ヒクソス王朝建国 1
「ねぇ、フィル…本当にこのままメディアを育てるの?」
半ばあきらめたような表情で、メリシャはフィルに尋ねた。
ヒクソス王城のフィル達の部屋、その中庭に面したテラス。ゆったりと椅子に腰掛けたフィルの視線の先には、リネアに髪を梳かれて気持ちよさそうにしているアセト…いや、メディアの姿があった。
イシスとアセトが無理矢理に同化したせいなのか、アペプと切り離されたせいなのか、原因ははっきりしないものの、目を覚ましたアセトはその記憶のほぼ全てを失っていた。
アヴァリスに連れ帰ってからも、しばらくは会話の端々でカマをかけてみたり、わざと隙を見せてみたもしたが、アセトの様子に怪しいところはなく、記憶を失っているのは本当だろうという結論に至った。
「あなたの名前は、メディアよ。いい?」
「メディア…メディア…?」
「そう、それがあなたの名前。今日からそう名乗りなさい」
「わかりましたわ。わたくしの名前は、メディア…気に入りましたわ。ありがとうございます。フィルさま」
「メーデイア」の綴りを帝国語に当てはめて読むと「メディア」になる。フィルは記憶を失ったアセトにその名をつけた。
…もう「裏切りの魔女」はどこにもいないのだ。
「えぇ。彼女にはやり直してほしいの。今度こそ幸せになれるようにね」
穏やかに過ごすメディアの姿に目を細め、フィルは言った。
「メリシャ、フィルさまはそういう性分なんだよ。そうじゃなきゃ、メリシャだって違った人生を歩いてたかもしれないんだから」
「わかってるよ。……違う人生も何も、フィルたちと出会えなかったら、ボクはあの森で野垂れ死んでた。そのボクが、メディアを助けるなとは言えないよね」
メリシャの隣で飄々と言うパエラに、メリシャは呆れたように笑った。
当然ながら、蛇の下半身を持つ異形の姿をしたメディアを、ヒクソスに、ひいては王城に招き入れることに抵抗がなかったわけではない。シェシをはじめヒクソスの者たちの反応は、メリシャのような困惑か、より強い反対のどちらかであった。
しかし、フィルはそれを強引に押し切った。メディアを自らの養女とし、保護すると宣言したのだ。すべての責任は自分がとるとまで言われて、異を唱えられる者はいない。
こうして、ヒクソス王城でのメディアの生活が始まった。
表向きはそれで片が付いたものの、異形の体躯のこともあり、奇異の目で見られるのは避けられない。こればかりは命令で抑え込めるものではなく、メディアをできるだけ人前に出さないことで対応するしかなかった。
記憶を失ったメディアは、外見と同様にその精神も10歳前後まで退行していた。だが、それでもなお、メディアは聡明な娘であった。
たった一月ほどの間に、フィルたちが教える文字、計算などの知識、生活する上での一般常識はもちろん、貴人としての礼儀作法も身に着けた。
メリシャが教えた薬学に至っては、まさに真綿が水を吸い込むが如しの習得ぶり。
メリシャの薬学の師は、ラミア族のテミスやシャウラだ。彼女たちと似た姿を持つメディアに薬学を教えるのは、少し妙な気持ちだったとメリシャは恥ずかしそうにフィルに言った。
「リネアさま、とっても気持ちいいですわ」
「それは良かったです。メディアの髪はとてもきれいですよ」
振り向いて見上げるメディアに、リネアはふわりと微笑む。その表情に曇りはない。
フィルがアセトを養女にすると言い出した時に、リネアに葛藤がなかったわけではない。けれど、フィルを止めようとは思わなかった。…リネアがずっと隣で見つめてきたフィルなら、きっとそうするとわかっていたから。
記憶を失い、生きていく術のないメディアに、フィルが手を差し伸べないはずがない。
当初こそ、アセトが記憶を失った振りをしているのでは…と、わずかな警戒を抱いていたリネアだったが、しばらく一緒に暮らし、そうでないとわかってからは、メディアを二人目の娘として自然と受け入れていた。
リネアがちょうどメディアの髪を整え終わった時、ドタドタと大きな足音が近づいてきて、ドンドンと扉が強めに叩かれた。
「ヒクソス王朝建国 2」




