戦争の兆し
フィルたちが帝都に着いたその裏で、異変が起こります。
フィルたちが帝都に到着した頃、パエラとティミアはリネアの小屋にいた。
「そろそろ、サエイレムに帰ろうか…」
「そうだな」
テーブルの上で頬杖をつきながら言うパエラに、ティミアも頷いた。
幸い、ティミアの説得に応じた者はほとんど逃がすことができた。その中には子供を持つ母親たちも多くいた。次代を担う子供たちを救えたのは本当に良かったとティミアは思っている。
ティミアたちが里を出て行ってから、リドリアたちは残った住民への締め付けをさらに強め、生活は苦しくなっていた。最初は、奴隷にされるのではないかとサエイレムに行くことを恐れていた者たちも、ティミアたちが街に住む場所を与えられ、他の住民と同じように暮らしていることを知ると、すぐに里から逃げることを選んだ。
しかし、少しづつとは言え里から次々に住民が消えれば、リドリアたちの鈍った感覚でも、さすがにおかしいと気付いたようだ。このところは里の周辺の見張りも厳しくなっている。里に残っているのはリドリアの側近と、人間との共存を望まない者たち。さすがのティミアもこれ以上は難しいと思っていたところだった。
できれば、里に出入りしている人間が、一体どこの誰なのか確かめたかったが、連れ出した里の者に聞いたところ、半月ほど前に来てリドリアの館に荷を下し、すぐに引き返してしまったらしい。ちょうど入れ違いになってしまった。ならば何か証拠になるような書類や品物がないか、パエラはリドリアの館に忍び込んでもみたが、めぼしいものは見つからなかった。
リドリアも留守なのか姿が見えず、館の中ではワインに溺れる側近どもが奇声を上げていただけ。結局、手掛かりは得られずじまいだ。
「明日、ここを出て、サエイレムに向かうとしよう。…今、国境にはバルケス様がいないんだったな」
「フィルさまたちは帝都に行ってるんだっけ。あたしも見てみたかったな、帝都。…ちょっと残念」
「怖くないのか?サエイレムはともかく、帝都なんて」
「そりゃ、一人で行けって言われたら怖いけど、フィルさまと軍団が一緒なら大丈夫でしょ?」
にっと笑いながら言うパエラ。そこにドアの向こうから羽音が聞こえた。
「パエラ!パエラ!いるの?!」
慌てたような叫び声がする。
「いるよー」
パエラがのんびりした返事とともにドアを開けると、ウッドデッキの上に立っていたハルピュイアが、安心したように胸をなで下ろした。
「ミュリスじゃない、久しぶり。テミス様から何か伝言?」
闘技大会予選でパエラが戦い、破った相手だが、総督府でフィルの側に付くようになってからは、報告に来る彼女とよく顔を合わせていた。
「もう!久しぶり、じゃないわよ!心配したじゃない!」
「……?」
首をかしげるパエラに、ミュリスはぐいっと顔を近づける。
「いつものように空からアラクネの里の様子を見に行ったら、アラクネの里が燃えてたのよ。パエラたちが巻き込まれてるんじゃないかって、心配したんだから!」
「里が燃えてるって、本当?!」
「何が起こったんだ?!」
パエラとティミアに詰め寄られ、ミュリスは思わず一歩後ずさった。
「と、とにかく、火と煙がすごくてあまり近寄れなかったんだけど、人間の軍隊を見たの。里に攻め込んだみたい」
「なんで?!フィルさまがそんな命令出すはずない!」
「そりゃそうだよ。サエイレムの軍団は動いてないもの」
「じゃぁ…」
「だから、慌ててこっちに来たんだよ。パエラたちは無事だってわかったから、すぐにサエイレムに戻って報告しなきゃ」
「よその軍団が、勝手に入り込んでるってこと?」
「そんなのわかんないよ!じゃ、行くから。…パエラたちも急いでサエイレムに戻った方がいいよ!」
そう言い残すとバサリと羽ばたいてミュリスは南へ飛び去った。
「もう!どうしてフィルさまがいない時にこんな…」
「だからかもしれない。フィル様やバルケス様がいない隙を狙って攻め込んできた…」
「でも、サエイレムが狙いなら、なんでアラクネの里なんか…?」
「それは…わからないが」
ティミアは口ごもる。
「とにかく、明日なんて言ってられない。ティミアは、すぐに皆を連れてサエイレム向かって」
「パエラはどうするんだ?」
「あたしは里の様子を偵察してくる。大丈夫、すぐに後を追うから」
「そんな危ない真似はよせ。おまえも一緒にサエイレムに戻ろう。里の様子なら、空からミュリス殿たちが見に行ってくれるだろう」
飛び出そうとするパエラを、ティミアは慌てて引き留める。
「よその軍団が入り込んでるなら、サエイレムと戦争になるかもしれない。戦うなら少しでも多くの情報がいるの。元々あたしはそういうことを調べるのが仕事だったからね」
「しかし…!」
「里を攻めた軍団がこっちに来ないとは限らない。ティミアは民を守る戦士でしょ?それぞれ、自分の仕事をしようよ…じゃ、行ってくる!」
パエラは、身軽に跳躍して森の中へと消える。
それを見送ったティミアは、不安そうに小屋の周りに集まってきた仲間たちに、今すぐにサエイレムに向かうことを告げた。
「……なんてこと」
総督府でミュリスからの報告を聞いたテミスは、思わずこめかみを押さえた。ほぼ時を同じくして、ベナトリアに繋がる街道を見張っていたハルピュイアからも、軍勢が領内に侵入して街道を南下中との報告が入っていたからだ。
事は一刻を争う。すぐにテミスはグラムの執務室へと向かった。
「…フィル様が留守になる隙に何か仕掛けてくるかもしれん、とは思っていたが」
テミスの報告を聞いたグラムの反応は落ち着いていた。
「グラム様、アラクネ族の里を襲った軍勢の規模は未だ不明ですが、街道を南下中の軍勢はおよそ2万とのことです」
「おそらく、ベナトリア中から徴兵してかき集めた兵力だろう。一応、兵力ではこちらを上回るか」
直ちにグラムは、エリンとフラメアを呼び出した。
「どう迎え撃つか、提案はあるか?」
サエイレム周辺の地図を前に、グラムはエリンに尋ねた。
「そうですね。気になるのは、アラクネの里を襲撃した理由ですが…」
エリンは地図の上を指揮杖でなぞる。
「敵の数は我が軍を上回りますが、サエイレムは城塞都市。籠城戦に徹すれば十分に時間は稼げます。西門はフィル様が城門を破壊してしまわれたので、何か障害物を築く必要はありますが…」
フィルが初めてサエイレムにやってきた時のことを思い出し、エリンはわずかに苦笑する。
「時間を稼げれば勝機はある、ということでしょうか?」
「そうだ。そもそも、帝国内では勝手に他領に兵を進めることなど認められていない。他領の軍がサエイレムの領内に入っていることが帝都に伝われば、敵は退かざるを得ないだろう。…それなのに、どうして侵攻を始めたのか?そもそも、サエイレムを攻める大義名分は何だ?」
エリンは腕組みして唸った。
「まさかフィル様の方でも何か起こっているのでは?」
「皇帝属州の総督は皇帝陛下の直臣だ。いくら元老院でも、フィル様に直接手を出すことはできないはずだが…」
心配そうなテミス。答えるグラムも浮かない表情だ。何か見落としていることがあるのではないか、と不安がよぎる。
「フィル様が帰って来ない、などということは?」
「フィル様は神獣の力をお持ちだ。暗殺の心配はあるまい?」
グラムは首をかしげるが、テミスは言いにくそうに言う。
「そうではなく…フィル様が罷免され、サエイレムがフィル様の領地ではなくなってしまう…とか」
「総督の罷免か……過去の例だと、反乱を起こしたとか、勝手に他国に攻め込んで自領を拡大しようとしたとか…」
言いかけたエリンのの手の中で、指揮杖がバキリと音を立てて折れた。
「それか!アラクネの里を襲い、それを我々がやったことにする…!魔王国に独断で侵攻したと告発し、フィル様を失脚させるのが目的か!フィル様が罪に問われて罷免されれば、今回の侵攻も、領地の混乱を抑えるための接収という名目で正当化できる」
エルフォリア軍の第一軍団が魔族領との国境に配備されているのは、帝国では周知の事実だ。本国から遠い場所で起こったことなど、帝都にいる者たちには詳しく伝わらない。うまく証拠や証人をでっちあげれば、フィルに不利な状況を作ることも不可能ではない。
「なるほど、皇帝陛下が閲兵に呼んだフィル様が、その裏で勝手に魔王国に戦争を仕掛けていたとなれば、フィル様が失脚するだけでなく皇帝陛下の権威も失墜する。それが元老院の狙いか。そうすればサエイレムにも元老院の息のかかった総督を送り込めるからな」
「フィル様が失脚したら、我々はそこで負けになってしまうということですか…」
しばらくの間、沈黙が部屋を支配する。
「とにかく、このことを少しでも早くフィル様にお知らせしなくてはならん。何か方法はないか?」
「テミス、ハルピュイアに帝都へ飛んでもらうことは無理か?」
「さすがに帝都まで一気に飛ぶのは難しいです。ハルピュイアたちは空を飛ぶために、一度にあまり多くの食事をしません。その分、食事も頻繁に必要で…途中、2~3ヵ所でも休憩と食事ができる場所があれば、あるいは…」
エリンの問いに、テミスは表情を曇らせた。陸沿いに飛んだのでは遠回りで時間がかかり過ぎる。海路を飛ぶしかないが…テテュス海に出たら、陸地はセイレーンの島くらいしかない。セイレーンの島で一回休憩させるとして、問題はその先だ。
「テミス、私に少し心当たりがあります。うまくいくかわかりませんが、少し時間をください。帝都までの間に、休憩と食事ができる場所があればいいのですね?」
しばらく考えていたフラメアが声を上げた。
「はい。…その通りですが…」
「あとで連絡します。待っていてください」
フラメアは、グラムたちに一礼して部屋を飛び出していった。
「よし、そちらはフラメアに任せよう。こちらは国境に知らせを出します。ラロス殿にこのことを知らせ、国境を越えているのは我が軍でないと族長殿に伝えてもらわなくては…ケンタウロスまで敵にするわけにはいきません。私の第二軍団にも出撃準備を命じておきます」
エリンも足早に部屋を出て行った。
「グラム様、パエラたちは巻き込まれていないようですが、近くにいては危険です。至急こちらに戻るように指示を出します」
「うむ、頼む」
テミスを見送り、部屋に一人残ったグラムは、今までにわかっている情報を整理し、フィルに知らせるための報告書を書き始めた。
パエラが里の近くまで着いた時には、すでに里の火災は下火になっていた。森の中には、結構な数の人間の兵士たちが入り込んでおり、見つからないように移動してるうちに意外に時間をくってしまったのだ。
パエラの見たところ、騎兵はおらず、歩兵ばかりのようだ。数はけっこう多い。見通しの効かない森の中のこと、あまり正確ではないが、だいたい3,000~4,000というところか。
木々の枝に隠れ、そっと里の様子を伺う。人間の兵たちは確かに帝国軍の装備を身に着けているが、見慣れたエルフォリア軍の装備とは違い、控えめに言ってもけっこうボロい。汚れていたり欠けたりしているところも多く、手入れが行き届いていないのか、使い古しの装備をかき集めたのか。
それに、エルフォリアの兵たちは、鎧の下に着る服も丈夫で動きやすいものが用意されている。フィルが兵士の格好をすることも多いので良く知っているが、目の前の兵たちはそれもバラバラだ。支給されたのは鎧だけで、下は各自の自前なのかもしれない。見るからに寄せ集め感がにじみ出ている。
こんな軍勢では、いくら数がいても第一軍団が出撃すれば鎧袖一触、全く勝負にならないだろう。パエラは少し安心してリドリアの館へと向かった。
リドリアの館は里の一番奥にある。木から木へ飛び移り、館の屋根の上からそっと中へ入る。多少の焼け跡はあるが、リドリアの館は火災の難を逃れていた。
「うへぇ…」
梁の上から見た光景は、凄惨だった。ワインなのか血なのか、床は赤黒い液体で濡れ、何体ものアラクネが横たわっている。リドリアの側近の連中だ。兵はすでに撤収したようで、人影はない。パエラはその場にリドリアの死体がないことを確かめると、リドリアの部屋へと向かう。閉まったままのドアをそっと開くと、意外なことに部屋の中はきれいだった。調度類も荒らされておらず、血で汚れてもいない。そして、ここにもリドリアの死体はなかった。
「……?」
パエラは、ふとテーブルの上を見つめた。
5日ほど前、里に出入りしている人間の手がかりがないかと、パエラはこの部屋にも忍び込んだ。その時もリドリアの姿はなかったのだが、パエラはうっかりテーブルの上にあったカップを倒し、テーブルの上にワインをこぼしてしまった。
その時は慌てて逃げたのだが、目の前のテーブルの上は、倒れたカップもこぼれたワインもその時のまま。ここは一応、族長の部屋だ。こぼれたワインが5日もそのままにされるだろうか。…少なくとも5日前、もしかするともっと前から、この部屋は使われていないのではないか?…だとすれば、リドリアはどこへ行った?
それが何を意味するのかパエラにはわからない。でも、きっとサエイレムには色々な情報が集まっているはずだ。もしかしたら、この情報によって何か見えてくるものがあるかもしれない。
「早くサエイレムに知らせなきゃ」
パエラは、そっと窓から部屋を抜け出し、森の中へと姿を消した。
次回予定「皇帝閲兵」
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