り切るべく、巻き返しの始まりです。




