変身 1
「リネア様、アペプが逃げます」
「大丈夫ですよ。フィル様のお考えのとおりです」
上流へと移動を始めたアペプを見下ろしながら、リネアは追おうとするセトを宥めた。
「あとは、フィル様がやってくださいます」
すでに九尾の分身たちの姿はなく、湖上を覆っていた煙も晴れ始めている。
そもそもフィルは、アペプと正面から戦うつもりはなかったのだ。もし戦うつもりであったなら、そもそもメリシャたちをここに連れて来るような真似はしない。
ティフォン、セト、九尾の三体でかかれば、あるいはアペプをねじ伏せられたかもしれない。
だが、ティフォンを継いでいるとは言え、元々竜種でないリネアには、先々代の竜王ほどの力はない。一歩間違えれば、逆襲され深手を負わされることもあり得る。それより防御の弱い九尾はなおさらだ。
リネアのために命を賭けるならともかく、それ以外でリネアを悲しませることなど、あってはならない。増してリネアが傷つくことなど絶対に許せない。
リネアと離れ離れにされたことで、フィルは自身やリネアが傷つくことに、以前より恐れを抱いていた。
だから、ティフォンやセトの力でアペプに対抗するのではなく、アペプとアセト、その存在の根源的な弱点を突く策を考えた。その要となるのはテトとイシスだ。
上流へと向かって盆地からの脱出を図るアペプは、その先に一隻の船が浮かんでいるのに気がついた。先ほど戦場から退避したはずの、メリシャやテトたちが乗る弩砲戦艦である。
(これは好都合ですわ)
アセトはほくそ笑む。セトと戦えず不機嫌になっているアペプには、格好の獲物だった。
愛娘であるメリシャを殺せば、流石のフィルたちも冷静ではいられないないはずだ。そこに付け入る隙ができる。更には、衰えているとは言えバステトやオシリスは神。力を取り戻される前に始末しておく方がいい。
ザバリと水面を割ってアペプの頭部が浮上し、左舷を向けて横向きに停泊している弩砲戦艦を正面にとらえる。
……瞬間、アセトは息を吞んだ。
弩砲戦艦の船縁に、人の姿に戻ったフィルが立っていたからだ。
一体、いつの間に…これもまさか、罠…?!
「テト!」
アセトが混乱した隙を突くように、フィルが叫ぶ。
「任せよ!」
シャンッとシストルムが澄んだ音を立てた。弩砲戦艦の甲板の上で、テトが舞い始める。それは、冥府の死者たちを天へと送る時に舞っていた、あの舞いだった。
こんなものでアペプをどうにかできると思ったのか…フッと嘲笑を浮べようとしたアセトだったが、その瞬間、ドクンと不快な脈動を感じて自らの胸を抱え込むように身を丸めた。
「…これは…一体…?!」
気が付けばアペプも突進を止めて、身を硬直させている。
(母上…苦しい…力が抜ける…)
(なんですって?!)
アペプの全身が淡く光を放っていた。よく見れば、それはアペプが光を放っているのではなく、アペプの内側から小さな光の粒のようなものが漏れ出していた。
無数の光の粒たちはアペプの鱗の間から外に出て、次々に空へと昇っていく。それは、アペプが食らい、自らの力として蓄えた死者の魂、バーであった。
アペプの力の根源である死者の魂が、アペプの中から強制的に排出されている。それは、アペプの力が急速に失われつつあることを意味していた。
「…一体、何をした?!」
アセトの叫びに、弩砲戦艦の甲板に立つフィルは、ただ黙って視線を向けるだけ。
「わたくしは今もあなたと繋がっている。それは、アペプに撃ち込まれた楔となるのです」
弩砲戦艦の甲板、フィルの隣に自身と瓜二つの人影が現れた。
「イシス?!」
「アセト、もうお終いにしましょう。アペプもすぐに力を失います」
やや悲し気な表情を浮べ、イシスは言った。
次回予定「変身 2」




